ベルカが、泣いている。
何かを呟きながら、涙を流している。
何を?
『リンナ』
ベルカの唇がその名を形作ったような気がしたのは、自分の思い込みだろうか?
いや、違う。
ベルカは、リンナの名を呼んで泣いているのだ。
「殿下……」
駆け寄りたいのに、足が縫い付けられたかのように動かない。
「殿下!」
叫んでも、声は決して届かない。
それでも、必死に手を伸ばす。
ここにいると。私はここにいますと、そう知らせたくて。
「ベルカ殿下!」
瞬間、目に入ったのは、薄暗い天井。
荒い呼吸が整う頃に、ようやく今まで見ていた光景が夢だったことを知った。
ふと、気配を感じた。
視線を流すと、そこに映ったのは冷えた笑みを浮かべたキリコだった。
「どうした、オルハルディ。顔色が悪いな。嫌な夢でも見たか?」
すべてを見透かしたような笑みで、キリコはリンナの顔を覗き込む。
「ベルカ王子の夢か? 遠く離れた主を夢に見る、か。大した忠誠心だな。
いや……忠誠心だけではないな。そうだろう、オルハルディ?」
リンナが答えられずにいると、キリコの手がそっとリンナの髪に触れる。
「夢の中のベルカ王子の髪は柔らかかったか?」
言いながら、ゆっくりと指でリンナの髪を梳く。
「それとも、触れられなかったか。伸ばした手は、届かなかったか?」
まるでリンナの夢を覗き見ていたかのように、キリコは笑いながら口にする。
「おまえとて男なのだから、考えることはあるだろう」
何を、と目で問うリンナに、キリコは笑みを深くする。
「こうして、髪に触れたい。肌に口付けたい。……すべてを、自分だけのものにしたい」
一瞬、息が止まる。
「ただ、説得するだけだ。それだけで、おまえの願いは叶う」
自由に動かない身体で、僅かに首を振る。
それは、決して認めてはならないこと。
そんなリンナの様子を、キリコは面白そうに見つめている。
「今頃、ベルカ王子はどうしていらっしゃるのだろうな。
おまえが死んだと思い込み、さぞ悲しんでおいでだろう」
そうだ、ベルカはリンナが生きていることを知らない。
優しいベルカはきっと、リンナの死に責任と後悔を感じているに違いない。
「逢いたいだろう? ベルカ王子に。そして、ベルカ王子もまた同様だろう」
ベルカに逢いたい。そんなこと、問われるまでもないことだった。
「逢いたいなら、決断することだ。殿下もおまえも幸福になれる提案だ。何を迷う必要がある」
自分達だけの幸福を求めるならば、それでも良いのかもしれない。
けれど、ベルカは決してホクレアを────新月や天狼を、切り捨てられない。
夢によって覚醒していた意識が、再び揺らめきだす。
「また、ベルカ王子の夢を見るか」
キリコの声が、徐々に遠くなっていく。
「何度でも夢を見るといい。決して届かない苦しみは、いつか必ずおまえの心を変えていく」
変わることなどあってはいけない。何よりも、ベルカのために。
「イエスと言わない限り、おまえの手も声も、二度と殿下には届かない。
……それを理解した頃に、また来る」
そんな日は来ないと、そう告げることも出来ないまま、リンナはその意識を手放した。
「……眠ったか」
キリコは小さく呟くと、口角を僅かに上げる。
「本当に、意志の固い男だ」
よほど自制心に長けているのだろう、決してキリコの甘言に頷くことをしない。
ベッドの上に投げ出されたリンナの手を、殊更ゆっくりとした動作で持ち上げる。
「だが、そういう強情さは……嫌いではない」
相手には決して聞こえていないことを承知の上で、キリコは言葉を続ける。
「その意志の固さ故に、おまえが苦しみ葛藤する様は……とても心地良い」
呟きながら、キリコは持ち上げたその手の指先に、軽く口付ける。
「ひたすらに真っ直ぐなおまえには、一生理解できない感覚だろうがな」
目を細め、キリコはその手をそっとベッドの上へと戻す。
「その意思が崩れ落ちる日が、楽しみだな」
その時は、優しく手を差し伸べてやろう。
そうしてこの男がその手を取れば、もう逆らうことは出来なくなる。
薬など使わずとも、愛おしい従順なお人形の出来上がりだ。
キリコは冷たく笑い、もう一度だけリンナの髪をサラリと撫でると、静かに部屋を出て行った。
ドSなキリコを書くのが楽しくて仕方ないんですが、どうしたらいいですか。
というか、キリコはこんなとこで何してたんだ。
むしろ、リンナが夢にうなされて目覚めなかったら何をしようとしてたの、みたいな。
「心の狭間」のおまけ版みたいな感じになったので、小ネタとしてアップ。