071:桜

ひらひらと花びらの舞い落ちる中、金蝉は桜を見上げていた。
薄紅色の洪水が金蝉の視界を覆っている。
淡い色彩の美しさに、金蝉は少し目を細める。

今まで、それこそ数えるのも馬鹿らしい年月が過ぎる間、金蝉はこの桜を何度も見ていたはずだった。
捲簾のように頻繁に出歩いたりはしないが、それでも書類を届けにいった折などには幾度となく目にしていた。
しかし、それはただ単に『視界に入った』というだけで、それ以上の感慨など何もなかった。

初めて、花を美しいと感じたのはいつだったか。
そうだ、あれは確か悟空が何処からか摘んできた花を嬉しそうに金蝉の執務机に飾った時だ。
それまではいつものくだらない書類のおかげで少々苛ついていたのだが、ほんの数輪の小さな花を見て何故だか気分が落ち着いた気がした。

それからは、同じ場所を通る時にも周りの木々や花に目を遣るようになった。
今まで何を見ていたのかと思うくらい、それらは美しさに溢れていた。

そして、悟空を連れて捲簾、天蓬らと桜の下で呑んでいた時に捲簾が口にした言葉が金蝉の気を引いた。
下界の桜はもっと美しい、生き様が違うのだ…………と。
今見ているこの桜よりも、もっと美しいという下界の桜。
それに強い興味が湧いた。

下界特有の美しさ。
それは限られた生命であるが故の、活動的な生命力に溢れたものなのだろう。
そう考えて、金蝉はふと悟空を見た。


下界で生まれ、天界に連れて来られた悟空。
この天界において悟空が一際目立つのは、何もその金晴眼のせいだけではない。
平穏という名の退屈に慣れた天界の住人には持ち得ない、力強い輝き。
それが、この停滞した世界の中には余りにも不似合いで目を引くのだ。

一度は、悟空を下界に戻そうと考えた。
けれど、悟空自身が金蝉や捲簾、天蓬と共ににいる事を望んだため、この天界に残した。
その時は、それでいいと思ったのだ。
しかし、時間が経つにつれて本当にそれで良かったのかという疑問が内に湧く。
例え今からでも、悟空を下界に帰した方が良いのではないか……と。
この天界で暮らす事で、悟空は果たして幸せでいられるのか。
一時の別離の悲しみに耐え、光溢れる下界で暮らす方が幸福になれるのではないか、とそう思うのだ。
もちろん、下界にだって醜い部分がたくさんあるだろう。
しかし、少なくとも鉄の枷に縛られ権力争いに利用されるようなここよりは、ずっと自由に生きられるはずだ。
自由こそが、きっと悟空の輝きの源なのだから。

そこまで分かっていても、結局今も悟空はこの天界にいる。
それはきっと、自分が悟空を傍から離したくないせいだ。
何度も、観世音菩薩に悟空を下界に戻せるのかどうか掛け合いに行こうとしたのだ。
ただ、悟空がいなくなれば、きっとまたあの退屈な日々が戻ってくるだろうと分かっているから。
つい、もう少し、もう少し…………と先延ばしにしてしまって今日に至る。


ざあっと強い風が吹き、桜の枝が大きく揺れて花びらが舞い散る。
と同時に、背後に感じた気配に金蝉は振り向いた。
「あ〜! 折角『わっ!』って驚かそうと思ったのに……」
見ると、そこには思惑が外れたらしい悟空が膨れっ面で金蝉を見上げていた。
「何をくだらねえ事企んでやがる。遊びに行ってたんじゃなかったのか」
「だって、部屋に帰ったら金蝉いないんだもん」
それで金蝉を探していたらこの桜の下に金蝉を見つけ、ついでに驚かしてやろうと思ったらしい。

「金蝉、桜見てたのか?」
「……ああ、書類を届けにいったついでにな」
「キレーだよなー」
嬉しそうに桜を見上げる悟空に、金蝉は思わず尋ねていた。
「下界の桜も綺麗か?」
突然の質問にキョトンとした顔を見せた悟空は、次にうーんと唸り出した。
「んー、俺も桜は近くになかったから見た事ないけど、でも多分、俺はこっちのがいいよ」
「どうして」
「だって、ここには金蝉がいるもん」
そう言って笑った悟空の頭を、金蝉はぐしゃぐしゃと少々乱暴に撫でてやった。

もう少し。もう少しだけだ。
そう自分の心に言い訳をして。







まるっきり、子離れ出来ない親のようですね、金蝉。
いえ、実際に出来てないと思われますが(笑)
分かっていても、もう少しだけ自分の傍にいてほしい……と願ってしまうんですね。
このSSは、最後の悟空のセリフが書きたくて書いたようなものだったり。

2005年1月29日UP

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