挨拶をしてジムの外に出ると、辺りはすっかり闇に包まれていた。
一歩はふと、視線を上に向けた。
空は雲に覆われていて、月の姿も見えない。
小さくため息をつくと、一歩は自宅への道を辿り始めた。
あの告白の日から、1週間。
宮田に会うこともなく、普段通りの生活が続いている。
もっとも、試合が決まったこともあってトレーニングはますます厳しくなっているけれど。
しかし、一歩としては今の状況は有難かった。
トレーニングと釣り船の仕事が忙しく、余り考え込まずに済むからだ。
あの日、宮田に「好きだ」と伝えた。
その事自体に、後悔は全くない。
宮田に気持ちを伝えることが出来た自分を、誇らしいと思う。
今までの自分だったら、きっと考えられなかったに違いない。
宮田に嫌われることを怖れ、ただ現状を維持することだけを考えていた頃の自分なら。
だけど、今の自分はそこを乗り越えることが出来た。
宮田への告白を経て、一歩は今までよりも確実に自分を好きになれた気がした。
だからこそ、今もこうして前を見つめて歩いていられるのだ。
だけど、それは自分自身に関してだけだ。
宮田の気持ちを考えると、やはり申し訳ないとも思う。
男に、しかもライバルに好きだなどと言われた宮田は、きっと動揺しただろう。
宮田の試合は未だ決まっていないようだが、それでも宮田の心を乱してしまったのは間違いない。
一歩自身は満足していても、宮田にとっては迷惑極まりない告白であったはずだ。
宮田は真面目だし何だかんだといっても優しいから、一歩の告白を軽く受け流すことなど出来ないだろう。
告白した時、宮田は一歩を嫌悪の視線では見なかったし、笑い飛ばしたりもしなかった。
それは、どういう形であれ、一歩の告白を真剣に受け取ってくれたということだ。
ひょっとしたら、今この瞬間も悩んでいるかもしれない。
一歩を出来るだけ傷付けない断り方を考えてくれているのかもしれない。
「ごめんね、宮田くん」
ポソリと小さく呟く。
けれど、ちゃんと聞いてくれたことが嬉しかった。
冗談扱いなどせずに真剣に受け止めてくれたことだけでも、一歩は救われた気がした。
自分の想いは、ちゃんと宮田に伝わったのだと思えたから。
それだけで、自分の中に生まれた想いは無駄ではなかったのだと、そう思えた。
本当は、菜々子にもお礼を言いたかった。
あの時菜々子と会わなければ、きっと決心をつけられなかった。
菜々子の言葉があったからこそ、一歩は大切なことに気がついた。
しかし、菜々子が自分に想いを寄せてくれていることを分かっていて、そんな礼など言えなかった。
それは、菜々子に対して余りにも酷い仕打ちではないかと思ったのだ。
例えば、宮田が一歩の言葉をきっかけとして誰かに──そう、あの日見た少女に想いを告げたなどと知ったら、一歩は計り知れないショックを受けるだろう。
そんなことを、菜々子に出来るはずがない。
しかし逆に、だからこそ一歩自身の口から宮田への想いを菜々子に話すべきではないかとも思う。
いつまでも曖昧な態度など取らずに、自分の気持ちが在るところが何処なのかをちゃんと告げるべきではないか、と。
結局、その答えは未だ出せてはいないけれど。
そんな風に考え事をしながら歩いていると、不意に腕を掴まれた。
余りに突然だった事態に、一歩は咄嗟に振り払って相手に顔を向けた。
そして、その目の前に現れた顔に、一歩は自分が幻でも見ているのではないかと何度も目を瞬かせた。
しかしそれは幻などではなく、何度瞬きをしても消えたりはしなかった。
「み、宮田くん……!」
途端に、動悸が激しくなる。
はっきりいって、全く心の準備が出来ていない。
あの日の告白が頭の中に蘇って、顔が急激に熱くなるのが分かる。
「あ、あの、ど、ど、ど、どうしたの、こんなところで!?」
半ばパニック状態で、一歩は手足をオロオロと動かしながら何とかそれだけを尋ねる。
「……少し落ち着けよ」
宮田は小さくため息をついて、一歩を見ている。
「う、うん、ごめん」
一歩は意識して深く呼吸をして、気持ちを落ち着けようと試みる。
その甲斐あってか、何とか無意味に手足を動かさずに済む程度には気分が落ち着いてきた。
一歩がある程度冷静になったのを見計らって、宮田は一歩を促して歩き出す。
近くにある公園の入口に設置された外灯の下で、ようやく宮田は一歩と向かい合った。
だが、宮田はすぐには口を開かず、何かを躊躇うように視線をさ迷わせている。
その宮田の様子を見て、一歩は直感した。
きっと、この間の告白の返事をしようとしてくれているのだと。
一歩は小さく困ったような笑みを浮かべたが、宮田の方は気付いていない。
宮田はおそらく、どう言えば一歩を傷付けないのかと迷っているのだろう。
答えがNOである以上、どんな言い方をしても傷付かないわけがないと分かっていても。
もう、覚悟は出来ているのに。
だから、どんな風に断ってくれてもいい。
そんな優しさを見せられると、余計に想いが募って辛くなる。
だから、早く。
早く、切り捨ててしまってほしい。
そうでないと、拒絶の言葉を聞く恐怖に耐え切れなくなって、逃げ出してしまいたくなるから。
ここに踏み止まっていられる内に、どうか早く。
そんな一歩の焦燥が通じたのかは分からないが、宮田の視線が一歩に向いた。
「幕之内」
名前を呼ばれて、一歩の身体が一瞬ビクリと震えた。
「この間言ってたことは……本気か」
『この間』……それがいつを指すのかは考えるまでもない。
一歩は1つ大きく呼吸をすると、ゆっくりと口を開く。
「うん、本気だよ」
短くそう答えると、宮田は再び視線を外してしまった。
やっぱり、受け入れてはもらえない。
そう感じて、一歩は泣きたくなっている自分をバカみたいだと思った。
分かり切っていたことなのに、どうして今更泣きたい気持ちになどなるのだろう。
覚悟をしていたつもりで、出来ていなかったのかもしれない。
胸が軋むような感覚がする。
息が苦しくて、上手く酸素を吸えない。
ダメだ、と一歩は全身に力を込める。
ここでみっともない姿を宮田に見せてはいけない。
宮田の心の負担を、これ以上重くしてはいけない。
一歩は震えそうになる声を無理やり抑え込んで、出来る限り普段通りに近い声を出す。
「大丈夫、分かってるから」
その言葉に、宮田の視線が上がる。
「分かってるから。だから、宮田くんがそんなに悩む必要ないんだよ」
必死に作った笑顔。
それは、一歩の精一杯の虚勢だった。
「困らせてごめん。ボクは、気持ちを宮田くんに伝えられただけで満足だから」
そう話す間にも、だんだんと声の震えは増してくる。
これ以上不様になる前に、と、一歩はいつになく早口でまくし立てた。
「迷惑だろうけど、出来れば、ボクがキミを好きだったことだけ、忘れないでいてほしいんだ。
それだけで、いいから……」
そこまで言うと、一歩はギュッと目を瞑った。
僅かな沈黙の後、またも突然掴まれた腕に一歩は驚いて目を開ける。
先程のように振り払いはしなかったものの、どうリアクションしていいのか分からず立ち尽くす。
見ると、宮田は怒ったような困ったような複雑な表情をしていた。
「……お前、この間といい今日といい、その自己完結するクセどうにかしろ」
「え?」
一瞬、何を言われたのか分からずに、一歩は間抜けな返事を返してしまう。
「自己完結するなっつってんだよ」
「自己完結……って」
予想外の会話に思考がついていけていないのか、宮田の言いたいことがよく理解できない。
「オレはまだ何も言ってねえのに、1人でオレの答えを決め付けて納得するな……って言ってんだよ」
「き、決め付けてなんか……」
「決め付けてんだろうが」
間近で宮田の視線に射られて、一歩は何も言えなくなる。
宮田に掴まれた左腕が熱い。
その熱さに耐え切れなくなって、一歩はその手から逃れようと試みた。
「逃げるな」
右の手首も取られて、更に宮田との距離が近くなる。
宮田の顔を見ていられなくて、一歩は顔を逸らした。
逸らした先に見えたものに、思わず目を見開く。
宮田の後方……一歩の視線の先には、1人の少女が立っていた。
あの日、宮田と一緒にいた少女。
まるで鏡に映したように、少女の方も驚きの表情を見せていた。
一歩と目が合った途端に弾かれたように肩を震わせ、くるりと踵を返す。
そうして、ポニーテールを揺らしながらその場から走り去ってしまった。
一歩の様子に後ろを振り返った宮田も、少女の姿を確認したはずだった。
にも関わらず、宮田は追うこともなく一歩の腕も放さない。
「み、宮田くん! 何してるの、追いかけなきゃ!」
本当は、追いかけてほしくなどない。
だけど、自分のせいで宮田の大切なものを壊すようなことになったら。
その方が、きっと後悔する。
そんな一歩の気持ちを知ってか知らずか、宮田は不機嫌そうに眉を顰めた。
「追いかける? 何で」
「何でって……。誤解……とか、してるかもしれないし……」
いくら一歩が男だからといっても、こんな接近した体勢で深刻そうな雰囲気を醸し出していたら誤解されない保証はない。
「だから?」
「だ、だからって……何でそんな平然としてるのさ……」
宮田の言動が理解できなくて、一歩はどう反応していいのかも分からない。
「誤解されたからって、何か困ることがあるのかよ?」
「宮田くん……?」
宮田の視線が一旦迷うように外され、そして再び一歩の視線と絡まる。
そして、一瞬の間の後、宮田は口を開いた。
「お前以外のヤツにどう思われようが、どうでもいい」
真っ直ぐに見据えられて放たれた言葉に、一歩は動けなくなった。
宮田の言葉が何度も頭の中で繰り返される。
一歩以外にどう思われてもどうでもいい、と宮田は言った。
それは裏を返せば、一歩にだけは変に思われたくない、ということだろうか。
つまり、一歩のことが特別だと────。
そこまで考えて、ハッと我に返る。
自分に都合のいい結論を導こうとしていることに気付き、一歩は大きく首を横に振った。
「……何やってんだ、お前」
宮田の少し呆れたような声が降ってくる。
考え込んだり赤くなったり首をブンブンと振ったり、挙動不審状態だったのだから当然かもしれない。
しかし、その原因である宮田に言われるのは何となく腑に落ちない。
「み、宮田くんが、変なこと言うからじゃないか」
「変なことって、何が変なんだよ」
「何がって……。だって、変だよ、そんな……」
告白めいたこと。
そう言いかけて、一歩は真っ赤になってその言葉を飲み込んだ。
そんな一歩の様子を、宮田は少し困ったような様子で見ている。
「……お前、分かってんのか分かってないのか、どっちなんだよ……」
宮田はため息をつき、ずっと掴んだままだった一歩の腕を放した。
「オレからもちゃんと言わねえと、フェアじゃねえ、か……」
そう、独り言のように小さく呟くのが聞こえた。
その顔がいつもより赤く見えるのは、心のどこかにある小さな期待のせいだろうか。
一歩の中の全神経が、宮田に集中する。
夜とはいえ公園のすぐ外では自動車や人が行き交い、様々な音が溢れているはずなのに、全く耳には入ってこなかった。
宮田の声を拾うことだけに耳が、宮田の表情を見るためだけに目が、それぞれ存在するかのように。
その一歩の目に、宮田の口が僅かに開かれたのが映る。
「よく聞いとけよ。二度は言わねえからな」
「う、うん」
一歩が答えると、宮田は1度顔を逸らし、大きく息を吸うと一歩を見据えた。
「……好きだ」
短く告げられた言葉に、一歩の両目が大きく見開かれた。
「い、ま……何て言ったの」
「二度は言わねえっつっただろ」
少々乱暴な口調で言い放たれたものの、その顔は今度こそ気のせいではなく赤い。
「でも、さっきの女の子は……。宮田くん、あの子のことが好きなんだって思って……」
「何でそうなるんだ」
心底嫌そうな宮田の様子に、一歩は眉を寄せる。
「だって……この間、仲良さそうに2人で歩いてたし……」
「……見てたのか?」
「み、見えたんだよ」
自分でも言い訳じみた言い方だと思ったが、今それは問題ではない。
宮田の方はというと、苛ついたように頭を掻きながら大きくため息をつく。
「……あいつは、従姉妹なんだよ」
「い、従姉妹!? 宮田くんの!?」
可愛かったのも納得だな、などと場違いな感想を抱きながら、一歩はただただ驚いていた。
「たまたまこっちに来てて、彼氏の誕生日プレゼント選びに付き合えって駆り出されたんだよ……」
一体何を思い出したのか、宮田はウンザリといった風情だ。
宮田がすんなりそんなお願いに応じるとも思えないので、その辺は何か色々事情があったのかもしれない。
「それじゃあ、何でさっき逃げちゃったんだろう?」
「逃げたっていうよりアレは…………いや、いい」
何を言いかけたのか気になったが、宮田が心底疲れたような顔をしているのを見て訊くのを止めた。
あの少女には彼氏がいて、宮田と特別な関係は何もないと分かっただけで、一歩には十分だった。
「……宮田くん」
「何だよ」
「ボク、絶対に受け入れられないって思ってた。それでもいいって」
俯いて足元を見つめながら、一歩は続ける。
「だけど、変だよね。宮田くんが好きだって言ってくれたら、もうそんなの考えられないんだ」
伝えられるだけでいいと思っていた気持ちは、いつの間にかどこかに行ってしまった。
「ボク、きっともう宮田くんの手を放してあげられないよ……」
それは、一歩が自分の内に抱える不安。
その内もっともっと欲張りになって、宮田を疲れさせてしまうのではないか、と。
「……今更何言ってんだ」
「え?」
宮田の声に、一歩は思わず顔を上げる。
「お前がしつこいヤツだってことくらい、オレが知らねえわけねえだろ」
そう話す宮田の表情は、どこか楽しげに見える。
「けどな。しつこさじゃオレも負けてねえから、覚悟しとけよ」
告げられた言葉に一歩は一瞬目を瞬かせたが、すぐに泣きそうな笑顔が浮かぶ。
「……うん。ありがとう、宮田くん」
この先、どんな変化が起こるか分からない。
1年先には、もうこの関係はなくなっているかもしれない。
だけど、今この瞬間は間違いなく宮田の心は一歩にある。
出来ることならずっとこのまま、一緒に歩いていきたい。
それを決めるのは、きっとこれからの自分達だから。
5年後も10年後も、並んで歩いていられるように。
2人で、一緒に頑張っていこう。
後書き。
「4周年記念ミニ企画」第7弾。
お題は「お前以外のヤツにどう思われようが、どうでもいい」。
企画第6弾の続きです。「恋の成就編」(笑)です。
少女の正体が明らかになりましたが、勝手に宮田に従姉妹なんて作ってすみません。
宮田に告白させるまでがえらい大変でした。早く言えよ!と書きながらツッコむ始末。
何はともあれ、ようやく想いが通じ合いました。
リクエスト下さった方の意に沿っているか相当不安ですが、少しでも楽しんで頂ければ幸いです。