片恋



眠れない……。

諦めたように目を開けると、ところどころ薄く汚れた暗い天井が目に入る。
1時間程前に布団に入って目を閉じていたにも関わらず、未だ意識は沈んでくれない。
寝付きが良い方である一歩には珍しい事だった。
疲れていないわけじゃない。むしろ、身体は確実に休息を欲している。
なのに、意識だけが冴えて眠りに入ろうとする身体を邪魔している。
そうして、早く眠らなければという思いが強くなればなるほど目は冴えていく一方だ。

一歩は1度深く息をつくと、起き上がって着替える。
このまま布団でゴロゴロしていても眠れそうにない。
少し外を歩いて気分を落ち着かせれば、案外すんなり眠れるかもしれない。
そう考えて、一歩は母親を起こさないように気をつけつつそっと部屋を出た。
引き戸になっている玄関を開ける時に少々音を立ててしまい、一歩はビクリと身体を硬直させる。
微動だにしないまま様子を見るが、母が起きてくる様子がない事を確認するとホッと息をついた。




雲に覆われた空の下を、ぼんやりと歩いていく。
眠れないのは意識が軽い興奮状態にあるせいなんだろう。
そして、その原因はといえば、ただ1人の人物だ。

宮田の事を考える時は、いつも一歩は冷静になれない。
もっとも、いつも冷静とは言えないが、宮田の事になると一層落ち着かなくなる。
その理由は自分が一番よく分かっている。
それに気付いたのは、そんなに前の事ではないけれど。

出会った時から一歩の憧れだった宮田。
強くて格好良くて自信家で、一歩が持っていないものを全て持っている。
そんな宮田に少しでも追いつきたくて、入門してから宮田を目標に頑張ってきた。
それはスパーリングで再戦を果たした後も、ずっと変わらなかった。

それだけでいられたら良かったのに、と思う。
ただ、目標という位置付けのままでいてくれたら、こんなにも悩まずに済んだんだろう。
でも、宮田は一歩の中で目標を遥かに飛び越えた位置に立ってしまった。
一歩には、背を向けたまま。

宮田の眼差しが一歩の方へ向けられる事なんてない。
それは分かっているのだからさっさと諦めてしまえればいいのに、想いを捨てようと思えば思うほど宮田への想いはどんどん増していくばかりだった。
どうして、こんなにも好きになってしまったのだろう。
宮田の事を考えない日なんてなくて。
迷惑になるから会いには行けないけれど、偶然見かけたりするとたまらなく嬉しかった。
一言二言会話を交わせれば、その日1日幸せだった。
絶対に報われない想いに辛くなる時も多いけれど、それ以上に宮田は一歩に暖かな気持ちをくれた。

会いたい、と不意に思う。
どんよりとした雲に気持ちまで覆われてしまいそうな今こそ、宮田に会いたかった。
もちろん、こんな時間に会いに行くなんて出来ないけれど。

いつの間にか土手の方まで歩いてきていた事に気付き、そろそろ戻ろうかと思っていた時だった。
遠い視線の先に、見覚えのある人影が見えたのは。

信じられなかった。
会いたさのあまり、幻でも見えたのかと思った。
しかし、目を擦ってみても何度瞬きをしてみても、その人影は消えなかった。
そして、幻じゃないと確信した瞬間、声が出ていた。

「宮田くん!」

そう呼びかけると同時に、一歩は宮田に向かって駆け出した。
距離は見る見るうちに縮まっていくが、当の宮田は背を向けたまま振り向かない。
相手の反応がない事に、もしかして人違いだったりしたら、と急に不安になった。
しかし、近付くにつれてはっきりしていくその後ろ姿はどう見ても宮田だ。
はっきり言って、一歩は宮田に関しては後ろ姿だけでも分かる自信がある。
だが、万が一という事もあると思い、一歩はすぐ傍まで来るともう1度宮田に呼びかけながらゆっくりと前に回り込んだ。

目の前に現れた顔はやはり間違いなく宮田で、一歩は胸を撫で下ろす。
だが、目が合った途端に逸らされてしまった。
先程呼びかけても振り向いてくれなかった事といい、今日は機嫌でも悪いのだろうか。
それとも気がつかない内に、また自分は宮田の気に障るような事をしてしまったのだろうか。
原因が分からないだけにリアクションに困り、一歩は流れた気まずい空気を払うかのように努めて明るい口調で話しかけた。

「宮田くん。どうしたの、こんな時間にこんなところで」
自分としては当たり前の質問をしてみたつもりなのだが、何故だか宮田の表情が揺れた気がした。
「……お前の方こそ、こんな時間に何してんだ」
質問し返されてしまい、一歩はとりあえず眠れずに散歩に来た事を話してみた。
宮田の方はといえば、一歩の質問には答えず横を向いたままだ。

そんな宮田の視線の先を何となく追ってみて、気がついた。
この場所は、以前宮田と一緒にジュースを飲んで話をした場所だ。
それを話してみると、どうやら宮田も覚えていてくれたみたいだった。
今夜は何て偶然なんだろう、と思う。
こうしてこんな時間にバッタリ会う事すら自分たちの生活サイクルからして有り得ないのに、その場所がここだなんて。
何か、自分達の考えの及ばないところで密かな繋がりがあるような気がして嬉しくなる。
その嬉しさのあまり、ついこんな言葉が口を突いて出てしまった。

「ここでこんな風にまた偶然会うなんて、運命的な感じだよね」

そう口にした途端、宮田の険しい視線が一歩に向けられた。
しまったと思ったものの出てしまった言葉は戻らない。
慌てて謝ったものの、宮田の視線から逃れるように俯いてしまった。

どうして自分はいつも、すぐに浮かれて調子に乗ってしまうんだろう。
宮田はこういう事を言われるのが嫌いだと、知っていたはずなのに。
この偶然が自分にとっては嬉しくても、宮田には嬉しくも何ともない事くらい分かっているのに。
大体、男の自分に「運命」なんて言われて嬉しいはずなどない。
少し考えれば分かる事なのに、いつもいつも宮田と会うと気持ちが浮かれて余計な事を口走っては宮田に不快な思いをさせてしまう。
そんな自分が嫌でたまらなかった。

同時に、宮田の反応に何処かショックを受けている自分がいる。
それが当たり前である事は分かっているはずなのに、心の何処かにある期待が一歩を傷付ける。
もちろんそれは宮田のせいではなくて、自分が勝手に期待して勝手に傷付いているだけだ。
諦めきれなくて変な事まで口走って、バカみたいだと思う。

沈黙が場を支配する中、一歩は何か言おうとは思うものの何を言っていいのか分からない。
先程の宮田の視線、あれは完全に怒っていた。
あの視線に晒されるのが怖くて、顔すら上げられない。

しかし、いつまでもこうしているわけにもいかない。
宮田に嫌な思いをさせたのだから、もう1度ちゃんと謝らなければいけない。
でもあまり悲痛な顔をして謝っては、宮田はああ見えてとても優しいから困らせてしまうかもしれない。
出来るだけ何でもないように、宮田がさらりと流せるように。
そう思いながら、一歩は宮田に呼びかけると、何とか笑顔を作る。
「さっきはおかしな事言ってごめん。こんなトコで会えたから、つい嬉しくって」
はは、と小さく笑って、だけどやはり視線は宮田に合わせられなかった。
明日の朝も仕事があるからと言って、一歩は帰ろうと宮田に背を向ける。
この空気の中にこれ以上いる事が、少し辛かった。

そうして2歩ほど踏み出した時、一歩の背中に声がぶつかった。

「幕之内」

呼び止められた事に驚きつつ、一歩は身体ごと振り返った。
見ると、宮田は一歩を見たままじっとその場に立ったままだ。
一歩もそのまま立ち止まり、宮田の次の言葉を待った。

しかし、いくら待っても宮田は黙ったままだ。
何か一歩に言いたい事があったから呼び止めたのだろうと思っていたのに何も話そうとしない宮田に、一歩としてもどうしたらいいのか分からない。
「宮田くん?」
真意を尋ねるように呼びかけてみると、ようやく宮田の口が開いた。

「……オレは……」
それっきり、言葉の続きは発せられない。

『オレは』……何なのだろう。
何か、そんなに言いにくい事があるのだろうか。
色んな想像が、しかも悪い方に悪い方にと広がって、どんどん一歩は不安になる。

その不安を振り払うように軽く首を振ると、一歩は宮田に視線を戻す。
すると、宮田の顔が酷く青白く見えた。
夜の闇のせいだけではなく、顔色が悪い。
一歩は少し慌てて宮田の傍に駆け寄った。
「宮田くん、どうしたの? 顔色悪いけど、どこか具合悪いとか……!」
そう声をかけると、宮田がハッとしたように一歩を見た。
そしてすぐさま一歩に背を向けると、何でもない、とだけ告げた。
本当に大丈夫なのかと心配で仕方なかったが、宮田がそう言う以上一歩としてもこれ以上踏み込めない。

「お前、明日も仕事なんだろ。早く帰って寝ろよ」
背を向けたまま言い放たれて、一歩の表情が曇る。
声が心なしか冷たく突き放した感じがしたからだ。
この声音に、宮田と自分との間にある距離を突き付けられた気がした。
一歩は小さく返事をすると、ゆっくりとした動作で自宅の方へと身体を向けた。

いつになくスローペースで歩きながら、何度か振り返っては宮田を見る。
宮田の体調が心配なのもそうだが、宮田の表情も気になって仕方なかった。
けれど、宮田もまたすぐに一歩とは反対方向に歩き始めたため顔は見えなくなってしまった。



諦めて家路を辿りながら、一歩は宮田の事を考えていた。
結局、先程宮田が何を言いかけたのかも聞けなかった。
宮田は一歩に、何を言おうとしたのだろう。
いくら考えても分かるはずはないけれど、考えずにはいられなかった。

一歩が宮田に言いたい事は、それこそたくさんある。
その一番は……『好き』だという事。
本当は言ってしまいたい。
君が好きなんだと。
でも、決してそれは口に出せない。
言えば、迷惑になる事が分かっているから。
そして、同時に宮田に嫌われてしまうだろう事も分かっているから。

でも、言えなくても、心の内で想う事だけは許して欲しいと思う。
この気持ちを捨ててしまう事なんて不可能だと、一歩は痛いくらいに思い知っている。
だから、せめて好きでいさせて欲しい。
それだけでいいから。

君を好きだという気持ちだけで、きっと幸せを手にする事は出来るから。









END









後書き。

『闇路』とワンセットという事で、一歩の誕生日にこれを書いたわけですが。
相変わらずめでたくも何ともない話ですみません、本当に。
一歩はどうも片想いで満足しちゃってるフシがあるので、一歩からの告白は望めそうにありません。
必然的に宮田に頑張ってもらわなきゃいけなさそうです。
いい加減どうにかしたいとは思ってます。私も。



2004年11月23日 UP




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