054:balance

三蔵は書類にサインをしていた手を止め、1つため息をつく。
固まっていた筋肉をほぐすように軽く首を回し、左手で右肩を揉む。
書類への集中が途切れると、途端に余計な事を考えるようになる。
それから逃れるように一心に仕事をしていたのだが、さすがにそれにも限界がある。
背凭れに背中を預け、三蔵は何を見るでもなく視線を浮かせていた。

そろそろ執務時間が終わる。
そうすれば、当然、三蔵は私室に戻る事になる。
戻った私室にいるのは……悟空だ。

悟空に会うのが嫌なわけじゃない。
むしろ、執務が終わり私室で悟空に迎えられると、疲れが少し和らぐ気がする。
たわいのないやり取りも、三蔵にとっては心地良い。

しかし、以前は普通に受け止められていた悟空の笑顔が、最近は三蔵の内に小さな淀みを生む。
その淀みの原因が、最初は分からなかった。
それを理解したのは、悟空がじゃれてしがみついてきた時だった。
三蔵の心の内の淀みが一気に増殖し、大きく波打ったような感覚に襲われた。

その『淀み』は…………欲望。
気付いた時、三蔵は呆然としてしまった。
そして────嫌悪した。
無邪気に自分を慕ってくる子供に、そんな感情を抱いた自分自身に。
三蔵には稚児趣味などないし、悟空もただの手のかかる養い子でしかなかったはずなのに。
何故、悟空が触れたところがこんなにも熱く感じるのか。
自分が信じられず、三蔵はその日から悟空の笑顔をまともに見られなくなってしまった。



考え込んでいる内に、執務時間をとうに過ぎている事に気付く。
今日中に決済しなければならない書類は既に終わっているので、もう私室に引き上げても良いのだが……気が進まない。
とはいえ、いつまでもこうしているわけにもいかない。
三蔵は重い腰を上げると、執務室を出た。



私室の扉を開けると、座り込んでいた悟空が弾かれたように顔を上げた。
「あ、三蔵! おかえり!」
悟空は嬉しそうに顔を綻ばせるが、勢い良くタックルをしてくる事はあまりなくなった。
以前しがみつかれた時、三蔵が自分の感情を思い知らされたショックで思わず悟空を強く引き剥がしてしまったためだ。
その事が少なからず悟空を傷付けてしまったのだろうと思うが、今の三蔵にはそれをフォローしてやる余裕すらない。
悟空が三蔵にしがみついてくる事がなくなり、安心した反面、どこか不快感を覚える自分の身勝手さが心底嫌になる。

三蔵は悟空の顔を見ないようにして、短い返事をしてからすぐに寝室に向かう。
「……三蔵、どうしたんだよ? ここんとこ、ずっと変だよ」
慌てて立ち上がった悟空が前に回りこみ、三蔵の顔を覗き込む。

「……別に、何もねえ」
真っ直ぐに見つめてくるその視線から逃れるように、三蔵は顔を背ける。
「嘘だ」
「何?」
間髪入れずに言い切った悟空に、三蔵は眉を寄せる。
と同時に、悟空が両手で三蔵の顔を掴むようにして強引に視線を合わせようとする。
「何もないなら、何で目を逸らすんだよ! そんなの、全然三蔵らしくねえよ!」
真っ直ぐに向けられる強い視線に、三蔵は動けなくなる。



いっそ、このままその小柄な身体を抱きしめてしまいたい。
唇を吸って、まだ少年らしい柔らかさを残した肌に所有の印を刻み込みたい。



甘美な誘惑に思考を侵されそうになり、三蔵の背筋を寒気が走る。
今、一体自分は何を考えたのか。
あくまで三蔵は保護者であり、悟空は被保護者だ。
少なくとも、悟空が成長し、独り立ち出来るようになるまでは。
そう、悟空は子供なのだ。だから、三蔵を純粋に慕う。
その子供に醜い欲望を向ける自分が、酷く下卑た人間に思えて吐き気すらする。

三蔵は目を閉じ、悟空に気付かれない程度にゆっくりと息を深く吸う。
再び目を開き、悟空の視線を正面から受け止めた。
そして、普段通りの自分を意識しつつ、三蔵の顔を掴んだままだった悟空の手を外させる。
「……少し、疲れているだけだ。近頃は仕事量が多かったからな」
「本当に、それだけなのか?」
「……ああ」
悟空に嘘を吐く事に幾ばくかの罪悪感を覚えたが、今だけは仕方がないと自分に言い聞かせる。

勘の鋭い悟空なのでまだ納得のいかないような顔をしていたが、これ以上問い詰められないと思ったのかそのまま引き下がった。
その事に、三蔵は内心で安堵した。
悟空の視線を真正面から受け止める事に、そろそろ耐えられなくなりそうだったからだ。


寝室で就寝の挨拶を交わし、明かりを落とす。
三蔵はベッドの中から、すぐ傍の布団に眠る悟空を見やる。
真っ暗な闇の中で、僅かに感じる悟空の気配。
安らかな寝息を立てる悟空は、三蔵に様々な感情をない交ぜにして与える。





保護者と被保護者のバランスを崩してはならない。
それを崩す事は、悟空の心に深く大きな傷を刻む事になるのだから。



例え、三蔵の本心が望むものがそこにあるのだとしても。







旅に出る18歳くらいまで成長すれば、三蔵も遠慮しなくなるんでしょうが……。
悟空の内にまだ親愛の情しかないのを分かっているからこそ、保護者であろうとする三蔵の内心にあるのは責任感かあるいは拒絶への恐怖か。
多分、本人にも分かってなさそう。

2007年1月24日UP

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