闇路



その夜、そこに来たのは気紛れだった。






妙に寝苦しい夜だった。
身体はバイトとトレーニングで疲れ切っているのに、何故だかいつまでも眠りにつく事が出来ない。
何度目かの寝返りをうった後、宮田はベッドから起き上がった。
このままではどうせ眠れそうにないと思い、Tシャツにジーンズというラフな格好に着替えてそっと家を出た。
特に何処か行くところがあったわけでもなく、気分を換えるための散歩のようなもの。
何を考えるでもなく、ただ宮田はゆっくりとした足取りで歩いていた。

空は厚い雲が覆っており、星はもちろん月の光の欠片さえも見えない。
それが今の自分の心のようで、空を見上げていた宮田は眉を顰め視線を前に戻した。
眠りが訪れないのは高い気温と湿度のせいもあるが、それだけではない。
それを宮田も分かっているが、分かっているからこそ余計に苛立ちが増して眠りを妨げるという悪循環の繰り返しだった。
トレーニングに支障は出ないように気をつけているが、それでも父には多少勘付かれているかもしれない。
それでも何も訊こうとはしない父を、ありがたいと思う。
今は、まだ何も話せないから。
宮田は歩く足を速め、次第に走り出した。
軽く流す程度でも、余計な事を考える事なく走れば眠れるようになるのではないか。そう思ったのだ。



そうして、どれくらい走っただろう。
いつの間にか、土手の方まで来てしまった自分に気付く。
ここはいつも一歩がロードコースにしている土手だ。
別に来ようと思って走っていたわけではないのだが、無意識に足が向かってしまったようだった。
その事に気付いて、宮田は微かに眉を寄せる。
……と、不意に宮田の足が止まった。

足を止めて見下ろしたその場所は、初めてまともに一歩と話をしたあの場所だ。
確か、一歩の初めてのボクシングシューズを選んでやった時にお礼などと言って一歩がジュースを差し出してきて。
それで、何となくこの土手に座って一歩と話をした。

……あの時は、別に一歩の事などさほど気には留めていなかったのに。
最初のスパーのあのタフさには些かプライドを傷付けられたが、ただそれだけだった。
いや、再戦の後ですら、ボクサーとしての一歩を認めはしたものの、個人的な感情など抱いてはいなかったはずだった。
ただ、一歩の強さを認め、勝ちたいと願った。
それだけだったはずなのに。

それが変わったのはいつからだったか。
思い出そうとしても、最早そのきっかけすら思い出せない。
だが、確実に一歩の存在は宮田の内に侵食し、その心に変質をもたらした。
自分の感情が、世間一般的にはまともじゃないものだと分かっている。
分かっていても、それがじわじわと広がっていくのを止められない。
いくら止めようともがいても、自らの心が言う事を聞いてはくれない。
止められないなら、いっそ全部曝け出してしまえれば楽だろうに、それも出来ない。



「……情けねえ」
ポツリと呟いて、宮田は踵を返して元来た道を戻ろうとした。
その時、夜の静寂の中に聞き慣れた声が響いた。

「宮田くん!」

一瞬、迷った。
このまま、振り返らずにこの場を立ち去ってしまおうかと。
けれど、その迷いの間にも声の主は更に何度も呼びかけつつあっという間に宮田のすぐ傍まで来てしまった。

なおも振り返らないまま宮田がその場で立ち尽くしていると、後ろから不安そうな声が掛かった。
「宮田くん……だよね?」
そう言いながら、俯き加減の宮田の前に回り込んで僅かに覗き込むように見上げてきた。
「良かったぁ、やっぱり宮田くんだ。暗かったし、もし人違いだったらどうしようかと思った」
宮田である事を確認して、一歩はホッとしたように息をつく。
その視線が合った途端、宮田は思わずふっと視線を逸らしてしまった。

「宮田くん? どうしたの、こんな時間にこんなところで」
最初は単に宮田の姿を見付けて嬉しさだけで駆け寄ってきたものの、ようやくそこに思い至ったらしい一歩が躊躇いがちに尋ねてきた。
「……お前の方こそ、こんな時間に何してんだ」
一歩の問いには答えず、宮田は質問で返す。
「え、ボクは、何となく眠れなくて……。で、散歩でもしようかなって」
よりによって今夜、同じような理由でしかも同じ場所に来なくてもいいだろうに、と思う。
何故今、このタイミングで会ってしまうのか。
ただでさえ、一歩への気持ちを持て余していてどう接していいかすら分からないというのに。

そんな宮田の思いなどまるで分かっていないかのように、一歩はニコニコと嬉しそうだ。
「そういえばさ、ここって前に宮田くんと一緒にジュース飲んで話したところだよね」
一歩がそれに気付いた事に微かな嬉しさを感じると同時に、小さな痛みも生まれる。
「ここでこんな風にまた偶然会うなんて、運命的な感じだよね」
そのセリフに、つい一歩を見る視線がキツくなった。
それを見て取って、一歩は途端に慌て出す。
「あ、ご、ごめん! 変な事言って!」
そう言うと、一歩はシュンと下を向いてしまった。

『運命』という言葉が一歩から自分に向けられるのが、嫌なわけじゃない。
いっそ、本当にそうであったならどんなにいいだろうと思う。
だが、一歩はそんな深い意味を込めて言ったわけじゃない。
コイツはいつもそうだ、と宮田は唇を噛む。
いつも、さして深い意味もなく、期待させるような言葉を吐く。
さっきの「運命」だとか、もしくは「一番」だとか「好き」だとか。
それは一歩の性格から考えても偽らざる気持ちなのだろう。
しかし、そこに込められている意味は、期待してしまうものからは程遠い。
それが分かっていれば尚更、それらの言葉は余りに残酷だ。

宮田自身、自分の考えている事が、そして一歩に取っている態度が如何に自分勝手なものかよく分かっている。
一歩には一点の非もない。ただ、自分の気持ちを正直に言葉にしているだけだ。
それを、自分が勝手に嫌な解釈をして一歩に八つ当たりをして。
そんな風に一歩を傷付けるしか出来ない自分に、吐き気すらする。
だが、一歩の言葉1つ1つに感じる痛みは、宮田の態度をどんどん硬化させてしまう。
こんな事ではいけないと分かっていても、どうにも出来ない。

一歩の方を見れば、宮田を怒らせたと思っているらしく何を言えばいいのか分からずに必死に言葉を探している風だ。
本当は、何を言っていいのか分からないのは宮田の方だ。
こういう時、自分の口下手さとこの性格が疎ましくて仕方がない。
優しい言葉をかけてやりたいのに、実際には冷たく突き放す言葉しか出て来ない。
自分の想いを気付かれる事が怖くて、一歩が近付いた分だけ、いや、それ以上に離れようとする。

「み、宮田くん」
意を決したように顔を上げた一歩の声が、静寂を破った。
「さっきはおかしな事言ってごめん。こんなトコで会えたから、つい嬉しくって」
困ったように眉を寄せて笑うその顔は、一歩が時々見せる無理をした笑顔。
そうさせているのは自分なのだと思うと、宮田の胸を何かがチクリと刺した。
「そ……それじゃ、ボク、帰るね。明日の朝も仕事あるし……」
そう言って、一歩はくるりと身体の向きを変える。

「幕之内」

無意識の内に声が出た。
呼び止めてしまった事に、一番驚いたのは宮田自身だ。
そのまま見送っていれば良かったのに。
何故、呼び止めてしまったのか。

呼び止めたものの一向に言葉を継ごうとしないしない宮田に、一歩は振り返ったまま戸惑っている。
しかし、宮田も何かを言おうとして呼び止めたわけではないので、継ぎようがないのだ。
「宮田くん?」
どこか不安そうに、一歩が声を掛ける。

「……オレは……」

いっそ、全てを言ってしまえたら。

そう心の中で何かが囁いた瞬間、一歩の軽蔑の視線が頭の中を掠めた。
冷やりとしたものが身体の中を伝い、出かかった言葉を飲み込ませた。

「宮田くん、どうしたの? 顔色悪いけど、どこか具合悪いとか……!」
いつの間にかすぐ傍まで来ていた一歩が、宮田を心配そうに見つめていた。
「……いや、何でもねえ」
そうとだけ言うと、宮田は顔を見られないように一歩に背を向けた。

「お前、明日も仕事なんだろ。早く帰って寝ろよ」
自分から呼び止めておいてこれほど勝手な言い分もないのだが、宮田としてもそこまで考えていられる余裕がなかった。
「うん……宮田くんも、無理しないでね」
まだ声音は心配そうだが、それでも一歩はゆっくりとではあるものの自宅への道を帰り始めた。
ちらちらと振り返ってこちらを気にかけている一歩の視線から逃れるように、宮田もまた辿ってきた道を戻る。


ふと見上げると、そこには最初に見た時と同じ、雲に覆われた空が見えた。
まだ、光は差さない。
それでもいつか、この雲も晴れる時は来るはずだ。
途中で雨が降ろうと、雷が鳴ろうと、いつかは。

もっとも、それを早めるか遅らせるか、それは自分次第である事も分かっている。
そしてまだ、今の自分では雲を振り払えそうにない事も。

いつか、今よりも身体も精神も強くなって、それだけの力を手に入れる事が出来たなら。
その時は、きっとこの手で振り払おう。

そこにあるのが、満月なのか、新月なのか。それはまだ、分からないけれど。









END









後書き。

果たしてこれが、誕生日というめでたい日にふさわしいものなのかは甚だ疑問ですが。
しかも、全く誕生日とは関係ないネタですし(汗)
私の書く宮田くんはどこか臆病というか、一歩に嫌われるのがとことん怖いようです。
つーか、進展しない……。進まないよ、この2人……!(私のせいなんだけど)
最後だけちょっとポジティブ(?)な思考になってるようなので、そこに期待したいところ。



2004年8月27日 UP




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