待ち人来たりて



いつものようにトレーニングを終え、ジムを出ようとした時だった。
「おう、一歩!」
不意に掛けられた声に振り向くと同時に、首を抱えこまれる。
「いっ……いたたたたた! な、何するんですか、鷹村さん!」
手をジタバタさせながら、一歩は片腕で自分の首を締め上げている鷹村に抗議の声を上げる。
「何だあ? こんぐれえで大袈裟な声上げてんじゃねえぞ」
一歩の頭をバシバシ叩き、鷹村は豪快に笑う。
「……これで大袈裟なら、いつか死んじゃいますよ……」
首をさすりながら、一歩はため息をつく。

一歩がジト目で見上げると、鷹村は面白そうににんまりと笑みを浮かべる。
嫌な予感がした一歩は、さっさと逃げ出した方がいいと思い、挨拶だけしてそそくさと帰ろうとしたが、その首根っこを掴まれる。
「折角心優しいセンパイがコウハイの誕生日を祝ってやろうってのに、その態度は何だ? ん?」
「……誕生日?」
キョトンとして鷹村を見ると、一瞬の間の後、呆れたような声が降ってきた。
「んだあ? テメエの誕生日も覚えてらんねえのか? ちっとスパーで殴られ過ぎたか」
そこまで言われて、ようやく明日が自分の誕生日であった事を思い出す。
そういえば、明日は勤労感謝の日で高校も休みだ。
日が日であるだけにおそらく明日になれば思い出していただろうが、今日はすっかり忘れていた。

「思い出したか。そこで……だ」
一旦言葉を切ると、鷹村は大威張りで胸を張ってこうのたまった。
「このオレ様が、貴様の誕生日を盛大に祝ってやろうと思ってな!」
「鷹村さんが!?
数年後の一歩であったならおそらくこの時点で危機を感じ取っていたであろうが、まだジムに通い始めて1年も経っていない今の一歩はただ純粋に驚いていた。
それどころか、ここ数年友人に誕生日を祝ってもらった経験など殆どない一歩にとっては、むしろ感激の極致である。
「本当ですか!? うわあ、嬉しいなあ」
大喜びの一歩には、鷹村の背後でため息をついている木村と青木の様子を感じ取る事など出来ない。
「おう! 明日の19時に現地集合だ! いいな!」
それだけ言うと、鷹村はジムを出て行ってしまった。

その『現地』とやらの場所を木村に聞き、その日は家路に着いた。
木村と青木の「覚悟だけはしてこい」という言葉が気に掛かったが、詳しい事は何も教えてもらえなかった。
それでも、木村と青木も一緒にお祝いをしてくれると聞いて、一歩は嬉しさを噛み締めていた。
こんな風にジムの仲間が自分の誕生日を祝ってくれる、その気持ちが嬉しかった。





翌日、トレーニングを終えてから一旦家に戻って着替え、時間を見て家を出る。
道を歩きながら、一歩は昨日鷹村が帰り際にちらりと言った事を思い出していた。
『宮田のヤツも呼んだからな』
いくら呼んだとしても、宮田が自分の誕生日を祝いになど来てくれるはずはないと思う。
あのメンバーなら十中八九バカ騒ぎになるだろうし、宮田はそういった騒ぎを嫌うだろう。
そもそも、宮田がわざわざ足を運んでくれるほど自分に好意を持ってくれているとは思えない。
だから、期待するだけ無駄なのだろう。

分かっていても、ひょっとしたら会えるかもしれないという思いが一歩の中にある。
宮田がジムを移ってから殆ど会う事がなくなっただけに、会える機会があるならそれに期待したくなる。
ジムで一緒にトレーニングをした時間は、余りに短かった。
その短い期間も、『再戦』という目標があったために言葉を交わす事は少なかった。
本当はもっともっと話をしたかったのだ。
『ライバル』なんて呼べるほどの実力は自分にはまだなくて、せめて『知り合い』ではなく『友達』と呼べる間柄になりたかった。
宮田にしてみれば迷惑この上ないだろうが、一歩は宮田にもっと近付きたかった。
ボクサーとしても、1人の人間としても。

3ヶ月前の宮田の誕生日を思い出す。
あの時、ほんのちょっとだけ近付けた気がした。
宮田が見せてくれた笑顔が嬉しくて、いつになく舞い上がっていたのを覚えている。
だけど、結局アレから顔を合わせたのは鷹村の試合の時だけだ。
間柴という同期らしい男と顔を合わせ、結局ピリピリしたムードのまま別れてしまった。
この3ヶ月の事を思い返すと、近付けたと思ったのは自分に都合の良い思い込みだったのかもしれないとも思う。
結局のところ、宮田にとっての自分の立ち位置は全く変わっていないのかもしれない。

そんな風に考えると、知らずため息が出た。
先程まで軽かった足取りも、どこか重くなる。
俯き加減に歩いていると、横から突然声をかけられた。

「……何、ため息つきながら歩いてんだよ」
聞き間違えるはずのない声に、それでも信じられなくて一歩は勢い良く振り返った。
「み、宮田くん!?
そこに立っていた人物を見て、思わず一歩は目を擦る。
しかし、何度目を擦っても瞬きしても、宮田は間違いなくそこにいた。
「ほ、本物の宮田くんだ!」
「……当たり前だろ。どこに偽物のオレがいるってんだよ」
バカか、とでも聞こえてきそうな声音だが、この際それはどうでも良かった。

「宮田くん……どうしてここに?」
微かな期待を込めて、一歩は宮田に尋ねてみた。
「太田スポーツに行った帰りだけど?」
しかし、あっさり返された答えに一歩の肩が落ちる。
「そ、そう。そうだよね」
もしかしてもしかしたら、という期待は儚くも脆く崩れ去ってしまった。

一歩がしょんぼりとため息をついていると、宮田がバツの悪そうに顔を背けた。
「……行ったら、あの人達に何されるか分かんねえからな」
その言葉の意味が良く分からなかった一歩だが、ふと、1つの考えが浮かんだ。
それは、鷹村達に遊ばれたくないから行きたくないだけで、一歩を祝うのが嫌だとかそういう事ではない、という事だろうか。
「えっと、宮田くん」
言いかけた一歩を遮るように、宮田が一歩に視線を向ける。
「時間」
「え?」
「遅れて、とんでもねえ罰ゲームとかやらされても知らねえぞ」
言われて、集合時刻が差し迫っている事に気付く。
「あ! ほ、ホントだ! 行かなきゃ!」
一歩は時計を見て、慌てふためく。

「……それじゃ、宮田くん、またね」
名残惜しい気持ちを押し殺してそう言うと、一歩は走り出しかけた。

「幕之内」
呼ばれて振り向くと、目の前に放り投げられたモノを咄嗟に掴まえる。
宮田が放り投げたらしいその小さな袋と宮田を交互に見つめる。
「……やるよ」
「あ、ありがとう、宮田くん」
驚きを隠せぬまま礼を言うと、宮田の表情がほんの少し和らいだ。

「……プロテスト、こけるなよ」
そう言うと、宮田は踵を返して行ってしまった。



半ば呆然とそれを見送った一歩が我に返った時には、もう宮田の姿は見えなくなっていた。
手の中の感触を思い出し、その小さな袋をガサガサと開ける。
そこに入っていたのは、数本のバンテージだった。
太田スポーツに行った帰りだと言っていたから、そこで買ったものだろうか。

そこまで考えて、一歩はある事に気がついた。
太田スポーツから宮田の家に帰るのに、この道は通っただろうか?
むしろ、逆方向になるのではなかったか。
川原ジムにしても、こちらの方向ではなかったはずだ。
そういえば、宮田は一歩の方に歩いてきて声を掛けたわけではなく、立ち止まっている宮田の横を俯きながら歩いていた一歩が気付かずに通り過ぎようとしたところに宮田の声が掛かった。
立ち止まっていた。どうして? あんな、何もなさそうなところに?

まさか、そんなはずはないと思う。
そんな事、有り得ない。頭の中でそう繰り返す。
しかし、何度繰り返しても、もしかしたらという声がその上に重なる。



もしかして、これを渡すためにここで待っていてくれたのだろうか?



「そんなはず……ないよ」
確かに宮田は鷹村からの連絡で時刻と場所は知っていたから、このくらいの時間に一歩がここを通るだろう事は予想出来るだろうけれど。
「そんなはず、ないよね」
そう口に出しても、その声にはどこか嬉しそうな響きが混ざる。



『プロテスト、こけるなよ』
別れ際の宮田の言葉を、反芻する。
あれはきっと、宮田なりの激励。

「……ありがとう、宮田くん」
一歩は、手の中のバンテージをギュッと握りしめる。



────必ず、プロテスト合格してみせるよ。……この、バンテージを巻いて。



一歩は決意の篭った眼差しで、宮田がくれたバンテージを見つめた。






その後、結局遅刻してしまった一歩が鷹村にどのような目に遭わされたかは、また別のお話である。









END









後書き。

「特別な日」と同じ年の、今度は宮田と出会って初めての一歩の誕生日です。
宮田は素直に「おめでとう」は言えないだろうと決めつけて、書いてみました(笑)
でも、例え鷹村から連絡を貰わなかったとしても、一歩の誕生日は絶対に覚えていたはず。
プロになれる資格を得られる歳になる、大事な日ですしね。
まだ友情の範囲内の2人ですが、このくらいの距離感も実は結構好きだったりします。



2005年11月23日 UP




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