空港に向かうタクシーの中、一歩の視線はひたすら前方を向いていた。
周りの景色なんて目に入らなかった。
ただ、気持ちだけが急いて、身体も自然と前のめりになる。
どうか間に合ってほしい。
祈るような気持ちで、一歩は両手の拳をきつく握りしめた。
ジムで受けた、突然の電話。
最初に耳にした時は、聞き間違えたのかと思った。
しかし、決してそれは聞き違いなどではなく、現実だった。
ヴォルグが、ロシアに帰される。
どうして、ヴォルグが切り捨てられなければならないのか。
会長から事情を説明されても、即座に納得なんて出来なかった。
こんな手の平を返したような仕打ちあんまりだ、と。
けれど、決定してしまった事実はもう変えられない。
一歩には、それを変えられる権利などない。
何も出来ない自分に、一歩は唇を噛む。
そんな一歩の様子を見かねたのか、鷹村が空港へのタクシー代を立て替えてくれた。
その厚意に甘え、一歩はすぐにジムを飛び出した。
ロシアに帰ってしまったら、もう会う事が出来なくなる。
その前に、せめてもう一度だけでも会いたかった。
会って、それでどうしたいのかと問われれば、一歩は答える事が出来ない。
それでも、ただ、会いたい。その気持ちだけが一歩を動かしていた。
空港に近付くにつれて、心臓の鼓動がどんどんうるさくなっていく。
もし、間に合わなかったら。
そんな考えが頭を掠め、一歩の額にじんわりと冷たい汗が浮かぶ。
このまま、もう二度とヴォルグに会えなくなる。
一歩は、震える手をもう片方の手で抑え込むように握る。
きっと、大丈夫。きっと、間に合うはず。
自らに言い聞かせるように、小さく何度も呟いた。
幸いまだフライトまでは時間があったらしく、空港でヴォルグを見つけて話をした。
でも、一番言いたい言葉が口から出てこない。
何よりも伝えたかった事を、伝える事が出来ない。
それを伝える事は、優しいヴォルグを困らせ、辛い思いをさせてしまう事だから。
「サヨウナラ」
そのたった一言が、余りにも深く一歩の心に突き刺さった。
悔しさに唇を噛み締めながら、それでも笑顔でそう告げたヴォルグの強さが胸に痛かった。
遠ざかっていく後ろ姿に向かって開いた口からは、言葉ではなく微かな嗚咽が漏れた。
胸に抱きしめたヴォルグのグローブに、次から次へと雫が零れ落ちる。
どんどん歪んでいく視界で、初めて自分が泣いている事を知った。
周りに人がいる事なんて気にもならなかった。
涙を拭う事も忘れて、ただ零れるままに任せていた。
伝えたかった言葉。
告げられなかった想い。
ただ一言、「好き」だと伝える事すら許されなかった。
『会いたい』という小さな願いすら、決して叶わないものになってしまった。
もう、手が届かない。
優しかった笑顔も、暖かかった声も。
それでも、たった一つ、希望があるとするならば。
どうか、貴方が祖国で幸せでありますように。
別れって辛いですよね……。
原作でもこのシーンは涙しました。ヴォルグの笑顔が悲しすぎて。
初めて書くヴォル一がこんな悲恋でいいのか、と自分でも思わないでもありません。
でも、『見送り』というお題見た時に真っ先に思い出したのが空港シーンだったんです。