最近、気になることがある。
いつも明るく笑っているあの表情が、心なしか曇っていること。
その変化はとても微妙なもので、最初は気のせいかと思った。
けれど、何度か会う内に、それは気のせいではないことを確信する。
「……何か、あったのか?」
宮田は隣を歩く一歩に、そう切り出した。
「え? 別に、何もないよ?」
笑って答える一歩は一見いつも通りに思えるし、以前の宮田なら気付かなかったかもしれない。
しかし、今は違う。
まがりなりにも自分達は『付き合っている』のだ。
それなりに会う回数も増えたし、一歩のことも前よりはずっと分かるようになった……と、思う。
表情や仕草の微かな変化が感じ取れるくらいには。
それでもまだ、深く理解し合うには程遠い。
今回のような時には、特にそう思う。
同時に、話してくれない一歩に対して、強い不安と小さな怒りを感じるのだ。
もちろん、付き合っているからといって何もかも話さなければいけないわけじゃない。
互いのプライバシーだってあるし、話したくないこともあるだろう。
だけど、そんな表情を見せるくらい何かに悩んでいるなら打ち明けてくれてもいいじゃないかと思う。
そんなに、自分では頼りにならないのか……そんな風に考えてしまうのだ。
「本当に……何もないのか?」
「う、うん……」
問い詰めるような響きを含んでしまった宮田の声に、一歩は戸惑ったような表情を見せながらも肯定を返す。
そうなると、宮田としてもこれ以上聞き出すような真似は出来ない。
「……そうか。だったら、いい」
それだけを告げて、宮田は再び前を向いた。
少し突き放したような物言いになってしまったことに気付き、宮田は横目で一歩の様子を探った。
案の定、一歩はシュンとして俯いてしまっている。
きっと、宮田の機嫌を損ねたと思ったに違いない。
そんな顔をさせたいわけじゃない。むしろ、その逆なのに。
宮田はしばらく逡巡した後、ゆっくりと一歩の手を掴んだ。
一歩が驚いたように宮田に視線を向けたのが分かる。
すぐに一歩の照れたような小さい笑い声が聞こえ、その手が握り返される。
そのことに宮田は安堵の表情を浮かべ、握る力を少し強くした。
あれから1週間。
時間の都合がつかず、あれ以来会っていない。
そもそも自分達の場合、そんなに頻繁に会うわけではない。
宮田も一歩も仕事やトレーニングで忙しい日々を送っていることもあり、空く時間が噛み合わないことが多いのだ。
それを、宮田自身は特に不満に思うことはない。
もちろん、会いたいという気持ちがないわけじゃないけれど。
べったりというのは性に合わないし、会えなくても一歩が日々トレーニングに打ち込んでいる様子が容易く想像出来るからだ。
だけど、一歩の方はどうなのだろうか。
一歩も普段はそうかもしれない。
しかし、この間会った時のあの翳った表情が頭に浮かぶ。
もしも一歩が今辛い思いを抱えているなら、少しくらい心が弱っても仕方がないのではないか。
宮田は、ちらりと時計に目をやる。
まだ、大丈夫だろうか。
時間を確認すると、宮田は机の上に放り出していた携帯を手に取った。
何回かのコール音の後、聞き慣れた声が耳に届いた。
「……オレだけど」
『み、宮田くん!?』
心底驚いたような声に、宮田はため息をつく。
付き合っている相手から電話がくるのが、そんなに驚くべきことだろうか。
……そうかもしれない、と自分の今までの行動を振り返ってみて思う。
考えてみれば、付き合い出してからも用事がない限り一歩に電話などしたことがない気がする。
『どうしたの、宮田くん?』
「いや、別にどうってこともねえんだけど……」
正直、何か用があって電話したわけじゃない。
こういう行動を自分が取るなんて、自分でも不思議だ。
『でも嬉しいな、宮田くんが電話してきてくれるなんて』
受話器の向こうから聞こえた嬉しそうな声に、宮田は静かに詰めていた息を吐く。
自分が電話したことで少しは一歩の気分が浮上したのだろうかと思うと、何だかホッとした。
「釣り船の仕事は済んだのか?」
『うん、今さっき帰ってきたとこ』
「……なら、疲れてんじゃねえのか。悪かったな、こんな時に」
『ううん、そんなことないよ! むしろ宮田くんの声聞けて嬉しくて……疲れなんて吹っ飛んじゃったから』
最後の部分だけ小さくなったのは、おそらく母親が近くにいるためなのだろう。
声を落として、それでも嬉しそうに話をする一歩に時々相槌を打ちながら話していたが、すぐに会話がなくなる。
元々、他愛のない会話というものは得意じゃない。
会って話していればともかく、電話だと余計だ。
少しの沈黙の後、一歩が再び口を開く。
『えっと、ごめんね、ボクばっかり喋っちゃって』
「いや……」
『電話、本当にありがとう。凄く嬉しかったよ』
「……ああ」
気の利いたセリフの1つも言えない自分が嫌になる。
『それじゃあ……切るね。ありがとう、宮田くん』
それにまた短く返事を返して、宮田は通話を切ろうとボタンを押しかけて手を止める。
「……幕之内」
『何? 宮田くん』
「…………おやすみ」
数秒間の沈黙の後、一歩の大きな声が響いた。
『あ、あの、お、お、お、おやすみっ!』
あからさまに顔を真っ赤にして動揺している一歩の様子が目の前に浮かんで、宮田は小さく笑った。
そうして、今度こそ電話を切る。
らしくない、と自分でも思う。
けれど、一歩の塞いだ表情が頭を過り、あんな言葉が口を突いて出た。
……少しは、元気になってくれただろうか。
ほんの一時でも、一歩の気持ちを引き上げることが出来ただろうか。
話を聞いてやることすら出来ないなら、せめて気を紛らわせることくらいはしてやりたい。
そして、今度会う時にはいつもの明るい笑顔を見せてくれればいい。
宮田は携帯をしばらく見つめた後、ゆっくりと机の上に置いた。
後日、ロードワークの途中で鴨川ジムに寄った。
一歩の様子も気になったし、一歩がいなくても木村辺りにそれとなく聞けば何か分かるかもしれないと思ったからだ。
間違っても鷹村には勘付かれてはならない。
鷹村が絡むと、単純で小さな問題ですら複雑怪奇な大問題に発展しかねないからだ。
ジム内に鷹村の姿がないことを確認する。
会長もいないところを見ると、おそらくロードワークに出ているのだろう。
丁度いい、と宮田がジムに入ろうとするよりも前に一歩が宮田に気付き、凄まじい勢いで飛び出してきた。
「宮田くん!」
その余りの勢いに一瞬気圧された宮田だったが、何とか気を取り直す。
「宮田くん! どうしたの、ロードの途中?」
「ああ」
「ジムに用事? 会長なら鷹村さんのロードワークに出たばかりだからまだ戻ってこないよ」
「いや、そうじゃなくて……」
言いかけて、窓の傍のギャラリーに気が付く。
「……何してんですか、アンタら」
宮田が睨むと、1番近くに貼りついていた木村と板垣が誤魔化し笑いを浮かべる。
「いや〜、宮田が来るなんて久し振りだし懐かしいなぁ〜ってな。ははははは」
「み、宮田さんは先輩のライバルでボクの憧れですし、近くで見たいなーなんて。あは、ははは」
あからさまに目が泳いでいる2人をもう1度睨むと、宮田はため息をつく。
「……幕之内、お前もロード行くだろ」
「え、あ、うん」
「なら、行くぞ」
「う、うん!」
一歩の返事を聞くやいなや、宮田はその場を離れた。
ちらりと視線をやると、木村達が残念そうな顔をしているのが見えて再びため息が漏れた。
しばらくは、無言で2人並んで走り続けた。
公園に差し掛かったところでスピードを徐々に緩め、立ち止まる。
荒れた息が整い始める頃、一歩が宮田に笑いかけた。
「宮田くんと一緒にロードなんて凄く久し振りだよね。嬉しいな」
「そうだな……」
答えながら、宮田は一歩の言動を注意深く見てみた。
その表情は随分とスッキリしていて、前に会った時のような翳りは見当たらない。
一歩が悩んでいた事は、もう解決したのだろうか。
それならいいのだが、一歩が悟られないようにしている可能性もなくはない。
もっとも、そうだとしても一歩が話そうとしない以上、宮田にはどうしようもないことではあるのだけれど。
「宮田くん」
不意に真剣な声に呼ばれ、宮田は改めて一歩に視線を向ける。
そこには、声と同様真剣な顔をした一歩がいた。
僅かな沈黙の後、一歩がふと表情を緩めた。
「ありがとう、宮田くん」
突然そんなことを言われ、宮田は面食らう。
宮田は一歩に礼を言われるようなことをした覚えはない。
「この間の電話も、今日ジムに来てくれたのも」
顔を俯き加減にして地面を見つめながら、一歩は言葉を繋ぐ。
「ボクのこと心配して、気にかけてくれてたんだよね」
「オレは……別に……」
図星を突かれて、宮田は動揺しながらそう答えるのが精一杯だった。
「ここんとこ色々あって、何だか落ち込んじゃって。でも折角宮田くんと会ってるのに、そんなつまんないトコ見せたくなくて」
一歩の悩みをつまらないなんて、そんなことを思うはずがないのに。
「だけど、宮田くんにはすっかり分かっちゃってたんだね」
困ったように笑う一歩を、宮田は黙ったまま見つめた。
「分かってても、ボクが言わないから、無理に聞かないでいてくれて」
一歩は再び視線を落とし、宮田の足元を見つめている。
「電話をくれたり、こうして会いに来てくれたり」
声の調子が少しずつ明るくなっていく。
「何でもないフリをして、ボクを元気付けようとしてくれてたんだね」
そこまで言うと、一歩はパッと顔を上げる。
そうして、ほのかに頬を染め、心底嬉しそうな笑顔で宮田を見つめた。
「ボク、宮田くんのそんな所がすごく好きなんだ」
真っ直ぐに宮田を見つめながらそう言った一歩に対して、宮田は思わず身体ごと横を向いた。
一歩からは見えないように顔を背けると、無意識に右手で顔を覆う。
「宮田くん?」
一歩が少し不安そうに名前を呼びながら、宮田の表情を窺おうと回り込んでくる。
その視線から逃れるように、宮田は再び身体を一歩から反転させた。
正面に回り込んでくるな、と叫びたい気持ちを抑えつつ、宮田は何とか気持ちを落ち着けようとする。
今の顔を見られてはたまらない。
顔が熱い。
今の自分の顔が相当赤くなっているだろうことが、自分でも分かる。
不意打ちもいいところだった。
わざとやってるんじゃないかと邪推したくなるくらい、今の一歩の言葉と笑顔は効いた。
心臓の音がうるさく響いて、なかなか静まってくれない。
早く何とかして一歩の方を見なければ、一歩がまた勘違いをして元気をなくすに決まっているのに。
「宮田くん……ごめん、ボク、また何か変なこと言っちゃったかな……」
沈んだ一歩の声に、宮田は気付かれないように深呼吸して無理やり鼓動を鎮めると、ようやく一歩に向き直った。
見ると、一歩は先程までの笑顔はどこへ行ったのか、ショボンと下を向いている。
「……そんな顔するな」
その宮田の声に、一歩が顔を上げる。
上げたその顔にはやはり不安が貼り付いたままだ。
そうさせているのは他でもない自分なのだが、宮田は一歩のそんな顔を見たいわけじゃない。
「もう、悩み事ってのは片付いたんだろ?」
「うん……」
「だったら、そんな顔してねえで……さっきみたいに笑ってればいいんだよ」
その笑顔から自分は顔を逸らしておいて、随分勝手な言い分だと思う。
でも、宮田にはこういう言い方しか出来ない。
それでも、一歩なら分かってくれると、そう信じたい。
もちろん、それは甘えなのだと分かってはいるけれど。
「そう……だね。うん、そうだよね」
そう何度か頷くと、一歩は再びふわりと笑う。
そんな一歩の様子に宮田は安堵し、一歩の笑顔につられるように表情を緩める。
途端に一歩が驚いたような顔を見せ、ますます嬉しそうに笑みを深めた。
何もかもを理解し合うことは出来ないけれど。
互いを想いながら、笑顔を守り合っていければいい。
どちらともなくそう考えながら、2人は公園を出て並んで走り出した。
後書き。
「4周年記念ミニ企画」第4弾。
お題は「ボク、宮田くんのそんな所がすごく好きなんだ」。
ラブい2人を目指してみたんですが、いかがな感じでしょうか。
「宮田くんを困らせる一歩が見てみたい」とのことでしたので、宮田くんを照れまくらせてみました(笑)
真っ赤になった顔を見られたくない貴公子。プライド高すぎです。
宮田の一歩への気持ちを押し出したかったのですが、少しでも宮田の気持ちが伝われば嬉しいです。