特別な日



じりじりと照りつける太陽の下、一歩はロードワークに勤しんでいた。
8月ももう終わりだとはいえ、暑さはまだまだ緩むこともなく肌を焼く。
いつものコースを走り終え、滝のように流れる汗を拭いながらジムの戸をくぐった。

「このあっちーのに、精が出るなぁお前」
「当たり前ですよ! 宮田くんとの約束を守るためにも、いっぱい練習しないと!」
うちわでパタパタと扇ぎながら呆れたように話しかけてきた青木に、一歩は握り拳を作りながら答える。
宮田が鴨川ジムを辞めたと聞いた時は全身が冷える気がしたけれど、勢いのまま会いに行った一歩に宮田は笑って言ってくれた。
決着はプロのリングで着けよう、と。
自分を認めてくれたのだと思うと、嬉しかった。
だからこそ、その宮田の思いに応えたかった。
目一杯トレーニングを積んで、今よりもっと強くなって宮田の前に立ちたかった。
ただでさえ差があるのだから、宮田の2倍も3倍も努力をしないととても追いつけない。
だから少しでもその差を縮めることが出来るように、一歩はひたすら練習するしかないのだ。

「ほんっとに、お前、宮田好きだな……」
「宮田くんは、ボクの憧れで目標ですから!」
言い切った一歩に、青木は投げやりな返事を返すのみだ。
そんな会話に、いつの間に来たのか木村が面白そうに入ってくる。
「その憧れの『宮田くん』は明日の誕生日で無事17歳。当然プロテストも早々に受けるんだろうが、その辺の感想はどうよ?」
何気なく発したであろう木村の言葉に、一歩はその場で固まった。
「……え?」
一歩の反応をどう取ったのか、木村は不思議そうに問いを重ねる。
「ん? だから、一足先にプロテスト受けるライバルにどう思うって……」
言いかけた言葉は、ずずいっと迫ってきた一歩によって遮られる。
「今、何て言ったんですか?」
「へ? いやだから、宮田がプロテストを……」
「そうじゃなくて! その前です!」
一歩の勢いに数歩後退りながらも、木村は何とか先程の発言を思い出しつつ答える。
「えー……宮田が明日の誕生日で17歳になるから……」
「そこです!」
ビシ、と指を突き付けられ、木村は思わず仰け反る。

「宮田くんが明日誕生日だなんて、そんな大事なこと、どうしてもっと早く言ってくれないんですか!」
「いや、どうしてって言われても……」
一歩の剣幕についていけていないらしい木村は、リアクションに困っている風だ。
「あああもう、明日じゃプレゼントを用意する暇もないし……」
一歩は同じ場所をぐるぐると歩き回り、ぶつぶつと独り言を呟いている。
「いや、プレゼントとか欲しがるタイプじゃねえだろ、アイツは……」
木村の控えめなツッコミも、今の一歩にはまるで聞こえていない。
既に一歩の頭の中は宮田の誕生日のことでいっぱいである。
会長が出先から帰ってきたことで一歩の意識はようやく引き戻され、いつものトレーニングへと戻っていった。





自宅で壁に凭れて座りながら、一歩は翌日のことばかりを考えていた。
宮田の誕生日。
「おめでとう」と、言いに行きたい。
だけど、それを自分がわざわざ言いに行った際の宮田の不審そうな顔が想像できるだけに踏ん切りがつかない。
ボクシングシューズを選んでもらった後に宮田を待っていた時の反応や、ジムにいた頃の態度からして、相当嫌がられている自覚は一歩にもある。
ボクサーとして少しは認めてくれたとしても、プライベートではむしろ嫌われているんじゃないかとさえ思う。
考えている内に、どんどんと顔が俯いてきて気分も落ち込んでくる。
一歩は勢い良く顔を上げると、ブンブンと大きく首を振る。
少なくとも、約束を交わしたあの時は笑ってくれた。
好意は持たれていないにしても、本気で嫌われてはいないはずだ。きっと。

宮田は、一歩にとっては本当に憧れなのだ。
自分と同い年であんなにボクシングが上手くて強くて。
あの華麗なフットワークやシャドーなど、思わず手を止めて見蕩れてしまうくらいだ。
そんな宮田に認めてもらえて、どれほど嬉しかったか。
この先どんなボクサーと出会っても、自分の憧れと目標は間違いなくずっと宮田だろうという確信が一歩にはある。

そんな風に憧れている人の誕生日を祝いたいと思うのは、当然のことだと思う。
しかし、それは一歩が一方的に思っていることで、宮田自身には知ったことではないだろう。
いっそプレゼントを用意出来ていれば、それを渡すため、と自分に対して決心をつけられるのに。
「どうしようかなぁ……。やっぱり迷惑がられるだけかな……」
ため息をついて、一歩は天井を見上げた。





翌日。運命の8月27日。
トレーニングを終えた一歩は、すっかり薄暗くなった中、宮田の自宅近くでウロウロと歩き回っていた。
お巡りさんに職務質問をかけられても文句を言えないくらい挙動不審であるが、一歩としてはそんなことを気にしている気持ちの余裕はない。
もっとも木村や青木にがここにいれば、宮田絡みで一歩が挙動不審になるのは今更だとツッコミを入れるであろうが。
一歩も最初はロードワークのコースを変えて川原ジムに向かおうかとも考えた。
しかし、川原ジムに宮田以外の知り合いはいないから行きづらいし、そもそも練習に雑念が入りそうなので止めたのだ。

なので、こうして練習を終えた後に来てみたのだが、いざここに来ると及び腰になってしまう。
「……『何しに来たんだよ』とか、言われそうだよね……」
かといって、ここまで来て帰るというのも余りに情けない。
一歩は両拳を強く握ると、一度息を深く吸ってから吐く。
よし、と小さく呟くと、宮田の自宅前まで一気に歩を進めた。

インターホンを押そうとして、ふと手を止める。
お父さんが出たらどうしよう。
そんなことを考えるものの、その時はその時だと自分に言い聞かせると、一歩はギュッと目を瞑って震える指先でインターホンを押した。

反応があるまでの数秒間、一歩の動悸は着実に早まっていった。
『はい』
インターホンから聞こえてきたのが宮田の声であった事に少し安堵しつつも、一歩は慌てたように返事をする。
「あ、あの、ボク、幕之内……です、けど」
何故か敬語になっているが、そんなことに構ってはいられない。
「ちょっと、その……出てきてもらっても、いい、かな」
『……ちょっと待ってろ』
僅かな沈黙の後、そっけない言葉が返される。
それでも宮田が応じてくれたことに、一歩は大きく息をついた。

少し待っていると、玄関の扉が開かれて宮田の姿が現れた。
ブルーのシャツにジーンズというラフな格好の宮田をぼんやり見ていると、宮田は門を軽く開けて門柱に凭れかかる。
「で?」
「え?」
突然疑問系で口を開いた宮田に、一歩は咄嗟に反応出来なかった。
「だから、何しに来たんだよ」
「……やっぱり……」
「『やっぱり』?」
眉を寄せた宮田に、一歩は大きく両手を振る。
「あ、何でもないんだ」
そんな一歩を予想通り不審そうな目で見ながら、宮田はそこにじっと立っている。

「で、何の用件だよ?」
話を切り出さない一歩に少々苛ついてきたらしい宮田が、腕を組みながら尋ねてくる。
「うん……」
いざとなると、どう切り出していいものか分からない。
一歩が言葉を濁していると、宮田の機嫌がどんどん下降していく。
「おい……」
元々短気な宮田にイライラした声をかけられて、一歩は覚悟を決めた。

「……宮田くん! お誕生日おめでとう!」

一息に言ってしまってから、一歩は思わず宮田から目を逸らしてしまう。
宮田の反応を見るのが、怖いためだ。
何も言葉を発さない宮田を、一歩はそおっと窺うように見てみた。

予想していたような表情はそこにはなく、ただ心底驚いたような、素の表情をしていた。
「何でお前がオレの……ああ、木村さん達か」
一歩に答えを聞く前に思い至ったらしい宮田は、1人で納得してしまったようだ。
納得して、そのすぐ後にまた疑問が生まれたらしい。
「お前、それだけ言うためにわざわざウチまで来たのか?」
「う、うん。プレゼントとかは用意する暇なくて。ごめんね」
「別に、この歳になってそんなもんいらねえけど……じゃあ、本当に言うためだけに来たのか」
その声に呆れたような響きを感じ取り、一歩はシュンと下を向く。

「み、宮田くんは違うかもしれないけど、ボクは、宮田くんを大事な友達だと思ってるから。
 だから、宮田くんの誕生日にはお祝い言いたいなって思ったんだよ」
一歩は間が空くのを嫌うように、矢継ぎ早に喋り出す。
「それに、ほら、宮田くん、今日で17歳でしょ? プロテスト受ける資格が得られる待ちに待った日だし……」
『プロテスト』の一言に反応したらしく、宮田が表情を引き締めた。
「そうだな。これでようやく、プロになれる」
「ボクも凄く楽しみなんだ。宮田くんが『プロボクサー』になるの」
思わず目を輝かせて顔を上げると、宮田と目が合ってしまった。
「……お前は、誕生日いつだ?」
「えっ……えっと、ボクは、11月23日だけど……」
誕生日を訊かれるとは思っていなかったので、若干うろたえながらも答える。
「あと、3ヶ月か」
「うん……」
少し何かを考えるように視線を伏せた後、宮田は一歩に向き直る。

「そういう意味で言うなら、オレもお前の誕生日が楽しみだな」
「ボクの……?」
「一足先にプロの世界を見てくるからな。お前も17になったら寄り道せずにさっさと来いよ」
宮田は右手で拳を作り、軽く一歩の胸にトン、と置いた。
一歩は一瞬呆けたような顔をした後、見る見るうちに顔を綻ばせて勢い良く返事をした。

そんな一歩の様子に僅かに表情を緩めると、宮田は門の内側へと身体を滑らせた。
「じゃあな」
背を向けた宮田に、一歩は門に手を置きながら声をかける。
「宮田くん! 本当に、お誕生日おめでとう!」
その声に顔だけ振り向かせた宮田から発せられた言葉に、一歩は一瞬耳を疑った。
「……サンキュ」
その顔が笑っていた事が信じられなくて一歩がポカンとしている間に、宮田は自宅へと入ってしまっていた。




嫌がられる事を覚悟で言いに来た、お祝いの言葉。
まさか、お礼を……しかも笑顔で言われるとは思ってもみなかった。
一歩は思わず自分の頬を思いきりつねってみた。
「……痛い」
という事は、これは決して夢を見ているわけではなく現実なのだ。



嬉しい。
そんな言葉が、一歩の胸の内にスッと下りてきた。
宮田が、自分の祝いの言葉を喜んでくれた。
一歩の誕生日が楽しみだと、そう言ってくれた。

嬉しい。
嬉しい、嬉しい、嬉しい。
それだけでいっぱいになって、一歩は顔の筋肉が緩んでいくのを止められない。



宮田くん、17歳の誕生日、おめでとう。
もう一度心の中で呟いて、一歩は自宅への道を走り出した。









END









後書き。

一歩にとって、初めての宮田くんの誕生日です。
お互いまだ高校生の頃のお話で、恋愛未満の2人。
高校生の頃の宮田って、一歩に対して割と笑顔見せたりよく喋ってたりしてましたよね。
その辺意識して書いてみたんですが、他のSSとの違いが出てたらいいなあと思います。
あと、木村に詰め寄る一歩が、書いててさりげに楽しかったです(笑)



2005年8月27日 UP




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