唯一の人



ジムでのトレーニングの後、シャワーを浴びながら一歩は深いため息をついた。
練習の疲れからではない。
もちろん疲れもあるが、主な原因は身体的理由ではなく精神的理由だ。
トレーニングに打ち込んでいる間は集中していて他の事を考える余裕などないからいいのだが、一旦そこから離れてしまうと途端に一歩の思考を占領し始める。

シャワーを出しっぱなしにしてしばらくお湯に打たれていると、突然首に後ろから腕を回された。
まさかまた鷹村かと大慌てで振り解こうとする前に、頭上から声が掛けられた。
「なーにたそがれてんだ、一歩?」
その聞き慣れた声に、一歩は振り解こうとしていた手を止めてホッと息をつく。
「何だ、木村さん……」
そう一歩が呟くと、木村はおかしな風に解釈したのか少し眉を寄せた。
「『何だ』ってこたあねえだろ。悪かったな、オレで」
「あ、ち、違うんです。てっきりまた鷹村さんがからかいに来たのかと思って……」
普段の鷹村の所業を思い出したのか、木村は納得した顔を見せる。
「あー……なるほどな……。安心しろよ、理不尽大王は会長にお説教食らってるからよ」
「……また何かしたんですか?」
「……まあ、ちょっとな……」
言葉を濁す木村に、一歩はとりあえず聞かない方が良さそうだという事だけは分かった。
十中八九ロクでもなく、しかもくだらない事であるのは目に見えている。

「そんな事より、一歩。おまえ、なんか悩みでもあんのか?」
話題を変えたかったのか、それともこれが声をかけた本題だったのか、木村は何気ない調子で尋ねてきた。
しかし、まさに図星をつかれた一歩はギクリと表情をこわばらせてしまった。
その表情の変化に気付いたのであろう、木村の顔にも真剣味が混じる。
無言のまま視線で先を促す木村に、一歩は思わず視線を逸らす。
「え、えっと……だ、大丈夫です。大した事じゃないですから……」
ようやくそれだけを言うと、一歩は顔を上げて木村に笑ってみせた。
木村は何か言いたげに一度口を開きかけたが、すぐに閉じ、何か考えるような間を置いた後に一歩の頭にポンと手を置いて笑った。
「そか。ならいいけどよ」
木村が追求してこなかった事に安堵しつつ、一歩は木村のその気遣いに感謝した。

「それじゃあボク、もう上がります。お疲れさまでした」
ペコリと挨拶をし、シャワーを止めて一歩はシャワー室から出て行こうとした。
その時、木村から呼ばれてその場で振り返る。
木村は既にシャワーを浴びているらしく、仕切りに隠れてその姿は見えない。
「誰かに話すだけで楽になるっつー事もあるし。気が向いたら言えよ。どんな小せえ愚痴でも聞いてやっから」
木村はそれだけ言うと、手だけをひらひらと見せた。
「……はい、ありがとうございます」
一歩はもう一度頭を下げ、シャワー室から出た。




自宅への道を歩いていた一歩だが、考え事をしていたのがいけなかったのか、無意識に家路を外れていた。
普段なら例え考え込んでいても歩き慣れた道を間違える事などないのだが、今日だけは違った。
つい足を向けてしまったのは、ロードワークのコース近くにある公園。
ほんの5日前の事を思い出す。
この公園で宮田と会って……ケンカをした。
原因はとても些細な事だったけれど、互いに意地になってしまって現在に至る。

宮田と付き合い出すようになってから、何度もケンカをした。
けれど、大抵は一歩が折れる事ですぐに仲直りが出来た。
今回も、一歩が折れて会いに行けば、そして謝れば、上手くいくのかもしれない。
だけど、一歩にはそれが出来ないでいた。
元々の原因が宮田にあるという事もあるが、何かもやもやとしたものが一歩の中にわだかまっている。
本当にこんな風に付き合い続ける事がいいのだろうか、と思う。
宮田と自分では合わないのだろうか……と不安で仕方がなくなってくる。

宮田は口数が少ない。自らの感情を表に出す事も稀だ。
それは知っていた事だし、そういうところも好きだというのも本当だ。
しかし、余りにも表情の変化や言葉が少なすぎると不安になる。
宮田が何を考えているのか、自分と一緒にいる事を本当に望んでくれているのか。
それが、一歩には分からない。
宮田と一緒にいられて嬉しい反面、いつ嫌われてしまうかと怖くてたまらない。

想いが通じたと思った時は、これ以上ないくらい幸せだったのに。
付き合うようになった今も、どうしてこんなに苦しい想いが消えないのだろう。
ふと、先程のシャワー室での事を思い出す。
もしも木村のような人を好きになっていたら、こんな思いはしなくて済んだのだろうか。
もちろん木村が一歩を好きになってくれるなんて思えないが、もし相手が木村であったなら、こんな不安に苛まれる事もなく安心していられたのかもしれない。
いつも笑って見守ってくれる、優しい人。

「……何バカな事考えてるんだろう、ボクは」
小さな呟きが、一歩の口から零れ出た。
こんな事を考えるなんて、宮田にも木村にも失礼だ。
それでも考えずにいられないほど、今の自分は不安定になってしまっているのだろうか。
どうして、宮田なのだろう。
どうして、こんなにも宮田の事が好きなのだろう。
宮田は一歩の想いを受け入れてくれたはずなのに、いつまで経っても片想いの感覚が消えてくれない。
宮田に好かれているという自信が、一歩には持てない。



いつまでもここで立っていても仕方がないと、一歩が帰ろうかと考えた時。
ザリ、と土を踏む音に、一歩は反射的に振り返った。
そこには、今の今まで一歩の思考を占領していたその人が立っていた。

「宮田くん……どうして、ここに?」
一歩が呟くように尋ねると、宮田は我に返ったような表情を見せる。
どうやら、一歩がここにいた事に対して、宮田もかなり驚いたようだ。
「……バイトの帰りに、寄ってみただけだ」
「……そうなんだ」
それきり、気まずい沈黙が場を支配する。

「……えっと……それじゃ、ボク、帰るから……」
そう言って、一歩は宮田の横をすり抜けようとした。
「待てよ」と、そう声をかけてくれる事を僅かに期待しながら。
けれど、その願いは叶えられなかった。
「ああ……」
宮田は、短くそれだけ呟いただけだった。

宮田の横を通り過ぎた辺りで足を止めた一歩は、きつく手を握りしめた。
「ああ」なんていうたった一言で済むくらい、宮田にとって自分はどうでもいい人間なのだろうか。
ケンカをしても、一歩から言い出さない限り仲直りもしなくていい程度の存在なのだろうか。
宮田が一歩の想いに応えてくれたのは、ただの気紛れだったのだろうか。

悔しくて仕方がなかった。
一歩がどれだけ想っても、宮田の想いは返ってこない。
それなら、いっそ最初から受け入れる素振りなど見せなければ良かったのに。
そうしたら、例え一方通行の想いでも大切に抱えていられたのに。

「……幕之内?」
帰ると言ったものの立ち止まったまま動かない一歩を不審に思ったのか、宮田が振り返って声をかけた。
その声に、一歩の肩が僅かに揺れる。

「……もう、いいよ」
一歩の口から、ポツリと小さな声が漏れた。
「もう、無理してボクと付き合ってくれなくていいよ。今までごめんね」
「何……言ってるんだ、おまえ」
「もういいんだ。少しの間だけど、嬉しかったから」
それは、半分嘘だ。嬉しかったけど……ずっと苦しかった。
片想いの頃よりも「不安」という要素が増えた分、苦しさも増していった。

これ以上こんな思いを抱えたまま、宮田と付き合っていくのは耐えられそうになかった。
いつか感情が壊れて宮田に完全に嫌われてしまう前に、幕を引いてしまいたい。
今ならまだ、綺麗な形で終わらせる事が出来るはずだから。

一歩は背を向けたままそれだけを告げると、その場から立ち去ろうと足を踏み出そうとした。
しかし、その前に宮田に腕を掴まれ、強引に振り向かされてしまった。
「おい幕之内! さっきから何言ってんだ!」
怒ったような声に顔を上げると、宮田は怒っているというよりも戸惑っているような顔をしていた。
自分は今、どんな顔をしているんだろう。
きっと酷い顔をしている自覚はあるが、それでも溢れそうになる涙だけは堪えていた。
それは、一歩の男としてのささやかなプライドだった。

一歩は無理やり笑顔を作ると、腕を掴んでいる宮田の手をそっと外した。
「これ以上、宮田くんが無理して付き合ってくれる事ないよ」
「幕之内……?」
「宮田くんは優しいから、ボクの気持ちを突き放せなかったんだよね」
崩れそうになる笑顔を、必死で繕う。
少しずつ、宮田から距離を取るように後退していく。
「だけど、もういいから。ボクも、忘れるから。だから、宮田くんも……」
忘れられるはずなんてない。
それは今この瞬間に胸を刺す鋭い痛みが教えてくれている。
だけど、心にずっと澱んだ苦しみを抱え続ける方がずっと辛いから。

だから、『さよなら』と。
そう告げようと、俯きそうになった顔を上げると、一歩は言葉を失った。


宮田の表情が、今までに見た事もないほどの怒気を漂わせていたからだ。


「宮田……くん……?」
眉を寄せて恐る恐る名前を呼ぶと、宮田のキツい視線に射られた。
「……忘れる? おまえが、オレを?」
搾り出したような宮田の声の低さと冷たさに、一歩はビクリと身体を震わせた。
「忘れて、どうするんだ? 今度は別のヤツを好きになるのかよ」
微動だにしない宮田だが、その全身からは恐ろしいまでに不穏な空気が滲み出している。
何も答えない……いや、答えられないでいる一歩に対し、宮田の剣呑な気配はますます強くなる。
「おまえに、そんな事が出来るのか」
宮田が告げた言葉に、一歩はその場で立ち尽くした。

出来るわけがない。
そんな事は一歩が一番よく分かっている。

「おまえは、オレが好きなんだろ」
そう。だけど、それは余りにも一方通行すぎて。

「他のヤツなんか、今更好きになれるわけない」
その自信が、今は悔しくて仕方がない。
そう言い切る宮田も、否定できない自分も、ただ悔しい。

少しずつ握りしめる力が篭っていく一歩の両手に、宮田は気付いているのかいないのか。
トドメのように、宮田は一歩に視線を合わせて言い放った。



「おまえは、オレじゃなきゃダメなんだ」



その言葉を聞いた途端、一歩は弾かれたように顔を上げた。
「……そうだよ! 分かってるよ、それくらい!」
普段の一歩からは考えられない大声だが、宮田は予測していたらしく、余り表情を変えなかった。
「自分のことなんだから、それくらい分かってる! だけど、しょうがないじゃないか!
 ボクは宮田くんじゃなきゃダメでも、宮田くんはそうじゃないんだから!」
自分で口にした言葉が、自分の胸に突き刺さる。
「もう嫌なんだ……! ボクと宮田くんの気持ちの違いを思い知らされるのも、不安だらけで怯えながら会うのも……」
強く両手を握りしめながら、一歩はギュッと目を閉じた。
宮田の今の表情を見るのが怖かったのかもしれない。

僅かな沈黙の後、砂を踏む音が一歩の耳に届いた。
近付いてくるその音は、きっと横を通り過ぎるのだろうという一歩の予想を裏切り、一歩の前で止まった。
次の瞬間、自分に触れた腕に驚き、一歩は目を開けた。

目の前には、すっかり日も暮れた公園の景色。
そして、全身に感じる、暖かい体温。
宮田に抱きすくめられていると認識した途端、一歩は慌てて宮田から離れようともがいた。
だが、宮田が更に力を強くした上に、腕も一緒に抱きこまれて拘束されているのでそれも無駄だった。

「み、宮田くん……離してよ……」
どんどん早くなっていく心音と熱くなる顔を抑え込むように、一歩は小さな声で呟いた。
「……すかよ」
「……え?」
「離すかよ!」
珍しく感情を露わにしたその声に、一歩は一瞬、抵抗を忘れた。

「何が『分かってる』だよ、全然分かってねえじゃねえか!」
抱きしめられたままの状態なので、一歩からは今の宮田の表情は見えない。
「おまえはオレじゃなきゃダメでも、オレはそうじゃないだと? 勝手に決めつけてんじゃねえ!」
僅かに身体が離され、宮田と視線が合う。
その顔は、辛そうな、痛みを必死にこらえているような、そんな風に見えた。
「何で分からねえんだよ……」
宮田の呟くような小さな声と共に、一歩の唇にぬくもりが触れた。


触れた部分から、何かが溶けていくような気がした。
今まで一歩の中にわだかまっていたものが、少しずつ、流れていく。
自惚れても、いいのだろうか。
一歩が宮田でなければダメなように、宮田も一歩でなければダメなのだと。
互いが互いの、唯一の人なのだと。


唇が離れると、一歩は真っ赤な顔を宮田の胸にポスンと埋める。
「ごめんね、宮田くん」
「……それはどっちの意味だよ」
一歩の頭を片手で抱きながら、宮田は憮然としている。
「……変な事言って、ごめん」
「なら、最初から言うんじゃねえよ、バカ野郎」
そのつっけんどんな言い方に、一歩はクスリと笑みを漏らした。
今なら分かる。これが宮田なりの照れ隠しなのだと。

一歩はパッと身体を離すと、宮田に向かってペコリと頭を下げた。
「えっと、それじゃあ改めて、これからもよろしくお願いします」
突然の事に目を見開いた宮田だったが、すぐにその顔に笑みが浮かぶ。
「ああ、よろしくな」
そう笑った宮田を見て、一歩も頬を染めて嬉しそうな笑顔を見せた。









END









後書き。

「4周年記念ミニ企画」第1弾。
お題は「おまえは、オレじゃなきゃダメなんだ」。
ウチのサイトの宮田にいかにしてこの自信満々なセリフを言わせるか、実は結構悩んだりして。
作品中では、一歩にというより、自分に言い聞かせているイメージで書きました。
最初から中盤はずっとシリアスなのに、最後だけ甘々っぽい……。
拙いですが私なりに気に入った作品になったので、リクエスト下さった方にも気に入ってもらえると嬉しいです。



2005年4月23日 UP




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