099:色彩

守りたいものを守れなかったあの日から、世界は黒と白の濃淡でしかなくなった。
咲き乱れる花も、晴れ渡る空も、涼やかな音を立てて流れる川も。
今の自分にとっては、何の意味も持たない。
以前は、確かに美しいと思った事もあるはずだった。
光明三蔵に連れられて出かけた先で見たお気に入りだというその風景は、彼の人の穏やかさをそのまま写したかのように優しい色合いを見せていた。

しかし、今はもうその色彩は目に映らない。
目の前にはただ、くすんだ『モノ』があるだけだ。
全てはモノクロ。
それで十分だと思った。
美しいと思う心など必要ない。
ただ、光明三蔵の形見である聖天経文を取り戻せるだけの力さえあればそれでいい。

そんな風に、何年経っただろう。
情報を得るために仕方なく着院した慶雲院で出会った大僧正。
性格も年齢も違いすぎるはずなのに、何故か光明三蔵の影が重なった。
この食えない老僧との邂逅で、モノクロの世界に、ほんの少し揺らぎが生じた。




それからしばらくして、『声』が聞こえ始めた。
余りにも煩いその声に辟易して、ぶん殴ってやるつもりで見つけ出した。
もっとも、そのバカ面に気を殺がれ、結局殴らずじまいだったけれど。

チビでバカ面で大食らいの騒々しい小猿。
騒ぎは起こすわ仏具は壊すわ寺院の食糧を食い尽くすわ。
後始末が面倒な事この上ない。
手が痛い余りにハリセンまで躾用に購入する羽目になるくらい、何度ぶん殴ってやったか分からない。

なのに、何故だかこの小猿を厭わしいとは思わなかった。
散々迷惑をかけられているはずなのに。
それでも、自分の手元から離す気にはならなかった。




「三蔵」

呼ぶ声が聞こえる。
岩牢から出してやったのに、この小猿は呼ぶ事を止めない。




「三蔵。俺、三蔵が大好きだ」

何が嬉しいのか、小猿が無邪気に笑う。
一体自分のどこが好きだというのか、はっきりいって理解に苦しむ。




そんなある日、小猿に引っ張られて街の外れまでやってきた。
張り切って先を指差す小猿の視線を、何気なく追う。

「ほら、三蔵、あれ! キレイだろ?」

その指の先に見えるのは、野生の花々。
赤や黄や白、薄紅色……まさに色とりどりの……。

ふと、気付く。
目の前に見える光景に。

そこに見えるのは、鮮やかな色彩。
もう、とうの昔に失っていたはずの色。
当たり前のようにそこに存在する色に気付き、ほんの一瞬、言葉を失くす。



その時不意に、小猿を手放さなかった理由を悟った。



この小猿が、色彩を連れてきた。
そしてきっと、去る時は色彩を連れていく。

だから、離せなかった。
これからもきっと、離せはしないだろう。
色彩の鮮やかさを思い出してしまったら、もうモノクロの世界には戻れない。

この小猿の手を掴む事が正しいのか間違いなのか、それは分からない。
けれど、それが間違いだとしても、もはや手遅れだ。
その手を掴んだ自分を、自覚してしまったから。
掴んでしまった手を、離す事は出来ない。




「ああ……そうだな」

そう答えながら、色とりどりの花の眩しさに目を細めた。







何だかポエムみたいなSSSになりましたが、その辺はご愛嬌。
知らず知らずのうちに、小猿に影響される最高僧。
もうすっかり心奪われてます。というか三蔵、小猿小猿言いすぎ。
ある瞬間を境に劇的に変わるんじゃなくていつの間にか……って感じを出したかったんですが、伝わりましたでしょうか。

2006年4月22日UP

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