030:どしゃぶり

「勘ちゃん! この雲行きじゃ絶対に雨降るんだから、ちゃんと傘持っていってね!」
台所から響いたヨーコの声に、勘太郎は軽い調子で分かったと答える。
草履を履きながら、手に持った傘をじっと見つめる。

外は、朝から濃い灰色の雲が空を覆い隠している。
目的地に着くまでは保ったとしても、帰りには大雨になるであろう事くらい容易く想像できる。
この天気で傘を持っていかない馬鹿は、まずいないだろう。

そこまで考えて、勘太郎はクスリと小さく笑うと、持っていた傘を玄関にそっと立てかける。
音を立てて戸を引き、一度空を見上げてその暗雲に笑みを深くした。
そしてそのまま、勘太郎は傘を置き去りにして家を出た。





店を出た途端、激しい雨が勘太郎の行く手を阻んだ。
「どうした、一ノ宮」
勘太郎の後から店を出てきた蓮見が、勘太郎に声をかける。
が、勘太郎がその場で突っ立っている理由を悟ると、馬鹿にしたような──というよりも心底馬鹿にした笑みを浮かべる。
「何だ、雨具を持っていないのか。やれやれ、この天気で雨具を忘れる馬鹿がいるとはな」
実際に、口でも馬鹿と言った。
さすがに勘太郎もムッとするが、こう言われるだろう事は分かっていたので敢えて噛み付きはしなかった。

反論しない勘太郎に微かに眉を寄せた蓮見が、僅かな逡巡の後に軽く咳払いをした。
「……まあ、この雨ではいくらお前が馬鹿でも風邪をひきかねん。場合が場合だし、私の傘に入れてやってもいいが……」
視線を泳がせながら仕方なさそうにそう告げる蓮見に、勘太郎はわざと嫌そうな顔をしてみせる。
「え〜、蓮見と相合傘なんてごめんだよ! ほら、想像しただけで鳥肌が!」
「何だと貴様! 私だって貴様と相合傘なんぞ冗談じゃないが、厚意で言ってやっているんだぞ!」
顔を怒りで真っ赤にして、蓮見が食ってかかる。
そんな蓮見の予想通りの反応に内心苦笑しながら、勘太郎はそれに乗っかる形で言い返した。
「余計なお世話だよ、余計なお・世・話!」
ベッと舌を出すと、勘太郎は蓮見から顔を逸らした。
「……そうか分かった、勝手に風邪でも何でもひくがいい!」
そう言い捨てると、蓮見は足取りも荒々しくその場を立ち去ってしまった。

その後姿を見ながら、さすがにちょっと悪い事をしたかもしれない、と勘太郎は少し困ったように笑う。
蓮見が厚意で言ってくれている事は、十分に分かっていた。
何だかんだと言って、蓮見は人が好いし、面倒見も良い。
言い方に難はあるが、本当に勘太郎を心配して申し出てくれたのだろう。
勘太郎も、蓮見のそういうところは決して嫌いではない。

けれど、ここで蓮見の厚意を受けてしまったら意味がなくなってしまう。
ますます雨足が強くなっていく様子を眺めながら、勘太郎は店の入り口から少しずれた軒下に佇む。
地面に叩きつけられて弾かれた雨粒が勘太郎の草履を濡らしたが、さして気にならなかった。
むしろ、雨が強くなればなるほど嬉しくなっていく。

勘太郎は視線だけを周りに彷徨わせる。
もうそろそろだと思うのだが、まだだろうか。
そんな事を思いながら雨の幕を見つめていると、右方から人影が近付いてくるのが視界を掠めた。
だが、それには敢えて気付かない振りで、勘太郎はひたすら目の前の雨を見つめ続ける。

パシャ、と濡れた地面を踏む音が、少しずつ大きくなっていく。
その足音は、勘太郎のすぐ傍まで近付いたところで止まった。



「……お前、馬鹿だろう」
ため息混じりの、心底呆れたような声が降ってくる。
「ひどいなぁ春華。ご主人様を迎えに来た第一声がそれ?」
わざとらしく抗議してみるが、当の春華はまだ呆れ顔のままだ。
「この天気で傘を忘れるなんて、馬鹿以外の何物でもないだろうが……」
忘れたわけじゃないんだけど……と、勘太郎は心の中でだけ反論してみる。
だが、わざと置いていったと言っても余計に馬鹿呼ばわりされるかもしれないと考えて、その時の春華の顔が容易に想像できて小さく笑う。

「何笑ってんだ」
「ああ、ごめん。それより春華、迎えに来てくれたんだね。ありがとう」
ニッコリと笑ってやると、春華は僅かに戸惑うような様子を見せて目を逸らした。
「別に……。ヨーコが『傘持って迎えに行け』ってうるせえからな」
「……ふーん」
「……何だよ」
「別に〜?」
何か言いたそうな顔をした春華だったが、すっかりご機嫌な勘太郎の様子に毒気を抜かれたのか、そのまま黙って傘を差し出した。

差し出された傘を勘太郎はじっと見ていたが、それを受け取ると開かないまま手に持って春華の傘の下に潜り込んだ。
「おい、何してんだ」
「さ、春華、帰ろう!」
そのまま空いた方の手で春華の腕を取り、帰ろうとする。
「ちょっと待て! 何で自分の傘を差さねえんだ!」
「いいじゃないか、ボクは春華の傘に一緒に入りたいんだ」
ニコニコと笑いながらそう言うと、春華が一瞬言葉に詰まる。
「……狭いだろ、濡れるぞ」
「いいよ」
「……何のために、傘を持ってきてやったと思ってんだ」
「こうやって一緒に帰るためでしょ?」
「……本当に馬鹿だろ、お前」
諦めたのか、春華はため息をつくと勘太郎に促されるままに歩き出した。



雨の中を、2人で同じ傘に入って歩く。
たったそれだけの事が、とても嬉しい。
切り取られた、2人だけの空間を共有しているようで。
そんな事を言えば、きっと春華はまた呆れるだろう。
理解してもらおうとは思わない。
この想いは、自分だけ理解していればそれでいい。



頭上で雨が傘を叩く音が、先程までより少しずつ弱くなっている気がした。
「ねえ、春華。今度は、いつ雨が降るかなぁ?」
「……さあな」
そっけない返事が春華らしくて、勘太郎はクスリと笑みを漏らす。







せめて────家に着くまで、雨が止みませんように。







「どしゃぶり」で「春華と相合傘がしたい勘太郎」というイメージが浮かんで書きました。
勘ちゃんなら、春華を迎えに来させるために傘置いてくくらいは余裕ですると思います。
……もっとも、帰宅後はヨーコちゃんにこっぴどくお説教されると思いますが。
目的を達成したんですから、きっと勘太郎も本望でしょう……。

2008年2月5日UP

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