コト、と本を読むナルの前に紅茶を置く。
相変わらず、ナルの読んでいる本は横文字だらけで麻衣には何が何やらさっぱりだ。
「……何だ?」
ついジッと見ていたらしく、その視線に気付いたナルが不審げな目を向ける。
「別に、何の本なのかなーって」
「麻衣に理解できる本ではないと思うが」
「えーえーそうでしょうよ! おバカですみませんね!」
いい加減慣れたとはいえ、相変わらずの物言いに麻衣はプイと横を向く。
それでも、こんな時間が麻衣は好きだった。
一時は、もう二度とやってこないと思った時間。
ジーンの遺体が見つかり事務所が閉鎖されたら、もう会えないと思った。
イギリスに帰って、それきりだ。日本にやってくる理由もない。
けれど、日本分室の継続許可が下りて、時間はかかったけれどナルもリンもここに戻ってきてくれた。
ぼーさん達も以前と変わらずここに顔を出してくれる。
それが、麻衣にはたまらなく嬉しかった。
そんな気持ちが顔に出ていたのだろうか、ナルが眉を顰める。
「……何か、おかしなものでも食べたか?」
「何よそれ!」
「緩んだ顔が気持ち悪い」
心底嫌そうな顔で言うところが、実にナルらしい。
「しょうがないじゃん、嬉しいなーって思ったんだから!」
「目的語を省くな」
紅茶を一口飲んで、ナルがため息をついている。
本当にこの男は『他愛のない会話』が出来ないのだと、つくづく思う。
けれど、今更ナルにそれを期待しても無駄だということも分かっている。
「……だって、ナルが日本に戻ってきてくれたんだもん」
「それが、嬉しいのか?」
「うん。何かおかしい?」
「…………罵られるのが好きなのか?」
麻衣としては、罵ってる自覚があったことが意外だ。
「そーじゃなくて! ほら、アレよアレ!」
「……会話をする気がないのなら、本に集中したいから出て行ってくれないか」
「だーかーらー、……す、す、す……好きな人が! 近くにいると嬉しいでしょ!?」
若干どもってしまったが、最後まで言い切ってヨシ、とガッツポーズをする。
ナルには既にあの湖で一度気持ちを告げてしまっている。
今更隠すことではないが、それでもやはり勇気はいるものだ。
だが、ナルはただ麻衣を見返すばかりだ。
「……麻衣が好きなのは、ジーンだろう?」
何を言っているのか、とでも言いたげな顔でナルが問う。
確かに、麻衣は夢の中のナル──ジーンに恋をしていた。
優しいあの微笑みが好きだった。
けれど、ナルがイギリスに帰ってから、ずっとずっと考えていたのだ。
麻衣が恋をしたのは、本当にジーン『だけ』だったのか、と。
「あたしはジーンが好きだったよ。ううん、今でも好き。
でもあたし、思うの。あたしは『夢の中のナル』だけが好きだったわけじゃないんだって。
湯浅高校の事件でマンホールに引きずり込まれたとき、手品であたしを元気付けてくれたのはナル。
緑陵高校でのときに落っこちてきた天井からあたしを庇ってくれたのも、
事件が終わったあとにあたしのことを気遣ってくれたのも、ナルだもん。
あたし、夢の中だけじゃない、現実のナルにもきっと一緒に恋してたんだってそう思うの」
ナルがいない間に考えていたことを告げて、麻衣はナルの反応を待つ。
驚いたように麻衣を見ているナルの表情が珍しくて、少し笑う。
すぐに表情を整えたナルは、口元に手をやってほんの少し考え込むような仕草をした。
「……ぼくとジーンのどちらも好きだということか? そういうのを……ああ、日本語で何と言ったかな」
「二股って言いたいの?」
「そう、それ」
「ふっ、二股なんかじゃないよ!」
とはいえ、冷静に自分の発言を思い返してみればそれに近い感じは確かにする。
そもそも、ひとりの人間だと思い込んで好きになったのだ。
好きになった要因をそうそう綺麗にキッパリと分割できるものではない。
「あたしにも、まだよく整理できてないの。でも、ナルを好きなのは本当」
こうして今でも一緒にいられることが、幸せだと感じるくらいには。
会えなくなることが、あんなにも辛いと泣いてしまうくらいには。
麻衣の言葉を最後に、時計の針が時を刻む音だけが部屋を満たす。
しばらくはそのまま待っていた麻衣だが、こうも沈黙が続くといい加減に焦れてくる。
「えっと……そろそろ、何か言ってくれない?」
そう言うと、ナルが顔を上げる。
「麻衣は、ぼくに返事を求めているのか?」
「そっそりゃ……好きって告白したら返事が気になるのは当たり前じゃない!」
「そうか……」
「そうか、じゃなくてさ……」
頭が切れるくせにこういったことにはとことん鈍いのは知っていたが、それにも限度がある。
再び黙ってしまったナルにもう一度言い募ろうと口を開いた矢先に、ナルの視線が麻衣に向いた。
「麻衣」
「は、はい!」
何故かつい敬語で返事をしてしまう。
「正直なところ、ぼくは自分自身の感情も含めて、現状を完全に理解できていない」
つまりは、どういうことなのだろう……と麻衣は首を傾げる。
「麻衣にも分かりやすく言うと、要はどう答えたものかまだ分からない」
「うん……」
「だから……悪いが、しばらく返事は保留させてくれないか」
困ったように告げるナルに、麻衣は分かった、と頷いた。
ナルはどうしてこう、理屈でばかり物を考えようとするのだろう、と苦笑する。
心は、感情は、理論で説明できるものばかりではないのに。
それが、恋心であるならば尚更だ。
でも、焦る必要はないのかもしれないとも思う。
何せ、あのナルが「返事は保留したい」などと言ったのだ。
脈がなければ、それはもうハッキリキッパリ即答でフラれていただろう。
そうでなかったというだけでも、十分に望みはあると信じていいような気がした。
単なる希望的観測でしかないかもしれない。たとえ、そうでもいい。
これからもたくさん頑張って、ナルに承諾の返事をさせればいいのだ。
「気長に待つよ、大丈夫」
そう言って笑うと、ナルにもほんの僅かに笑みが浮かんだ気がした。
コミックス最終巻を読み返して、無性に書きたくなったナル麻衣です。
ナルに脈があるっぽい話を、初めて書いた気がします……。
ジーンだけじゃなくて本当のナルに対しても、麻衣の「好き」って気持ちはあったんじゃないかって思って書きました。
ナル麻衣好きなんですよ! 好きなんです!