069:紫煙

一際大きな扉の開閉の音と共に、執務室から小さな影が飛び出す。
そして、他の僧達が視線を止める間もないほどのスピードで廊下を駆け抜けていった。



寺院内で1番樹齢を重ねた大木の枝の上に、悟空は座っていた。
その表情は、一言で表現するならば『ふくれっ面』と呼ぶのが最もふさわしいだろう。
そんな顔で、悟空は目の前に生い茂る枝葉を睨みつけている。

原因は、別にそんな重大な問題でもない。むしろ、客観的に見れば些細な事だろう。
3日後に三蔵と出かける約束が、急遽入った仕事のためにダメになってしまったのだ。
その事で散々口論をした結果、悟空はこうして木の上でふてくされている。

悟空だって、分かってはいる。
三蔵が悪いわけではない事も、仕方がない事なのだとも。
分かっていたけれど、ずっとずっと前から楽しみにしてたのに、という思いが悟空の中にはあって、素直に受け入れる事が出来なかった。
それを告げた時の三蔵の口調が、淡々とした風に聞こえたせいもあるかもしれない。
悟空はこんなにも落胆しているのに。こんなにも悲しいのに。
三蔵の大した事もなさそうな態度が、何だか無性に悔しかった。
楽しみにしてたのは自分だけなのかと思ったら、どうしようもなく悲しかった。



そよそよと風が吹き抜ける中、悟空は辺りを軽く見回した。
先程よりは幾分冷えた頭で考える。
約束を破ったのは三蔵だけど、それは不可抗力。
それを受け入れてあげられなかったのは、自分。
三蔵は、そんな自分をどう思ったのだろうか、と。
怒っただろうか。それとも呆れただろうか。

そんな事を考えていると、どんどん不安になってきた。
いつもならそろそろ見えるはずのものが、まだ見えない。
悟空がこんな風に拗ねてこの木のこの枝に座り込んでいると、それは必ず現れた。
降りてこい、と語りかけるかのように。
でも、それがまだ今日は見えない。
もしかしたら、今度こそ本当に呆れられたのかも、と悟空の鼓動が早くなっていく。

すると、ふと鼻の先を慣れた匂いが掠めていった。
それと同時に、悟空が待っていたものが微かに目に映る。
空へ上っていくにつれて、薄く消えかかっている紫煙。
木の枝によって暗く翳った空間に、僅かに揺れて消えていく。
それまで眉を寄せていた顔が、見る見るうちに安堵の表情に変わる。

大好きな大切な人が来てくれた合図。
そうだ、どんなに忙しくても仕事が大変でも、三蔵はいつだって悟空を迎えに来てくれた。
何も声をかけてはくれないけど、じっと樹の下で待っていてくれる。
悟空が降りてくるのを、ただ静かに。

それだけで、本当は十分なはずなのに。
傍にいればいるほど、望みは無限に高くなっていく。
それは仕方のない事なのかもしれないけれど、それじゃいけないのだとも思う。
望みすぎて、三蔵が疲れてしまわないように。
逆に、三蔵の望みを聞いて、少しでも疲れを癒してあげられるように。
悟空が今本当にしなければならないのは、きっとそれなのに。
なのに、こんな風に拗ねて三蔵を振り回している。

悟空は1度手をぎゅっと握ると、軽く跳躍して樹の下に舞い下りた。
そして、その勢いのまま三蔵にしがみつく。
「……ごめん、三蔵」
「何故お前が謝る」
「俺、ちゃんと待ってるから。だから、無理しないでゆっくり仕事片付けてよ」
「……何だ、いきなり」
怒っていたはずの悟空のこの言動に、三蔵は少し戸惑っているようだった。
「いいから。……俺、三蔵がいてくれるんなら、いくらでも待ってられるから」
そう告げて、悟空は三蔵に抱き付いている腕に強く力を込めた。







「紫煙」というお題を見て、真っ先に「三蔵」と連想しました(笑)
悟空にとっても紫煙といえば三蔵ですよね。
特に寺院の中では紫煙を燻らせるのは三蔵だけで、それが見えるのは大好きな人が傍にいてくれている証明なのですよ!
……という事で書いたSSです。

2004年9月17日UP

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