008:クロゼット

とあるアパートの一室の、扉の前。
一歩は、右手を上げた体勢のままで固まっていた。

初めて訪れた、宮田のアパート。
約束済みなのだから、躊躇うことなくインターフォンを押せばいいのだと分かっている。
分かっているが、緊張のせいかなかなか思い切れない。
しかし、いつまでもこうしているわけにもいかない。
一歩は、意を決してインターフォンを押した。

間もなく開かれたドアの向こうには、いつもの仏頂面の宮田の姿。
「あ、み、宮田くん、こんにちは!」
「……よう」
一言だけ返し、宮田は一歩を招き入れるように身体をずらす。
おずおずと部屋に入ると、目の前には思っていたより小さめの部屋があった。



宮田が入れてきたお茶を飲みながら、しばらくは他愛のない話などをしていた。
しかし、すぐに話題が途切れ、沈黙が下りる。
例の土下座の一件以来、一歩と宮田の間はギクシャクとしたままだ。
理由が分かった以上、一歩はもうその事に関して宮田にどうこう言う気はない。
わだかまりが全く失くなったわけではないが、それでも宮田の選択は一歩にとっても十分納得できるものだったからだ。
だから、本当なら以前のような関係に戻りたいのだが、そう思うようにはいかない。
あの約束が互いにとって余りにも強すぎて、一歩も宮田も、どうしても心の片隅から離れないのだ。
宮田の場合、自分が約束を破ったという負い目がある分、余計にどういう態度を取っていいのか分からないのかもしれない。

シンとした空気が気まずくて、一歩は何か話題はないかと落ち着きなく辺りに視線を巡らせる。
ふと目に付いたものを指差して、一歩は殊更明るい声で宮田に話しかける。
「ねえねえ、宮田くん。あれ、クロゼットだよね」
宮田はというと、いきなり何を言い出すのかと言いたげな顔だ。
「ああ……そんなに珍しいかよ」
「だって、ボクん家は押入れとタンスしかないもん」
そう言って、一歩は膝立ちでよじよじとクロゼットの前に移動する。
「いいなぁ、何かいかにも洋風って感じで」
ジッとクロゼットを見ていると、後ろで小さく笑う声が聞こえた。
慌てて振り返るものの、もう既に宮田の表情から笑みは消えている。
もったいないことをした……と、内心で肩を落とし、仕方なく視線をクロゼットに戻した。

「……別に、開けてもいいぜ」
「え!?
突然の宮田の言葉に、一歩は再び勢いよく振り返る。
「『開けたい、見たい』って、顔に書いてある」
「か、書いてないよ!」
「じゃあ、見たくねえんだな」
「……見たいです」
折角のチャンスを逃してなるものかと、一歩は素直な気持ちを口にする。

「いいぜ、別に見られて困るものも入ってねえし」
許可を正式に得たところで、一歩は胸を高鳴らせながらクロゼットを開けてみた。
中には、スーツを始めとして宮田の私服が整然と並んでいた。
意外と数が少ないが、宮田自身そんなに服にこだわる性格でもないだろうからこれくらいなのかもしれない。
カジュアルな私服も、どこか宮田らしい落ち着いた色合いの服ばかりだった。
宮田の私生活の一端を覗けた気がして、何だかくすぐったい気分になる。

一通り眺めた後、一歩はしゃがみ込んでクロゼットの空いた下のスペースを見つめる。
そんな一歩の様子に、宮田は不審そうに近寄ってきた。
「どこ見てんだ。そんなとこ見たって何もねえよ」
「え、あ……うん、ここ、隠れられるかなぁって思って」
「……は?」
思わず間抜けな声で返した宮田が、一歩の隣に屈んで同じようにそのスペースを見遣る。

「ボクさ、子供の頃、母さんに叱られるとよく押入れの中に隠れたんだよね」
懐かしそうに目を細め、一歩は照れたように笑う。
「ちょっとした籠城気分ってヤツかな。見つからないわけないんだけど。
 でも、母さんも普通に押入れ開けても出てこないの分かってるから開けないんだ。
 そんな風に放っとかれてる内に、だんだん不安になってくるんだよ。
 『もうボクは要らないんじゃないか』って。
 それで、我慢できなくなって、結局自分から出てきちゃう。
 そしたら母さんがそこにいて、笑って抱きしめてくれて……」
そこまで話して、一歩はハッとしたように黙ると顔を真っ赤にした。
「あ、ごめん、宮田くん。つまんないよね、こんな話」
「いや……。で、押入れがなくてクロゼットだったら隠れられるかって思ったのか?」
「……うん」
一歩は何となく恥ずかしくて、俯いたまま頷く。

ほんの少しの間の後、宮田がポツリと呟いた。
「……隠れてみるか?」
宮田らしくないとも思える申し出に、一歩は目を丸くする。
「え、でももう子供の頃みたいに身体も小さくないし……」
そこまで言ったところで、玄関の方からインターフォンの音が聞こえ、2人は同時に玄関に振り向く。
「ああ……多分、新聞屋だ」
宮田は立ち上がると、そのまま玄関に向かってしまった。

そんな宮田の背中を見送った後、一歩はクロゼットを覗き込む。
先程の宮田の言葉を思い出し、ちょっとした悪戯心が湧く。
一歩は出来るだけ音を立てないようにゆっくりとクロゼットに入ると、そっとクロゼットの扉を閉じた。

さすがにかなり狭いが、宮田の服が少ないことも幸いして、身体を小さく丸めて何とか収まることが出来た。
宮田の足音が戻ってきたのを感じ、一歩は息を潜める。

ついさっきの会話の流れと閉じられたクロゼットを見れば、一歩の居場所はすぐに分かるはずだ。
宮田がクロゼットを開けて一歩を見つけたら、一体どんな顔をするだろう。
きっと呆れた顔をするだろうが、それでも最後は笑ってくれるような気がする。
その瞬間を想像しながら、一歩は身動きもせずにじっと待った。

しかし、いつまで待っても目の前の扉が開かれる気配はない。
帰ったわけはないのだし、宮田はクロゼットに隠れていることを気付かないほど鈍くない……と思う。
思うのだが、余りにも動きがないので一歩もさすがに不安になってくる。
分かっていて、わざわざ捜す必要もないと放っておかれているのだとしたら。
そんなことはないと否定してみても、一歩の鼓動はどんどん早くなる。

そこからまたしばらく待った後、我慢しきれずに一歩は静かにクロゼットの扉に手をかけた。
体勢がキツくなってきたからだ、と自分に言い訳しつつ、僅かだけ扉を開いて部屋の様子を覗き見た。

途端、一歩は驚きのあまり大きく後退り、後頭部をぶつけてしまった。
「いっ……ったぁ〜……」
そんな一歩の様子を見て、宮田がおかしそうに笑っている。
「大丈夫かよ?」
笑いを滲ませた声で訊いてくる宮田に、一歩は勢い良く言い返す。
「宮田くんがいきなりアップで出てくるからじゃないか」
そう、宮田はクロゼットの真正面に座って見ていたのだ。
扉を僅かに開けて覗き込んだ瞬間目の前に現れた宮田の顔に、一歩は心臓が止まるかと思うくらい驚いてしまった。
結果、後頭部に思い切り衝撃を受ける羽目になってしまったのである。

少々憮然とした風にクロゼットから出てきた一歩を、宮田はまだ面白そうに見ている。
「『不安になって結局自分から出てくる』……だったか?」
そう言われて、宮田がクロゼットを開けずに放っておいた理由が分かった気がした。
「……宮田くんって、本当に意地悪だよね」
拗ねたようにフイと顔を背けた一歩は、突然掴まれた腕を引っ張られて体勢を崩す。
「え!?
気が付くと、すっかり宮田に抱きこまれるような形になっていた。
「み、宮田くん!?
うろたえながら宮田の名前を呼ぶと、一歩を拘束している宮田の腕に更に力が篭る。

「……で、『出てきたらそこにいて、抱きしめてくれた』んだったよな」
「え……」
「まあ、オレはお前のオフクロじゃねえけどな」
耳元で囁かれる声に、一歩は頬が熱くなるのを感じた。

そのままの体勢でどれくらい過ぎただろうか。
抱き込まれたまま、一歩が小さく呟く。
「宮田くんって、案外気障だよね」
「……言うな」
今回の行動は、宮田も自分で少し自覚があったらしい。
表情を見ることは出来ないが、きっと宮田も照れているのではないかと思う。



ここに来た当初の気まずい空気が、すっかり消えていることに気付く。
クロゼットって凄いなぁ……などとどこか場違いなことを考えながら、一歩は嬉しそうに笑って瞳を閉じた。







突然の1人暮らし設定に衝撃を受けたものの、折角なので使わなきゃ!……って事で。
その割に、今回のSSではイマイチその設定が活かされていないような気も。
まあ、きっとこの後は思う存分一歩を連れ込……いえ、ご招待できるでしょうから、勝負はここからですよ!

2007年8月27日UP

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