KISS! KISS! KISS!



「じゃあ、またね! 宮田くん!」
手を振りながら駆け出していく一歩を見送りながら、宮田もまた軽く手を上げた。
一歩の姿が見えなくなってから、小さくため息をつく。

今日は宮田のバイトが休みだった事もあって、朝から一歩と出掛けていた。
お互い夕方のジムワークの時間までという時間制限付きだが、それでも十分だ。
世間一般的なところでの『デート』と呼んで差し支えないだろう。
周りの目には男2人連れがどう映っているのか分からないが、そんな事はどうでもいい。
宮田は一歩と2人で出掛けるのは好きだし、一歩もそうだと思う。
付き合い始めて間もない頃に感じたぎこちなさも、少しずつ和らいでいっている。

今のところ2人の関係はかなり上手くいっていると、そう思う。
しかし、今の宮田には1つの悩みがあった。
うっかり鷹村や木村に聞きつけられれば面白半分に騒ぎを大きくされかねないので、誰にも話せない。
というか、話す気もない。宮田のプライドがそれを許さない。

一歩と付き合い始めて、結構な時間が経つ。
そうなってくると、宮田としても考えずにはいられなくなるのである。



せめて、もう1歩だけでも先に進みたい。



何も行き着くところまで行ってしまおうとか、そんな事は考えていない。
いや、全く考えていないと言えば嘘になるが、宮田とて段階くらいはちゃんと踏もうと思っている。
焦って一歩を傷付ける事はしたくないし、嫌われる事だけは絶対に避けたい。

だから、今はせめて……キスだけでも。
そんな風に思うのだが、なかなかチャンスが巡ってこない。
かといって、積極的にチャンスを作るまでには思い切れない自分が情けなくて仕方がない。

そもそも、一歩の方がそれを望んでいるかが分からない。
一歩は宮田を好きだと言ったし、それは間違いなく事実だろう。
だが、一歩は果たして『恋人』という関係の先にどういう行為があるのか、理解しているだろうか?
もちろん、一歩だって成人男性なのだから知識は当然あるだろう。
しかし、それを自分達の事として考えた事があるのだろうか。
何しろ『ウブ』を具現化したような一歩である。
今の、たまに手を繋いだりするくらいの関係ですっかり満足してしまっている可能性も否めない。

ましてや、自分達は男同士だ。
男女の仲ならば自然と考えられる行為も、男同士となると少々事情が変わってくる。
宮田としては一歩とそういった関係になる事を想像しても、嫌悪感などは不思議と感じない。
以前の自分なら、男とキスしたりそれ以上の事をしたり……などと考えただけで吐き気がしただろう。
いや、今でも変わらないかもしれない。
一歩だけが、例外なのだ。

ただ、宮田自身はそうであっても、一歩もそうであってくれるか自信がない。
一歩は確かに宮田を好きで、しかし、あくまでそこまでなのかもしれない。
好きで一緒にいられるだけで満足で、それ以上など考えた事もないのではないだろうか。
そうだとしたら、宮田が1歩踏み出そうとする事は、逆に一歩に『男同士である事の嫌悪感』を生じさせる事になりはしないだろうか。

もしもそうなってしまったら、と考えて宮田は無意識に拳を握る。
一歩が、「男同士で付き合うのはやっぱり無理」だという結論に達してしまったら。
離れていこうとする手を再び掴む術は、宮田にはない。



「情けねえ……」
両手をポケットに突っ込んで僅かに空を見上げながら、宮田は呟く。
自分は、果たしてこんなにも情けない男だっただろうか?
たった1人の気持ちを量りかねて右往左往するような、女々しい男だっただろうか。
一歩と出会ってからというもの、一歩絡みの事になると調子が狂いっぱなしだ。
最も調子が狂う事は、今の自分がさほど嫌いではない事だ。
どうなってしまったのだろうと思うが、今更以前の自分に戻りたいとも思わない。

ふと気付くと、いつの間にやら川原ジムの前まで来ていた。
宮田は微かにため息をついて首を横に何度か振ると、ジムのドアを開けた。






2週間後。
チャンスは唐突にやってきた。

一歩が深夜のボクシング中継を録り逃したらしく、宮田の家までビデオを観に来るというのだ。
ついでに言うなら、今は父は留守だ。
まさに、おあつらえむきのシチュエーションというヤツである。

家で一歩を待ちながら、宮田はビデオデッキのある居間の中をウロウロと歩き回っていた。
いや、こんなに動揺する必要など本当はないのかもしれない。
一歩は純粋にボクシングのビデオを観に来るだけだろう。
ビデオを観て、宮田と色々話をして過ごす。一歩が望んでいるのはそれだけだ。
分かっている。分かってはいる、のだが。
誰もいない家に2人きり、という状況に、宮田が内心で浮き足立つのはやむを得ないところだろう。

居間のテーブルを何周かしたところで、玄関のチャイムが鳴った。
瞬間、宮田の身体が凍りついたようにピタリと止まる。
そして、一度深く呼吸してから玄関へと向かった。





「こ、こんにちは、宮田くん」
ドアを開けた目の前には、ほんのり顔を赤くした一歩が立っている。
「……ああ、入れよ」
妙に意識しすぎる気持ちを抑えようとして、そっけない返事になる。
もっとも、一歩の方も宮田のそっけなさにはもう慣れてしまったのか気にする様子はない。





ビデオを観終わり、しばしボクシング談義に花を咲かせる。
相変わらず、ボクシングの事となると一歩は眼の輝きが違う。
宮田は、一歩のこの眼が好きだった。
真っ直ぐに前だけを見つめるこの眼差しが、いつの間にか宮田の奥深くまで入り込んでいた事に気付いたのはいつだっただろう。
一歩の話に相槌を打ちながら、宮田は眩しそうに僅かに目を細めた。

途端、それまで宮田の隣で興奮気味に話していた一歩の言葉が途切れた。
ポカンとした顔で、宮田を見つめている。
「……どうしたんだ? オレの顔に何かついてるかよ」
「え? あ、ううん! ご、ごめん、何でもないんだ!」
一歩は慌てて首を振ると、宮田から視線を外して俯いてしまった。

急に俯いて黙り込んでしまった一歩に、宮田は少なからず不安を覚える。
何かおかしな事を言ってしまっただろうか。
それとも、また不機嫌な顔でもしてしまっていたのだろうか。
「幕之内?」
意識して、出来るだけ優しい声音で呼んでみた。

顔を上げてほしい。
こちらを見てほしい。
内心でそう思っていても、どうしても口には出せない。

名前を呼んだ事で、一歩がゆるゆると顔を上げる。
宮田の方に向けたその顔は、心なしか赤く見える。
じっと宮田を見つめるその視線に、宮田の心拍数が早まっていく。
宮田が何か言おうと口を開きかけた時、一歩が嬉しそうに笑った。
「さっき、宮田くんがすっごく優しい顔で笑ってくれたから、驚いちゃって」
そう言って、一歩はまた少し俯き加減になる。
「……なんか、やっぱりボクって、宮田くんが大好きなんだなぁ……って思ったんだよ」
笑顔はそのままに、一歩は照れたように頬を掻きながら呟いた。



抱きしめたい。

不意に、そう思った。



宮田は一歩の腕を取ると、引き寄せた。
やんわりと、一歩の身体を抱きしめる。
「み、宮田くん……?」
少し慌てたような一歩の声を聞きながら、宮田は抱きしめる力を強めた。

腕の中でこわばっていた一歩の身体から力が抜けたのを感じて、宮田は少し身体を離した。
一歩の顔を覗き込むような体勢で、右手を一歩の頬に当てる。

一歩の意思を無視したくはない。
しかし、さすがに「キスしていいか」とは訊けない。
だから、宮田は殊更ゆっくりと一歩に顔を近づけていった。
一歩が嫌ならば、ちゃんと拒否できるように。

かなり間近まで近付いても、一歩は逃げなかった。
一歩がギュッと眼を閉じたのを見て、宮田も緩やかに眼を閉じた。



唇が触れ合った瞬間、一歩の身体が僅かに震えた。
もっとも、宮田も微かに震えている自分を自覚していた。
それが緊張のためなのか、歓喜のためなのか。
そんな事を判断できるほどの冷静さは、今の宮田にはなかった。





触れ合っていた時間がどのくらいか、それも分からぬまま宮田は触れた時と同じくらいゆっくりと唇を離す。
眼を開けると、ほぼ同じに眼を開けたらしい一歩と視線が合った。
その瞬間、一歩の顔が真っ赤に染まり、勢いよく宮田から離れて下を向いてしまった。

宮田としても、すぐに気持ちを切り替えられるほど経験豊富なわけはなく、口に手をやった状態で一歩にかける言葉を考えあぐねていた。
どうにか気持ちを落ち着かせ、宮田は一歩を見遣る。
1つだけ、どうしても確認しておかなければならない事があった。

「……嫌だったか?」
そう口に出した途端、先日考えていた不安が急激に蘇ってくる。
もし、ここで肯定が返ってきてしまったらと思うと、先程までとは別の意味で鼓動が早くなる。

「嫌なわけないよ!」
バッを顔を上げて即答した一歩に、宮田は表情を変えぬまま内心でホッと胸を撫で下ろした。
未だ一歩の顔は真っ赤なままで、相当照れている事が分かる。
宮田とて照れていないわけではないのだが、こういう時は感情が表情に出にくい性質で良かったと思う。
やはり、宮田としては一歩には出来る限り余裕のあるところを見せていたい。

そんな事を考えていると、一歩が少し視線をさまよわせ、躊躇いがちに尋ねてきた。
「宮田くんこそ、嫌じゃなかった?」
「嫌なら最初からするかよ」
仕掛けたのは宮田の方だというのに今更何を言い出すのかと、宮田は少々呆れ顔で答える。
「うん、でも……ボクは女の子じゃなくて、柔らかくもないし感触だって良くないだろうし…………期待外れだったら……って、思って……」
そんな事を思うはずがない、と宮田は僅かに眉を寄せる。
けれど、正直なところ、一歩の不安が宮田にも分からないわけではない。
宮田自身、一歩にそういう感想を抱かれたらという不安が少なからずあったからだ。

若干の沈黙の後、宮田は一歩の両肩を軽く掴んだ。
「宮田くん?」
「……期待外れなんかじゃねえって、証明してやろうか」
宮田の言葉の意図するところを数瞬の間の後に理解したらしい一歩が、少し動揺した様子を見せた。
だが、意を決したように一歩は小さく頷いた。



そうして、再び互いの距離が縮まり、まさに触れ合わんとしたその時。



ガチャガチャ、と鍵を回す音が耳に届き、宮田と一歩は弾かれたようにその身体を離した。
余りといえば余りなそのタイミングの良さに、宮田のこめかみに青筋が浮かぶ。
何も、よりによって今この瞬間に帰ってこなくてもいいじゃないか……と、父に対して理不尽な怒りが湧く。
最初のキスの時じゃなかったのが不幸中の幸いとも言えるが、今の宮田にはそれも余り慰めにはならない。
何しろ、最高潮まで高まっていたムードを完全にぶち壊されたのである。
恨み言の1つ2つ言いたくなっても無理のない事だろう。

一歩はというと、顔を真っ赤にしたまま慌てて立ち上がっている。
「え、えっと、そ、そ、それじゃあ、ボク、帰るね、宮田くん!」
うろたえながら一歩が荷物を手に取るのとほぼ同時に、父が居間に姿を見せた。

「今帰った。…………おや、幕之内。来ていたのか」
「あ、は、はい! 録り逃した試合のビデオを宮田くんに見せてもらってたんです!」
「そうか。私は上にいるから、ゆっくり……」
そう父が言い終わらぬ内に、一歩が矢継ぎ早にまくし立てる。
「い、いえ! ボクはもうこれで失礼します! お邪魔しました!」
「では、気をつけてな」
「はい! ありがとうございます! 宮田くんも今日はありがとう!」
一気にそこまで言うと、一歩はもう一度父に「失礼します」と頭を下げると瞬く間に帰ってしまった。

急にシンとした室内で、宮田は憮然とした顔で座っている。
「……おかえり」
それでも一応挨拶をする辺りは、日頃の教育の賜物であろうか。
「ああ、ただいま。ところで一郎」
「何だい」
不機嫌なまま、すっかりぬるくなった麦茶に口をつける。
「幕之内を呼ぶなら事前に言うように。帰りを遅くするからな」
何気なく発せられたセリフに、宮田は力いっぱいむせてしまい、盛大に咳き込む。
ようやく落ち着きを取り戻し、何を言い出すのかと振り返った時には父は既に居間を出ていった後だった。


理解があると喜ぶべきなのだろうが、素直にそう思う気になれないのはこのひねくれた性格のせいだけだろうか。
とりあえず、次に機会がある時は絶対に邪魔の入らないところを選ぼう……と宮田は固く心に決めた。









END









後書き。

111111HITのゆーき様に捧げさせて頂きます!
リク内容は『宮一のファーストキス』でした。
コメディとシリアスとラブ甘が微妙に入り混じったようなモノに仕上がっております……。
純情少女漫画テイストを目指してみましたが、いかがでしょうか。
少しでもゆーき様のリクエストに沿えていれば嬉しいです。
こんな感じに出来上がりましたが、よろしければお受け取り下さいませv



2006年6月28日 UP




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