「……『おめでとう』って、言ってくれないのか?」
聞こえた声に顔を上げると、ベルカがどこか泣きそうな笑みを浮かべてリンナを見つめていた。
ベルカは、リンナに求めている言葉がどれほど残酷なものか分かっていない。
本当は、言いたくなどない。
そんなこと、本心から思えるはずなどない。
ベルカが他人のものになることに『おめでとう』などと、どうして思えるだろう。
それでも、言わなければ。
「おめでとうございます」と、そう言えば、ベルカは笑ってくれるだろうか。
ベルカが喜んでくれるならば、自分の心を殺すことくらい出来るはずだ。
リンナは一度、目を閉じる。
痛む心になど蓋をしろ。
ベルカの未来と幸せのために。
笑って、祝福をしよう。
たとえ、そのことで自らの心にどれだけの血が流れようとも。
ベルカに気付かれぬように静かに深く息を吸い、リンナは目を開ける。
そうして、出来る限りの微笑みを顔に乗せ、もっとも言いたくない言葉を口にする。
「……おめでとうございます、殿下」
瞬間、ベルカの表情が歪み、すぐにそれを隠すように俯いた。
「あ……ああ、ありがとな、リンナ……」
そう言った声は、明るく見せようとして……けれど、確かに震えていた。
「殿下……」
呼びかけるリンナの言葉を遮るように、ベルカの声が重なる。
「あ、俺、もう部屋に戻るから! 悪いな、こんな時間に!」
一息に言うと同時に踵を返し、ベルカは半ば駆け足でリンナの部屋を出て行った。
これで……良かったのだろうか。
きっと、良かったのだ。
これでベルカは幸せになれる。
誰からも祝福される素敵な女性と結婚し、いつか子を成し、暖かい家庭を作る。
その未来は、きっと色鮮やかな幸福で彩られるはずだ。
急に足の力が抜け、思わずその場にズルズルと座り込む。
分かっていたはずだった。
この気持ちが、報われるはずなどないことを。
なのに今、こんなにもショックを受けている自分があまりにも滑稽に思えた。
「クッ……はは、はっ……」
右手で自分の髪を掴み、リンナは笑う。
そうしなければ、泣いてしまいそうだったから。
もう、決してこの手が届くことはない。
最初から届くことなど望んではいけなかった。
ベルカを幸福に出来るのは────自分ではない。
部屋に戻ったベルカは、そのままベッドに倒れ込む。
これで良かったのだと、懸命に自分に言い聞かせる。
「おめでとう」と言ってもらって諦めるために、リンナの部屋へ行った。
そうして、その望みは叶えられたはずだった。
なのに、どうして……息が出来ないほどに胸が締め付けられるのだろう。
「……う、くっ……」
小さな嗚咽が漏れる。
いくつもの雫が、シーツに染みを作る。
それを隠すように手でシーツをギュッと握り締めた。
「リ、ンナ……」
笑って祝福をしてくれた。
リンナは、ベルカの縁談を喜んでくれたのだ。
それは当たり前のことなのに、どこかで止めてくれることを期待していた自分に気付く。
そんなこと、有り得るはずがないのに。
「は、ははっ……バカ、みてえ……」
シーツに顔を押し付けて、ベルカは涙を零したまま笑う。
いっそ、「俺の手を取って逃げてくれ」とでも言えば良かったのだろうか。
いや、主であるベルカがそんなことを言えばリンナを困らせてしまうだけだ。
リンナの手は、本当に愛しい女性の手を取るためにあるのだから。
その相手がベルカになる日は、決してやってこない。
ベルカが本当に『マリーベル』だったら、リンナは抱きしめてくれただろうか。
男ではなく、女だったら。
馬鹿馬鹿しい、と思う。
そんな有り得ない仮定なんて考えても、何にもならない。
何度拭っても、涙は次から次へと溢れてくる。
今夜だけは、好きなだけ泣いてもいいだろうか。
明日からは、いつもの自分に戻るから。
明日の朝にはきっと、リンナに笑顔を見せてみせるから。
そう心の中で呟いて、ベルカは再びシーツに顔を埋めた。
数ヶ月後、無事に縁談はまとまり、ベルカと侯爵令嬢の婚儀が執り行われた。
誰もが、歓声を上げて2人を祝福している。
頬を染め、はにかんだ笑顔でベルカを見つめる侯爵令嬢は、リンナの目にもとてもベルカと似合いに見えた。
ベルカもまた、彼女を大事そうに支えていた。
これでいい、とリンナは思う。
このまま、ベルカが幸福な未来を歩んでいってくれればいい。
自分の役割は、それを影で支え続けることだ。
華やかな婚礼の儀式を見つめるリンナは、気付くことが出来なかった。
ふたつの淡い光が、それぞれの心のずっと奥深くで、ひっそりと息を引き取ったことに。
「心の行く先」第1話でのリンナの選択は、ベルカとリンナの未来を決定付ける最重要の分岐点だったんですというお話。
もしあの時リンナが選択を間違えていたら、この話に繋がり、2人とも死んでしまった恋心を永遠に抱えながら生きていくことになり。
侯爵令嬢もベルカの心が自分にないことに気付きながら共に過ごしていかなければならないという、誰も本当の意味では幸せになれないエンドになっていた……と。
リンベル連載の方でハッピーエンドを迎えたからこそのアナザーエンドということで……。