073:水面

冷たい空気が頬を撫でる中、一歩はいつものように土手でロードワークをしていた。
空は抜けるような青空であるが、今はその青が尚更冷たく感じる。
走る足を止め、その場でシャドーをする。
身体の調子は悪くない。むしろいい方だ。
しかし、そのシャドーには普段のキレがない。
ほんの僅かな違いなのだが会長には見抜かれてしまったらしく、ミット打ちもそこそこにロードに叩き出された。
会長には敵わないなぁ……と思いつつ、一歩はまた走り出す。

しばらく走ったところで、一歩は立ち止まった。
その視線は、土手の斜面に注がれている。
そこは、まだ一歩が鴨川ジムに入門したての頃に宮田と話した場所だ。

一歩は斜面を少し下りると、休憩を兼ねてそこに腰を下ろして目の前の川をぼうっと見つめる。
あの時は隣に宮田が座っていて、珍しく色んな事を話せた。
普段は無口な宮田が自分の事を話してくれた事は、今から考えるととても凄い事だったに違いない。
今訊いても大して話してくれないだろうなと思って、一歩の表情が暗くなる。
あれからもう何年も経つけれど、宮田との距離は縮まるどころが遠ざかってるんじゃないかと、そんな思いに捕われる。
あの頃の方が、自分は宮田に近い位置にいたんじゃないかと。

ざわざわと胸に湧き上がってきた思いに、一歩はぶんぶんと大きく首を横に振る。
頭を冷やそうと、一歩は立ち上がって川べりに歩いていった。

川の水を掬って、バシャバシャと顔を洗う。
この季節、川の水はとても冷たかったけれど、今の一歩には却って丁度良かった。
痛むほどに冷たい水が、不毛な方向へ向かう思考を引き戻してくれそうで。

手の平で簡単に顔の水を払うと、ふと川の水面に自分の顔が見えた。
水面に映る顔は、不安そうに眉を寄せ、何かに耐えるようにじっと目の前を見つめている。
こんな顔でジムに戻ったらまた会長にどやされるだろうな、と、一歩は苦笑する。
どうしてこんな顔をしているのだろうと考えても、その答えは分かり切っている。


宮田の事を考えているからだ。


いつからだったんだろう。
確かに、最初から宮田に対して憧れはあった。
だけど、それはあくまで強い者への憧れでしかないはずだったのに。
いつから、宮田への感情が変わってしまったんだろう。
変わらなければ、きっと今まで通りにライバルとして接する事が出来たはずなのに。

でも、もう変わってしまった。もう戻れない。
宮田を今までと同じように見る事は出来ない。
だから、今は宮田に会えなかった。
会えば、きっと不自然な態度を見せてしまう。宮田に怪しまれてしまう。
宮田に自分の気持ちを気付かれる事だけは避けたかった。
ライバルに、しかも男に想われているなんて知ったら、きっと宮田は嫌がるだろう。
気持ち悪いと思うに違いない。
好かれようなんて贅沢な事は思っていないが、宮田に軽蔑だけはされたくなかった。

そのためには、強くいなければならない。
宮田への想いに心を乱されてペースを崩しているなんて、そんな弱い自分ではいけないのだ。
来るべき約束の日のために、自分はもっともっと強くならなければいけない。
宮田が、あの約束に拘り続けて良かったと思える試合が出来るように。

「……分かっては、いるんだけどな」
分かっていても、そう簡単に気持ちの整理が出来るものなら誰も苦労はしない。
今の自分に出来る事は、少しずつでも宮田への想いを落ち着かせる事だけだ。
普段の自分に戻れるように。宮田にも誰にも気付かれないくらい、いつもの自分に。
そのためには、やはり一歩にとってはボクシングに打ち込むしかない。

一歩は顔を映し込んだ水面に軽くジャブを打つと、立ち上がってロードに戻るべく土手をダッシュで駆け上がった。







かなり無理やりな終わらせ方になっている気がする(汗)
ひたすら一歩が悩んでます。一歩の性格じゃ、とても宮田に告白なんて出来そうもありません。
これじゃ『宮田←一歩』みたいですが、何故『宮田×一歩』と表記してるかといえば、私にとって彼らは当然のように(笑)両想いだからです。
なのに、一歩は奥手だし、宮田は素直じゃないしで……ああもうじれったい。

2004年2月23日UP

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