スミレ



「こちらの中から1枚、お好きなものをどうぞ」

出先の本屋でボクシング関連書籍を1冊購入した際、レジでかけられた言葉に宮田は僅かに眉を寄せた。
目の前には、6枚の栞の見本が並べられたプラスチック製のカードケースがある。
どうやら本を購入した客へのサービスらしいが、通常、こういうものは小説などを買った場合にくれるものなのではないだろうか。
しかし、ケースを持った女性店員は、笑顔のまま宮田が選ぶのを待っている。
要らないと言うのも気が引けて、宮田は並べられた栞に目を落とした。

6枚の栞はそれぞれ、小さな花を押し花にして飾っている。
さして大きくもない街の本屋のサービスにしては、凝った印象を受ける。
宮田のように花の名前もロクに知らない人間が相手では、サービスする方も張り合いがないかもしれないが。
選べと言われても宮田にとってはどれも似たようなものに見え、適当に選ぼうとした時、ふと栞の下に小さく書かれた言葉が目に入った。

栞の下には、小さな文字で各々の花の花言葉が書かれていた。
6枚の栞に飾られた花の花言葉をざっと見て、宮田の目がある1箇所に止まった。

「……これを」
宮田が指差した栞を確認して、店員がカウンターの奥から栞を取り出し、本に挟む。
「こちらに挟んでおきますね。ありがとうございましたー」
本を受け取って帰る道すがら、妙にその栞が気になって仕方がなかった。





帰宅してそのまま、ボクシング誌を読むより先に、そこに挟まれた栞を取り出す。
この栞を……正確には、栞の下に書かれた花言葉を見た時、浮かんだのは1人の人物だった。
リボンの付いた栞に飾られているのは、紫色の小さなスミレ。
柔らかな、しかし強い印象をその花に感じて、ますます似ていると小さく笑む。

この時の宮田の表情を、もし宮田をよく知る誰かが見ていたなら、おそらく自分の見たものが信じられなくて何度も目を擦っただろう。
もちろん、宮田自身にはそんな顔をしている自覚などない。
ここに宮田1人であったことは、宮田自身にとっても他の人間にとっても幸いだったかもしれない。



宮田はベッドに座り、その栞を頭よりも少し高い位置に掲げた。
この栞をどうしようか、と考える。
もちろん宮田が使ってもいいのだが、どうせならこの栞にふさわしい彼の手にある方がいいような気がする。
かといって、いきなり栞を渡しても何の事だか分からないだろうし、宮田としてもその理由を訊かれるのは避けたい。
しばし考えに耽っていた宮田だったが、ふとある案を思い付き、傍の携帯電話を手に取った。





「はい、宮田くん、これ」
そう言って差し出された一歩の手には、昔のボクシング誌がある。
「ああ、悪かったな、急に」
言いながら宮田が受け取ると、一歩は取れそうな勢いでブンブンと首を横に振った。
「ううん! これくらい、何でもないよ! でも、珍しいね、宮田くんが本を失くすなんて」
一歩の言葉に、宮田は一瞬視線を揺らすが、幸い一歩は気付かなかったようだ。
「じゃあ、借りてくぜ。来週には返す」
「いいよ、そんな急がなくて。宮田くんの時間が空いた時でいいから」
「……ああ、サンキュ」
宮田が礼を言うと、一歩が僅かに嬉しそうに頬を染める。
そんな一歩に喜びに似た感情を抱くが、それを口に出せる宮田でもない。
短い挨拶だけ交わして、そのまま家路に着いた。





自室で、一歩から借りたボクシング誌を開く。
本当は失くしてなどいないし、当然これと同じものが本棚にちゃんとある。
要は、一歩から何か本なり雑誌なりを借りる理由が欲しかった。
それはもちろん、例の栞を挟んで一歩にこの雑誌を返すためだ。
本当ならハードカバーや文庫本などの方がそれらしいとは思うのだが、宮田が一歩から借りるという状況だとボクシング誌が1番自然な気がした。

栞を挟むページを探すように、宮田はページをめくっていく。
そして、自分の持っている雑誌を読む時よりも、格段に慎重にこの雑誌を扱っている自分に気付いた。
折り曲げたり汚したりしないように、丁寧に。
すぐ傍の本棚にある雑誌と全く同じもののはずなのに、一歩の持ち物というだけで何か特別なものを手にしている気がしてしまう。
他人に言えばバカバカしいと思われるかもしれないが、それは宮田の正直な気持ちだった。

とあるページに行き着いた途端、宮田の手が止まる。
そこに特集されている記事は、一歩の初防衛戦の時のものだった。
一歩の記事の載っている号を選んで借りたわけではないのだが、無意識に覚えている号数を伝えてしまったのだろうか。
そんな自分に僅かに苦笑すると、宮田は傍らに置いてあった栞を手に取る。

どうせなら、一歩の記事に挟んで渡してしまおう。
そうすれば、鈍い一歩でもひょっとしたら宮田の意図にほんの少しは気付くかもしれない。
こんな意思表示が精一杯の自分が、少々情けなくはあるが。
栞に飾られたスミレの押し花をしばらく見つめていた宮田だったが、そっと栞を挟んで本を閉じた。





一歩に本を返した日の夜。
帰宅した宮田はトレーニングを終えた身体を、ベッドに投げ出す。

一歩は、返した本に挟まれた栞に気付いただろうか。
もし気付いたとしたら、一歩のことだから宮田が挟んだのを忘れて返したのかと確認を取ろうとするだろう。
しかし、返した本をそのまま本棚に仕舞ったとしたら、この先ずっと気付かれない可能性すらある。
さすがに、その存在にすら気付かれないというのは、いくら宮田でも寂しい気持ちになる。
何か理由をつけて、本を開くよう促すべきだったか。

そんな事を考えていると、ジーンズのポケットに入れていた携帯が鳴った。
身体を起こしながら携帯を手に取ると、液晶画面に映し出された相手の名が見える。
どうやら、気付いたらしい。
宮田には余りにも不似合いな押し花付きの栞に一歩が戸惑っている様子が想像できて、宮田は小さく笑う。

ピ、と僅かな音を立てて、電話が繋がる。
「はい」
『あ、宮田くん? ボク、幕之内だけど……今、電話して大丈夫?』
「ああ、どうしたんだよ」
用件は分かっているが、宮田は敢えて分からないフリをしてみた。
『えっと、今日、宮田くんに返したもらった本のことなんだけど、中に、その、栞が挟んであって。
 ……宮田くんの……だよね?』
一歩が自信なさげに問うているのは、その栞が宮田にそぐわないということもあるだろうが、それが一歩の記事に挟んであったことも理由の1つなのだろう。
「ああ」
『やっぱり、そうなんだ。それじゃ、近い内に宮田くんのウチに持っていくね』
宮田の家に持っていく、というところだけ妙に嬉しそうに聞こえたのは、おそらく気のせいではないだろう。
ほんの少し意地悪をしてみたい気分になって、宮田はわざとそっけない返事をした。
「別に持ってこなくていい」
途端に、電話の向こうの一歩の様子が打って変わったように萎んでいく。
『……うん……。そ、それじゃあ、この栞、いつ返そうか……』
余りにも元気を失くしたその様子に、少しキツすぎたかと宮田に罪悪感が湧く。

「……返す必要はねえよ」
『え?』
「それは、お前にやるから。だから、返さなくていい」
『え、でも……』
どうやら宮田の意図を量りかねているらしく、一歩の声が戸惑っている。
自分の記事に挟んであったんだから少しは分かれ、と思わなくもないが、何も言わずに理解しろというのも我侭だろうという自覚は宮田にもある。
「その栞は、オレよりお前が持ってた方がいい。やるっつってんだから、素直に貰っとけよ」
少しの間の後、一歩がおずおずと問いかけてくる。
『ホントに、貰っちゃっていいの?』
「いいって言ってんだろ。……要らないってんなら、引き取るけどな」
一歩から返ってくる答えを分かっていて、宮田はそんな事を口にする。
『い、要らないわけないよ! ありがとう、宮田くん!』
案の定、慌てたように受け取る意思表示をした一歩に満足する。
こうでも言わないと、何度でも「本当にいいの?」と繰り返し訊かれかねない。

「ああ、一応言っとくが、押し花が取れねえようにしろよ」
あの花が付いているからこそ、一歩に持っていてほしいのだから。
もちろん、そんなことまでは口には出さないが。
『当たり前だよ! 絶対、大事にするから!』
そう答える一歩の後ろで、一歩の母らしき女性が一歩を呼ぶ声が聞こえた。
まだもう少し話していたい気持ちはあるが、そんな心情は露ほども見せないように宮田は「じゃあ、またな」とだけ告げた。
『うん。またね、宮田くん。栞、本当にありがとう』
電話の向こうの笑顔が容易く想像できそうな声が響いた後、通話が終わる。





一歩は、宮田が何故その栞を一歩に渡したか、きっと理解できていないだろう。
しかし、それでもいいと思う。
あの栞は一歩に1番似合っていると思うから、あれが一歩の手にあればそれでいい。
もちろん、それを宮田が一歩に渡せたことで妙に嬉しい気分になるのも確かだ。



とりあえず、次からも本を買う時はあの本屋に行こうと決めて、宮田は静かに携帯を閉じた。









END






スミレの花言葉 : 誠実、ひかえめ




後書き。

6周年記念ミニ企画「花にまつわる小さなお話」第1弾。
第1弾の花はスミレです。
スミレを花言葉を見て、真っ先に一歩を連想しちゃう貴公子。
一歩がその花言葉を知る日は来るんでしょうか。
……知ったとしても、まさか宮田がそれを知ってて自分にくれたとは夢にも思わない気がしますが。
私が書く宮田は、何かと遠回しすぎる……。



2007年3月21日 UP




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