076:磁石

警視庁からの帰り道、すっかり暗くなった道をはじめは歩いていた。
いつもの如く巻き込まれた事件の調書を取るのに思いの外時間がかかってしまい、こんな時間になってしまった。
剣持は家まで送ってくれると言っていたが、終電までまだ時間があるし、新たな事件の報が入った事もあって辞退した。
女の子でもあるまいし、この程度遅くなったくらいでこれから忙しくなるのが分かり切っている剣持に送ってもらうほどはじめも図々しくない。

帰ったらクラスメイトから借りたゲームでもやろうかと考えながら歩いていると、視界の隅に赤いものが引っ掛かった。
「……花びら?」
赤い、花びら。
そして、ほんの少し見えた後にすぐに道の角に消えてしまった姿に、はじめは身体をこわばらせた。
「高遠……!」
その名が口をついて出たと同時に、はじめは走り出した。

暗い夜道。ほんの一瞬の姿。
本来ならあれが高遠であると判別する事すら難しい状況だ。
しかし、はじめはあれが高遠だと確信した。
何故かなんて分からない。ただ……直感した。あの男だと。




息を切らして辿り着いたのは、小さな廃ビル。
ここにいるという確証はないが、はじめは慎重に周りを警戒しながらゆっくりと中に入り込む。
息を殺して、足音を出来るだけさせないように気をつけつつ周囲を探る。
静寂だけが支配している空間で、徐々にはじめの心拍数が上昇していく。
追ってきてしまって、本当に良かったのか。
追うより先に、明智なり剣持なりに連絡すべきではなかったか。
だが、高遠をこの目で見た以上、引き返す気にはなれなかった。

その時、闇の中から声がかかった。
「こんばんは、名探偵君?」
その声を認識した瞬間、はじめは勢い良くそちらへと振り向いた。

そこには、変装も何もない素顔に冷笑を貼り付けた高遠が佇んでいた。
腕を組んで壁に凭れ、悠然とはじめを見やるその姿は、追われ、逃げるべき犯罪者には見えなかった。
優雅さすら漂わせたその男は、組んだ腕を外し、ゆっくりと壁から身を起こす。
そして、数歩はじめの方へと歩みを進めた。
はじめは無意識の内に、じり、と後退る。

「おや、何故逃げるんです? 私を捕まえにきたのではなかったんですか?」
揶揄するように笑う高遠に、はじめは後ろに下がりかけた足を止める。
「……ああ、そうだよ」
「なら、どうぞ? ……もっとも、君に出来るなら、の話ですが」
軽く手を広げて立っている高遠を、はじめはキツく睨みつけた。

実際、頭脳戦ならともかく腕っぷしで高遠に敵うはずなどない事は、はじめ自身が一番良く分かっている。
今、高遠に掴みかかって捕まえようとしたところで、返り討ちに遭うのがオチだ。
捕まえるどころか、逆に殺される可能性の方が遥かに高い。
高遠を捕まえるには、十分な準備と警察の力がどうしても必要になる。

しかし、それが分かっていても、高遠を目の前にして見逃す事など出来ない。
高遠は絶えず次の犠牲者──高遠曰く『マリオネット』──を探しているのだから。

「……余裕じゃん。俺じゃお前を捕まえられないとでも思ってんのか?」
わざと挑戦的な笑みを浮かべながら、はじめは両手をジャケットのポケットに突っ込んだ。
目は高遠を見据えたまま、右手の指先に触れた携帯の短縮ダイヤルのボタンを押す。
剣持にとも考えたが、察しの良さを考えて明智の番号にした。
おそらく明智はまだ警視庁にいるはずだ。
明智なら、すぐに状況を理解し逆探知なり何なりして場所を特定してくれるだろう。
はじめはそれまで、高遠をこの場に留めていればいい。

笑みを浮かべたままはじめを見つめていた高遠が1歩踏み出すと、はじめの背後で何かが倒れるような物音がした。
咄嗟に振り向くと、壁に立てかけてあった廃材が倒れているのが目に入る。
その瞬間、右手首に痛みを感じてはじめは慌てて視線を戻した。
いつの間にかすぐ傍まで接近していた高遠が、はじめの右手首を掴んでいた。
ギリ、と力を篭められ、はじめの手から携帯が落ちる。
高遠はそれを空いた手で受け止めると、面白そうに笑う。
「この私が、そんな小細工に気付かないとでも思いましたか?」
高遠の手の中の携帯を睨みながら、はじめは唇を噛む。
携帯の画面の、おそらくは発信先を見たのであろう高遠の表情からスッと笑みが消える。
しかしそれもほんの僅かの事で、すぐにまたいつもの冷笑が浮かんだ。
そのまま携帯の電源を切るかと思ったが、高遠は通話状態のまま携帯を耳に当ててしまった。
「おい……!」
焦った声を上げたはじめをチラリと見た後、高遠は携帯の向こうの人物に話しかけた。

「こんばんは、明智警視。お久しぶりですね」
声だけを聞くと優しげに聞こえるが、その眼は恐ろしく冷たい色をしている。
「確かに今この携帯を持っているのは私ですが、貴方へかけたのは私ではありませんよ」
どういう意味か貴方なら分かりますよね、と薄く笑う高遠は、ちらりとはじめに視線をやる。
「何をしたとしても、貴方には関わりのない事だと思いますが?」
明智の声ははじめには聞こえないが、少しの間を置いて、高遠がクッとおかしそうに笑うのが見えた。
「貴方がどういうスタンスを取ろうと関係ありませんが、仮面を被り続ける姿はいっそ滑稽ですよ」
高遠は見下すような視線を携帯に向ける。
「分からないフリをしていたいなら結構。貴方はそのまま愚かしいダンスを踊っていればいい。全てを失うその時まで……ね」
そう告げると、高遠は通話を切り、携帯を床に落とす。
高い音を立てて、携帯が転がる。
その携帯を拾いたくても、未だはじめの手首は高遠に掴まれたままだ。

はじめは手を振り解く事を諦めると、高遠を強く睨み上げた。
「……お前、何がしたいんだよ。俺を殺す気か?」
「まさか。殺しませんよ、もったいない」
「もったいない?」
不審そうに眉を寄せ、はじめは聞き返す。
「ええ。良き舞台は良き観客がいてこそですし、私の知る限り君は最良の観客だ。今のところはね」
「殺人なんていう『舞台』が、良い舞台なわけあるかよ!」
「君なら、そう言うでしょうね」
言いながら、高遠ははじめの顎を取り、上向かせた。

「君は、何から何まで私の対極にいる。価値観も考え方も心の在り様も」
今までにないくらい間近にある高遠の顔に、はじめは顔を引こうとするが顎を捕らえられているためにそれも叶わない。
「しかし、だからこそ、何より強い『引力』がそこに生まれるのだと思いませんか?」
「……引……力?」
「そう。安直だが分かりやすい例えをするなら、磁石のN極とS極が強く引かれ合うように」
妖艶と評してもいいほどの微笑を、高遠は浮かべた。
「私と君の間にも、抗いがたい『磁力』がある。他の誰にも感じないような、磁力がね」
そう囁く高遠の眼はとても深い色に見え、はじめはくらりと眩暈を覚えた。
そのまま吸い込まれそうな錯覚を感じ、はじめは慌てて視線を逸らそうとする。
しかし、まるで眼が固定されてしまったかのようにその視線を外せない。

ダメだ、惑わされてはいけない。
この男の言葉を聞いてはいけない。
この眼を、これ以上見つめていてはいけない。

────逃げなければ……!
本能的にそう感じた。
早くこの男の腕から逃げ出さなければ、取り返しのつかない事になるような気がして。
何か、もう戻れないところに連れて行かれそうな錯覚を覚え、ゾクリと背筋に冷たいものが走る。

はじめはギュッと目を閉じると、渾身の力を込めて高遠の腕を振り払い、突き飛ばした。
思いの外あっさりと離れたその身体から、2、3歩遠ざかる。

高遠はといえば、別段驚いた様子もなく笑みを浮かべたままはじめを見ている。
「何を、怯えているんです?」
何もかもを分かっているような顔で、高遠は微笑む。
「……誰が、怯えてるかよ」
「おや、そうですか? その割には、随分と顔色が悪いですが」
「暗いからそう見えるだけだろ」
「そうですか? まあ、別にいいですけどね」
全てを見抜かれているような感覚に、はじめは僅かに唇を噛む。

数分ほど、2人とも何も言葉を発しない時間が過ぎる。
不意に、高遠が踵を返した。
「どこ行くんだよ」
「ここで黙って突っ立っていても仕方ないでしょう? とりあえず、今日は引きますよ」
そのままはじめの横を通り過ぎて、ビルの出口へと向かう。

慌てて振り向いたその時には、高遠の姿はもう見えなかった。
すぐにビルを飛び出したが、辺りには全く人影など見当たらない。

安堵とも落胆ともつかぬため息をついた時、背後から声が聞こえた。
「…………また、会いましょう、名探偵君。その時は…………」
聞き終わらぬ内に振り返るものの、やはりそこには誰の姿もない。



『その時』も何もあるものか。
『磁力』なんてものも存在しない。いや、存在してはいけない。
それが存在している事を認めてしまったら、自分が変質してしまう気がして恐ろしかった。

はじめは何度か首を大きく横に振ると、ビルの中の暗い闇を睨みつけた。
強い決意と、ほんの僅かな痛みを含んで。







100のお題はSSSのはずだったのに、いつの間にやら普段のSSに近い長さに……。
高金と呼ぶにはぬるい代物かもしれませんが、私的高金萌えを凝縮してみました。
高遠さんにはやはりいつでも余裕しゃくしゃくでいてほしい。
そして、楽しそうに(しかししつこく)金田一に執着してほしい。
金田一サイドの2人の関係の『始まり』。そんなイメージで書きました。

2006年5月9日UP

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