告白



想っていられるだけでいい。
そう思っていたことは、決して嘘ではなかった。
けれど────







母に頼まれた買い物を済ませ、一歩は帰路についた。
両手に袋を下げ、街中を歩く。
人通りの多い道は、すっかり夕日によって赤く染め上げられている。

信号待ちで立ち止まった時、視界の隅に引っ掛かった人物に一歩は思わず思いきり顔をそちらに振り向けた。
見間違えるはずのない、すらりとした身体。自分と違ってクセのない黒髪。
その横顔は、紛れもなく一歩が誰よりも想っているその人だった。

「宮田くん……!」
見る見るうちに、一歩の表情が明るくなる。
まさか、こんなところで会えるとは思わなかった。
まだ随分と距離があるし道路を挟んだ向こう側にいるので、宮田は一歩に全く気付いていない。
どうしよう、と一歩は迷った。
信号を渡ったら、駆け寄って声をかけてみようか。
でも、迷惑がられはしないだろうか。
迷惑になるなら、このまま声をかけずに帰った方がいいかもしれない。
しかし、折角思いがけず会えたのに、言葉も交わさずに帰るのは正直もったいない。
宮田と話が出来るチャンスなど、最近はそうそうないのだから。

あれこれ考えている内に、信号が青に変わる。
一歩は道路を渡りながら、どうしようどうしようとそればかりを考えていた。
にも関わらず、渡り切った後に足が勝手に宮田のいる方角へ向きを変えるのだから我ながら正直な足だなと思う。
考えが纏まっていないためか、殊更ゆっくりと歩を進める。
縮まっていく距離に、心臓の鼓動がだんだん早くなっていく。
こうなったら、思いきって声をかけてしまおう。
そう決めて、一歩は足を速めようとした。

だが、その決心とは逆に、一歩の足は歩みを止めてしまった。
宮田のすぐ傍にある店から出てきた少女が、一歩の足を止めたのだ。
ポニーテールの可愛い少女。一歩や宮田より少し年下だろうか。
見たことのないその少女は、おそらくその店で買ったのだろう品物を嬉しそうに宮田に見せている。
宮田の表情はよく分からないが、二言三言少女と言葉を交わしているらしいのが見える。
そして、少女が宮田の腕を取った瞬間、一歩はその場に硬直した。
そんな一歩に当然の事ながら2人は気付かず、そのまま一歩のいる方とは逆の方へ歩き去ってしまった。





そこから、どうやって帰ってきたのかよく覚えていない。
気がついたら、自宅の前に立っていた。
荷物を母に渡し、一歩は自分の部屋でゴロリと転がった。

あの少女は、誰だったのだろう。
少なくとも、一歩には見覚えのない少女だった。
いや、そもそも一歩は宮田の交友関係を殆ど知らない。
知っているといえば、鴨川ジムのメンバーくらいだ。
考えてみれば、宮田が女の子と一緒にいるのを初めて見た気がする。
ボクシング関連でしか会うことがないから、それは当然かもしれないけれど。

嬉しそうな笑顔で宮田の腕を掴まえていた少女の姿と、それを振り払わなかった宮田の姿。
冷静に考えれば、宮田のあのルックスなら相当モテるだろうし、彼女がいたとしてもおかしくないのかもしれない。
そう考えて、一歩は自分の胸を押さえた。

苦しい。
息が出来ないほど、何かが胸を強烈に締め付けている。
その何かの正体を、一歩は分かっている。
分かってはいても、それをコントロール出来るほど一歩は器用ではなかった。
ただその苦しみに、じっと耐えるしか出来なかった。

どうして、今まで考えなかったのだろう。
宮田に、誰か特別な人が出来ることを。
いや、考えなかったわけじゃない。考えたくなかったのだ。
想いが受け止められないなら、せめて誰の想いも受け止めないでほしいと。
そんな我侭で身勝手な願いを宮田に望んでしまっている自分に、酷く嫌悪した。





あれ以来、宮田に会うこともなく変わらぬ日々を送っていた。
……少なくとも、表面上は。
内心では未だあの時の光景が目に焼き付いていて、心の奥にこびりついている。
それでも、ボクシングの練習に打ち込んでいる時だけは忘れられた。
だからこそ、一層トレーニングに熱中する事で一歩は心のバランスを保っていた。

ジムからの帰り、後ろから掛かった声に振り向く。
と同時に、体当たりのように抱きつかれ、一歩は目を丸くした。
「な、菜々子ちゃん!」
「へへへ〜、こんにちは、一歩さん!」
「どうしたの、菜々子ちゃん。学校帰りにしては随分遅いけど……」
そう尋ねると、菜々子は悪戯を咎められた子供のように首を竦めた。
「補習だったんですぅ。こないだのテスト、ちょっと良くなくて」
「はは、大変だね」
「でも、今日は補習でラッキーです」
嬉しそうに笑う菜々子に、一歩は首を傾げる。
「ラッキー? どうして?」
「だって、補習で帰りが遅くなったから一歩さんに会えたんですもん」
「……ボクに?」
「はい! だって菜々子、一歩さんが好きですから!」
満面の笑顔ではっきりと言い切られた言葉に、一歩は目を見開いた。

菜々子が自分に向けてくれている好意は、いくら鈍い一歩でも知っている。
それくらい、菜々子の感情表現はストレートだ。
けれど、どうして菜々子は本人を前に何の迷いもなく「好き」だと言ってしまえるのだろう。
もしも相手に拒絶されたらと、怖くはないのだろうか。

「……菜々子ちゃんは、本当にいつもはっきり言うね」
思わずそう呟くと、菜々子はきょとんとした顔を見せる。
「だって、本当のことですもん」
「だけど、怖いとか……思ったことない?」
一歩の声音が心なしか硬くなったことに気付いたのか、菜々子の表情も真面目なものになる。
「ありますよ。今だって、一歩さんに嫌われたらって思ったら怖いです」
とてもそうは見えないが、きっとそれは本当なのだろう。
「でも、怖くても、私は一歩さんに私の気持ちを知ってほしいです。
 私が一歩さんをどんなに好きか、知っていてほしいです。我侭かもしれないけど」
そう言ってじっと一歩を見つめる菜々子の視線に、一歩は僅かに気圧された。
「折角こんなに好きになれたのに、それを伝えなかったら自分の気持ちが可哀想です」
「可哀想……?」
「そうです。奥に閉じ込めたままじゃ、何のために生まれた気持ちか分からないじゃないですか」
真っ直ぐに一歩を見つめて話す菜々子の表情は真剣そのもので、普段の菜々子からは想像出来ないその様子に、一歩は上手く言葉を返せなかった。

「あ、ごめんなさい、一歩さん。変なこと言っちゃって」
我に返ったように、菜々子は慌ててペコリと頭を下げた。
「あ、いや、そんなことないよ」
一歩の方も慌てて両手を身体の前で大きく振る。
「それじゃあ、そろそろ帰りますね。あんまり遅くなるとお母さんが心配するし」
「うん、気をつけてね」
軽く手を振ると、菜々子は背を向けて軽やかに駆け出した。
そして、振り返ると、もう1度大きく手を振った。
「一歩さ〜ん! 今度、菜々子とどこか遊びに行きましょうね〜!」
いつも通りの明るい声と笑顔で告げて、菜々子は再び駆け出していった。





部屋で壁にもたれて座りながら、一歩は先程菜々子が言っていた言葉を胸の内で反芻する。

『折角こんなに好きになれたのに、それを伝えなかったら自分の気持ちが可哀想です』
『奥に閉じ込めたままじゃ、何のために生まれた気持ちか分からないじゃないですか』

何のために……。
そう、この気持ちは何のために生まれたのだろう。
自分は男で、相手も男で。
報われないことは分かり切っているのに、それでも一歩の中に息づく想い。
分かっていても、好きで好きでたまらない気持ちは、確かにここにある。
それをこの心の奥に押し込めて目を逸らし続けることは、自分自身に対する裏切りではないのだろうか。

宮田に迷惑がかかるからと言い訳をして、結局のところ逃げているだけなのかもしれない。
嫌われることが怖くて、今の関係が壊れることが怖くて。
今でも、宮田の嫌悪の視線を想像しただけで身体が震えそうになる。
『怖いけど、でも自分の気持ちを知ってほしい』と一歩に対して想いをぶつけてくる菜々子は、何て強いのだろうか。
いつも明るく笑っているけれど、不安を持たない人間なんていない。
けれど、そんな不安を微塵も見せずに笑顔で一歩を好きだと言う菜々子の強さを凄いと思う。
宮田への想いから逃げて、1人蹲っている自分がとても情けなく思えた。

もしも、気持ちを伝えられたら。
例え叶うことはなくても、宮田に自分の想いを伝えることが出来たら……今より前に進めるだろうか。
この、胸に澱んだ靄を振り払えるのだろうか。

一歩はゆっくりと目を閉じる。

告げよう。
宮田に、この想いを。
例え宮田がこの間の少女を好きでも、構わない。
一歩が宮田のことをずっと好きでいたこの気持ちを、正直に伝えよう。
そうすれば、いつかは祝福出来るはずだ。宮田の幸福を。
今は無理でも、いつか……必ず。

ふっと一歩の目が開いた時、そこには確かな決意の光が宿っていた。








夕闇に覆われかけた空の下、一歩は土手に座っていた。
ここは、一歩が初めて宮田とまともに会話をした場所。
ボクシングシューズを選んでもらって、ここでボクシングの話をして。
一歩にとっては、大切な場所だ。
自覚していなかっただけで、きっとあの頃から宮田に惹かれていたんだろう。
今だからこそ、そう思う。

「幕之内」
掛けられた声に振り向くと、そこには一歩が追いかけ続けている人がいた。
「宮田くん。ごめんね、急に呼び出したりして」
そう言いながら、一歩は立ち上がる。
何ともないフリをしてはいるが、内心は鼓動がどんどん早まっていくのが分かる。
それでも、表面上は落ち着いて見せることが出来ている自分に一歩自身驚いていた。
覚悟を決めてきたせいかもしれない。

「いや、それより何の用だよ?」
一歩が宮田を呼び出すことなど殆どないだけに、宮田も不審げだ。
「うん……」
一歩は一旦俯いてしまう。
想いを告げると決心はしたけれど、どう言えば良いのだろう。
宮田が来るまで色々考えてはいたけれど、宮田の顔を見たら全部飛んでしまった。

「おい……?」
一歩が俯いて黙ってしまったことで何か深刻な匂いを感じたのか、宮田の表情と声色に心配の色が混じる。
そんな宮田をやはり優しいなどと感じつつ、一歩は目を閉じて静かに深呼吸をした。
そして、ゆっくりと顔を上げながら目を開け、その瞳で真っ直ぐに宮田を見つめた。
気の利いた言い回しなど、自分には出来ない。

なら、言える言葉はただ1つだけ。






「宮田くん。好きだよ」






その一瞬、風が止んだように思えたのは、一歩の気のせいだったのかもしれない。
目の前の宮田の瞳が、大きく見開かれている。
本当は、目を逸らしたい気持ちで一杯だった。
宮田の表情が変わっていくのを見るのが、怖い。
だけど、今ここで目を逸らしてしまったら、決意が全て無駄になる。
見ていなければならない。宮田の感情を。

宮田の様子が、驚きから少しずつ落ち着いてきたのが分かる。
その表情には、一歩が覚悟していたような嫌悪の色は見られなかった。
けれど、微かに険しくなったようにも見えた。
「……それは、どういう意味だ」
低い声で問われた言葉に、一歩はギュッと拳を握りしめた。
「宮田くんのことが、好きなんだ。憧れとか、そういう意味じゃなくて……」
そう言っても、宮田の表情は変わらないし、何も言葉を発しない。
沈黙をどう受け取ればいいのかも分からなくて、一歩は困ったように宮田を見る。
「……ごめん。男から好きだなんて言われても気持ち悪いよね。だけど、どうしても伝えたかったんだ」
それは、菜々子が言った通り我侭なのかもしれないけれど。
「宮田くんを困らせるつもりはなかったんだ。ただ、宮田くんに知ってほしかった。
 ボクがずっと、宮田くんのことを本当に好きだったんだって」
例え、宮田の見つめる先にいるのがあの少女だとしても。
一歩は大きく息を吸い込んで、宮田に向かって笑って見せた。
「……聞いてくれて、ありがとう。一方的にこんなこと言って、ごめんね」
ペコリと頭を下げると、一歩は踵を返して走り出した。


1度、宮田の呼び止める声が聞こえたけれど、立ち止まれなかった。
あれ以上宮田を見ていたら、涙が溢れ出しそうだったから。
涙だけは見せてはならない。
それは、優しい宮田に対して余りにも卑怯だ。

泣いてはいけない。
自分の決意を果たしたのだから。
想いが返ってくることはなくても、自分の気持ちは確かに宮田に伝わったはずだから。
だから、自分自身に胸を張ればいい。
崩壊を恐れて立ち竦んでいた自分からは、前に踏み出せたのだと。



その先にあるのが、今までの関係の消滅でしかなくても。









to be continued......









後書き。

「4周年記念ミニ企画」第6弾。
お題は「宮田くん。好きだよ」。
すみません、シリアスです。しかも、第7弾のお題SSに続くとか言ったら怒りますか……。
冒頭の少女や菜々子ちゃんといった女の子達によって、一歩の恋愛の方向性が変わっていくのを書きたいなと思いつつ微妙に玉砕したような気も。
一歩の気持ちの変化が少しでも伝われば嬉しいです。



2005年6月23日 UP




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