047:見送り

空港に向かうタクシーの中、一歩の視線はひたすら前方を向いていた。
周りの景色なんて目に入らなかった。
ただ、気持ちだけが急いて、身体も自然と前のめりになる。
どうか間に合ってほしい。
祈るような気持ちで、一歩は両手の拳をきつく握りしめた。



ジムで受けた、突然の電話。
最初に耳にした時は、聞き間違えたのかと思った。
しかし、決してそれは聞き違いなどではなく、現実だった。

ヴォルグが、ロシアに帰される。
どうして、ヴォルグが切り捨てられなければならないのか。
会長から事情を説明されても、即座に納得なんて出来なかった。
こんな手の平を返したような仕打ちあんまりだ、と。
けれど、決定してしまった事実はもう変えられない。
一歩には、それを変えられる権利などない。
何も出来ない自分に、一歩は唇を噛む。

そんな一歩の様子を見かねたのか、鷹村が空港へのタクシー代を立て替えてくれた。
その厚意に甘え、一歩はすぐにジムを飛び出した。
ロシアに帰ってしまったら、もう会う事が出来なくなる。
その前に、せめてもう一度だけでも会いたかった。
会って、それでどうしたいのかと問われれば、一歩は答える事が出来ない。
それでも、ただ、会いたい。その気持ちだけが一歩を動かしていた。

空港に近付くにつれて、心臓の鼓動がどんどんうるさくなっていく。
もし、間に合わなかったら。
そんな考えが頭を掠め、一歩の額にじんわりと冷たい汗が浮かぶ。
このまま、もう二度とヴォルグに会えなくなる。
一歩は、震える手をもう片方の手で抑え込むように握る。
きっと、大丈夫。きっと、間に合うはず。
自らに言い聞かせるように、小さく何度も呟いた。



幸いまだフライトまでは時間があったらしく、空港でヴォルグを見つけて話をした。
でも、一番言いたい言葉が口から出てこない。
何よりも伝えたかった事を、伝える事が出来ない。
それを伝える事は、優しいヴォルグを困らせ、辛い思いをさせてしまう事だから。

「サヨウナラ」
そのたった一言が、余りにも深く一歩の心に突き刺さった。
悔しさに唇を噛み締めながら、それでも笑顔でそう告げたヴォルグの強さが胸に痛かった。
遠ざかっていく後ろ姿に向かって開いた口からは、言葉ではなく微かな嗚咽が漏れた。
胸に抱きしめたヴォルグのグローブに、次から次へと雫が零れ落ちる。
どんどん歪んでいく視界で、初めて自分が泣いている事を知った。
周りに人がいる事なんて気にもならなかった。
涙を拭う事も忘れて、ただ零れるままに任せていた。



伝えたかった言葉。
告げられなかった想い。

ただ一言、「好き」だと伝える事すら許されなかった。
『会いたい』という小さな願いすら、決して叶わないものになってしまった。

もう、手が届かない。
優しかった笑顔も、暖かかった声も。




それでも、たった一つ、希望があるとするならば。
どうか、貴方が祖国で幸せでありますように。







別れって辛いですよね……。
原作でもこのシーンは涙しました。ヴォルグの笑顔が悲しすぎて。
初めて書くヴォル一がこんな悲恋でいいのか、と自分でも思わないでもありません。
でも、『見送り』というお題見た時に真っ先に思い出したのが空港シーンだったんです。

2004年4月28日UP

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