『スキ』までの距離



ジムワークを終え、自宅に帰ってきた宮田の耳に電話のコール音が届いた。
玄関にいた宮田はゆっくりとした動作で電話のある居間に向かう。
本来ならもっと急ぐべきなのだろうが、トレーニングで疲れていてそんな気になれない。
正直なところ、電話に出るのも面倒なのだが、父がまだ帰宅していない以上そういうわけにもいかない。

宮田が玄関を開ける前から鳴っていたようなので、相当待たせているだろうと思う。
しかし全く鳴り止む気配のない辺り、相手もなかなか我慢強いようだ。
そんな見当違いな事をぼんやりと考えながら、宮田はようやく受話器を手に取った。
「はい、宮田です」
『あ! あのっ、もしもし、宮田くん!? ……えっと……ボク……』
「……幕之内?」
『え!? 何で分かったの!?

普通分かるだろう……というツッコミは心の中に留めておきつつ、宮田は「さぁな」とだけ答える。

「で? 何か用かよ?」
一歩の調子に合わせているとなかなか本題に入れないので、宮田から促す。
自分でも少々そっけない口調だとは思うのだが、自分にはこういう言い方しか出来ない。
本当は、嬉しいのに。
一歩からの電話が、こうして声を聞ける事が嬉しいのに、決してそれを表に出せない。

『あの、さ。今月の24日か25日、空いてるかなぁ……?』
「24日か、25日?」
『うん、あの、映画のチケットが偶然当たっちゃってさ! えっと、そう、福引きで!
 そ、それで……もし、もし良かったら、一緒にどうかなって……・・』
思わぬ誘いに宮田が言葉を出せない内に、一歩は慌てたように矢継ぎ早に言い募る。
『えと、ホントに暇だったらでいいんだけど! その、誕生日に試合のチケット貰ったし、そのお礼!』
相当焦っているのか何なのか、一歩はいつになく大きな声でまくしたてる。
宮田が無言でいるのも、一歩が次から次へと言葉を繋ぐ原因だろう。

きっと、電話の向こうの一歩は思いもしないだろう。
今、宮田がどれほど嬉しいか。
一歩はクリスマスに、他の誰でもない、宮田を誘おうとしているのだ。
それが単にボクサーとしての宮田への憧れなのか、それ以上の感情であるのか、それは今の宮田には分からない。
心情的には後者であってほしいと思うが、さすがにそこまで自惚れるのは図々しいだろうと思う。
しかし、一歩が宮田を誘ってきたのは事実。
その事実だけで十分だ。


宮田が何も答えないのをどう受け取ったのか、一歩の声が急に萎み出した。
『……ごめん、ボク、一方的に喋っちゃって。やっぱり、バイトとかあるだろうし、迷惑だよね……』
途端に小さくなった声に、宮田の心がチクリと痛む。
『い、今の、忘れてくれていいから! 勝手な事言ってごめんね……』
「待てよ」
自己完結しかかっている一歩に、このまま電話を切られでもしたらたまらないと宮田は内心慌てて声をかけた。
「別に迷惑だとか言ってねえだろ」
『……迷惑じゃないの?』
「……ねえよ。映画も最近観てねえし、ただ……」
『ただ?』
何を言われると思ったのか、一歩が不安そうに訊き返してくる。
「夜はバイト入ってるから、夕方くらいまでしか付き合えねえけどな」
『うん! 夕方まででも十分だから! ありがとう、宮田くん!』
打って変わって突然嬉しそうに声が弾んでいる一歩に、宮田は、分かりやすいヤツだ、と思う。
そんなところも、気に入っているところの1つではあるのだけれど。


結局、日付は25日という事に決定し、一歩が宮田の家に迎えに来るという。
別にどこかで待ち合わせをしてもいいのだが、家もさほど遠くないからと了承した。
受話器を置いて、宮田は気分がかなり良くなっている事に気付く。
先程まで疲れていて歩くのも億劫だったのに、そんなものなどどこかへ吹き飛んでしまった。
単純具合で言えば、自分も一歩の事は言えないのかもしれない。
ただ、それをストレートに表に出すか出さないかの違いだけで。
宮田は受話器を置くと、数日後のその日を思いながら居間を出た。








12月25日。


大方の準備を済ませ、宮田は自室の時計を見た。
午前9時30分。
約束の時間まであと30分ほどある。
まだ時間はあるというのに、もう既にいつでも出掛けられる準備は整ってしまっている。
時々ではあるが、こんな自分が酷く嫌になる事がある。
どうして、こんなにも……と。
無関心なフリをして、これほど一歩に対して強く心を向ける自分。
それが強くなればなるほど、得体の知れない恐怖のようなものが湧き上がる感覚を覚えるのだ。



宮田は暗い方向に行きそうな思考を、頭を振って追い出す。
折角、今日は一歩と一緒に出掛ける滅多にない機会だというのに、こんな気分でいてもしょうがない。
少々寒いが外の空気を吸おうと、宮田は2階の自室の窓を開けた。
窓から顔を出して、大きく息を吸う。
冬独特の張り詰めた冷たい空気が心地良い。
ふと、視界の下方に微かに黒いものが引っ掛かった。
それが何であるか理解した途端、宮田はすぐに窓を閉め、部屋を出ると階段を駆け降りた。
そのまま廊下を通り抜け、玄関のドアを開ける。

ドアを開ける音に気付いたらしいその黒い物体が、門の外から覗き込むように姿を見せた。
「あ、宮田くん……」
「……幕之内、お前……何やってんだ?」
「えっと、迎えに来たんだけど」
「だったら、チャイムくらい鳴らせよ。何でそんなトコに突っ立ってんだ」
12月も下旬で雪が降ってもおかしくないくらいの寒さだというのに、どうしてこんな玄関先でじっと立っているのか、宮田には理解できない。
「うん、ちょっと早く着きすぎちゃったから……。早すぎたら迷惑かなって思って……」
俯きながら申し訳なさそうに答える一歩に、宮田は呆れた表情を浮かべた。
一歩らしいといえば一歩らしいが、そんな些細な事に気を使ってこんな寒さの中待っていたとは。

宮田がため息をつくと、一歩の身体がビクリと震えた。
おそらく寒さのせいではなく、宮田の機嫌を損ねたとでも思ったのだろう。
こんな風にビクつくのもいい加減に止めて欲しいところではあるのだが、今はそんな事を考えている場合ではない。
いくら普段から鍛えている一歩でも、この寒さで身体が冷えきってしまえば風邪をひく可能性はある。
「とにかく、一旦、中入れよ」
そう言って、宮田は一歩の手を掴む。
その余りの冷たさに、宮田の動きが一瞬止まった。
「……お前、いつから待ってたんだよ」
「え……そんなには、待ってないよ」
小さい声でごまかすように答える一歩を軽く睨みつけると、一歩は更に小さい声で呟いた。
「……9時くらい」
「お前……オレが気付かなきゃ1時間も外で待ってるつもりだったのかよ!?
「ご、ごめん、宮田くん」
別に宮田に謝る必要はないのだが、思わず怒鳴ってしまったために一歩はかなりしょぼんとしている。
「……謝らなくていいから、来い」
そう言うと、宮田は掴んだままの一歩の手を引いて家の中に入っていった。


暖房の効いた居間に、一歩を連れて入る。
居間には父がいるため少し迷ったのだが、現在の時点で暖まっている部屋は居間しかなかったためだ。
宮田の父の姿を見止めた一歩は、しゃんと背筋を伸ばして大きく礼をした。
「おはようございますっ。お邪魔してます」
深々と頭を下げる一歩に、父は穏やかな表情で挨拶を返す。
宮田は一歩を父と向かいのソファに座らせると、何か温かいものを……とコーヒーを淹れに行った。

父の分も合わせて2つ、コーヒーを淹れて戻る。
宮田のいない間に何を話していたのかは知らないが、一歩も先程よりは随分リラックスしているようだ。
「ほら」
「あ、ありがとう、宮田くん……」
「準備してくるから、それ飲んで待ってろ」
そう言うと、宮田は父にもコーヒーを渡して自室に戻った。
本当はもう既に準備など済んでいるのだが、一歩が暖房とコーヒーで身体を暖める時間を作るためだ。




自室に戻ると、宮田はベッドの上に座り込んだ。
約束の時間の1時間も前に来て、ずっと待っていた一歩。
それは、今日のこの約束が楽しみでたまらなかったからだと受け取っていいのだろうか。
待ち遠しくて、待ち切れなくて、早すぎる時間に来てしまったのだと。
都合の良い解釈をしている自覚はある。
一歩は几帳面な性格だから、単にいつもそんな感じなのかもしれない。
もしくは、家を出る時間を間違えてしまったのかもしれない。
そんな可能性がいくらでもある事を、宮田とてよく分かっている。
だけど、もしかしたら……と期待せずにいられない自分がいる。
もしかしたら、一歩の中にある感情も、自分のそれと同じものなのではないだろうか、と。

「……バカみてえ」
一歩の何気ない言動だけで、そんな風に期待するなんておめでたすぎる。
自惚れもいいところだな、と宮田はベッドから立ち上がる。
一歩本人の気持ちがどうであるのか、何も知らないのに。
今はっきりと分かるのは、少なくとも好意は確実に寄せられているという事だけ。
その好意がどんな種類のものなのかは、まだ分からない。
とりあえず、今の宮田に出来るのは、距離を少しずつ詰めていく事だろう。
そうであると気付かれないように、さりげなく。
宮田は足元に固定していた視線を上げると、部屋を出て階段を降りていった。



「おい、幕之内。行くぞ」
宮田は居間に入るなり、一歩に声をかけた。
「うん!」
振り向いた一歩の表情が、パッと明るくなる。
その笑顔に目を細め、宮田は一歩を視線で促す。
一歩は立ち上がると、宮田の父に向き直って再び会釈をする。
「お邪魔しました。失礼します」
「ああ、ゆっくり楽しんでくるといい」
「……はい!」
満面の笑顔で答えると、一歩は宮田の横を通り抜けて居間を出て行った。
「じゃあ、行ってくるよ」
父に一声だけかけて、宮田も居間を出た。








冷たい冬の空気の中を、肩を並べて歩く。
今日観る映画の事やボクシングの話題などを、途切れ途切れに話す。
宮田が基本的に口数が少ないため、特に会話が弾むという事はない。
しかし、宮田はこうして並んで歩いているというだけで気分が穏やかになる。
一歩が話を弾ませようと必死に話題を探しているのを見るのも、何となく微笑ましくて結構楽しい。
もっとも、一歩の方は宮田がそんな風に思っているなんて少しも気付いていないだろうが。

何気なく一歩に視線を向けた時に、並んで歩く自分と一歩の肩の距離に気付く。
2人で歩いているというのに、随分と離れた場所にある一歩の肩。
宮田は、先程部屋で考えていた事を思い出す。
この肩の距離を少しずつ縮めていく事が出来たなら、いつか触れ合える日が訪れるだろうか。


……とりあえず、長期戦の覚悟はしとくか。
そう心の中で呟いて、宮田は晴れ渡った冬の空を軽く見上げた。










END











後書き。

どうして私は、いつもいつもデート本番を書かないんだろう……?
デートまでの前振りが長すぎるせいですか。でも前振り、書いてて楽しいんですよー。
ちなみに、前回に引き続いてまたもや登場した宮田父ですが……好きなんです、ごめんなさい。
私の中ではどうもアニメのジェントルマン宮父の印象が強いらしく、ウチの小説に出てくる父も穏やかさんです。
しかも、息子の恋を応援してるっぽいです(笑)
何はともあれ、メリークリスマースv



2003年12月25日 UP




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