BIRTHDAY CALL



パタン、と小さな音を立てて、質素なドアが閉まる。
ドアに鍵を掛けると、ヴォルグは軽くため息をついた。

そのまま部屋のベッドに仰向けに横になり、天井を見つめる。
トレーニングで疲れ切った身体が僅かに重く感じる。
1人の部屋に帰る事は慣れているはずなのに、シンとした部屋に何処となく寂しさを感じてしまう。
それはきっと、短かったけれどとても暖かかった、日本での触れ合いのせいだろう。

何処か母の面影を重ねていた、優しい女性。
つっけんどんな態度ではあるけれど、友人思いの彼。
突然現れた自分を快く受け入れてくれたジムの人々。
そして────何にも代えがたい想いを与えてくれた、誰よりも愛しい人。




幕之内。
君は今、どうしているだろうか。




天井を見つめたまま、ヴォルグはそんな事を考える。
日本でボクサーとして頑張っている事は知っている。
この間一歩から届いた手紙には、防衛戦の成功も記されていた。

ヴォルグは起き上がり、チェストの中から1通の手紙を取り出す。
一歩からヴォルグへ宛てた手紙。
最初にこれが届いた時には、本当に驚いた。
一歩が外国語が苦手である事は聞いていたし、まさか英語で手紙が届くとは思ってもみなかった。
その手紙の封を開ける時に手が震えるほど緊張していた自分を思い出して、苦笑が漏れる。
そしてその手紙は、一歩らしい暖かさに満ちていた。
自分のために、苦手な英語で必死で書いてくれたのだろうと思うと、一歩への愛しさが溢れ出した。
溢れ出して……けれど、その衝動のままに抱きしめることすら出来ないこの距離が、歯がゆくて仕方がなかった。



声が聞きたい。逢いたい。触れたい。
彼の笑顔を見る事が出来たら、どんなに満たされるだろう。
彼をこの腕の中に抱きしめられたら、どんなに幸せだろう。
それは容易く想像出来るだけに、現実にならないそれが苦しかった。



ヴォルグの視線が、部屋の隅の電話に向けられる。
せめて、声だけでも聞ければ。
そう思って、ヴォルグは時刻を確認した。
今の時間なら、日本は丁度お昼時に当たる。
自宅にいるかどうかは分からないが、電話をしても特に差し支えはないだろう。
そう考えると、ヴォルグは受話器を手に取ろうとした。

その直前、目の前の電話からコール音が響いた。
途端に、ヴォルグの心拍数が跳ね上がった。
まさかそんなはずはないと思いながらも、少し緊張した面持ちで受話器を取る。
「……Hello?」
数瞬、受話器の向こうで動揺した気配がした後、控えめな声が聞こえてきた。
『あ、あの、ヴォルグさん……。ま、幕之内ですけど……』
あるはずがないと思いながらも何処かで期待していた通りの声に、ヴォルグは思わず受話器を強く握りしめた。
遥か遠い日本まで想いが届いたようで、たまらなく嬉しかった。
「幕之内」
ヴォルグが名前を呼ぶと、ホッとしたような息が聞こえた。
『ヴォルグさん! 良かったぁ。国際電話っていっつも緊張しちゃうんですよ』
「アリガトウ、電話とても嬉しイ」
今、自分はきっとかなり締まりのない表情をしているだろうと思う。
一歩の声を聞いただけで、トレーニングの疲れなど何処かに行ってしまった。

『えっとですね、ボク、ヴォルグさんにどうしても言いたい事があって』
そう切り出した一歩に、ヴォルグは微かに眉を寄せた。
言いたい事とは何だろう。
もしかして、日本で他に好きな人でも出来たのだろうか。
そんな想像が頭を掠めた瞬間、全身に冷たいものが走った。
もしも一歩の口からそんな言葉が発せられたら、と思うと恐ろしかった。
先程までの高揚が嘘のように、急激に寒さを感じた。

『ヴォルグさん』
一歩の声がやけに大きく耳に響く。
ドクン、と心臓が強い鼓動を刻んだ。



『ヴォルグさん、お誕生日おめでとうございます』



「……エ?」
全く予想外の言葉に、少々間抜けな声が出てしまった。
『今日、ヴォルグさんのお誕生日でしょう? ボク、どうしても今日中にお祝いを言いたくて。
 実は1時間くらい前にも1回かけたんですけど、まだ帰ってないみたいだったから』
そう話す一歩の声を、ヴォルグはその場に立ち尽くしたまま聞いていた。

部屋にかけてあるカレンダーを見ると、確かに今日は10月30日。ヴォルグの誕生日。
最近は試合以外で余り日付を気にした事がなかったから、完全に忘れていた。
誕生日を祝ってくれる人が久しくいなかったせいもあるかもしれない。
そんな、本人すらも忘れてしまっていた誕生日に、一歩は電話をかけてきてくれた。
「覚えていてくれたんでスカ?」
思わずそう尋ねたヴォルグの耳に、少し怒ったような声が届いた。
『当たり前じゃないですか! ヴォルグさんの誕生日を忘れるはずないですよ!』
珍しく強い勢いで話す一歩に、ヴォルグは少し面食らってしまった。
すると、それが伝わったのか一歩が慌てたように言葉を継いだ。
『あ、す、すみません。でも、ボクにとっては今日はとても嬉しい日だから』
「嬉しイ?」
『はい。だって、ヴォルグさんが生まれてきてくれた日なんですから。……ボクには1番嬉しい日です』
最後の方は照れたように少し声が小さくなっていったけれど、ヴォルグにははっきりと聞こえた。

今の気持ちを、一体どう言えば一歩に全て伝わるのだろう。
どんな日本語でなら、一歩へこの胸に広がった幸せな気持ちを伝えられるのだろう。
ロシア語でならいくらでも言葉が出てくるのに、日本語でそれを表現する事が出来ない。

「……アリガトウ、幕之内。とても……とても、嬉しいデス」
ダメだ、こんな言葉じゃきっと伝わらない。
今、どれほど自分が嬉しいのか。どれほど幸福なのか。
だけど、どう言えば良いのかが分からない。
一歩が目の前にいれば、表情で、声音で、そして抱きしめる事で、この想いを伝えられるのに。

「……君に逢いたイ」
逢えたら、きっと言葉じゃなくてもぬくもりで伝えられる。
『ヴォルグさん……』
戸惑ったような一歩の声に、ヴォルグはハッと我に返る。
「スミマセン、幕之内。無理なコト言いましタ。忘れて下さイ」
出来るだけ何でもない風に、努めて明るい声でそう告げる。

少しの沈黙の後、受話器の向こうから先程までより幾分しっかりした声が聞こえてきた。
『ヴォルグさん。ボクも逢いたいです。今は無理だけど、きっといつかお金を貯めて会いに行きますから』
「幕之内」
『それがアメリカでもロシアでも、ボク、絶対ヴォルグさんのところに会いに行きます』
きっぱりとそう言い切った声に、ヴォルグは瞳を閉じて一歩の姿を思い浮かべた。

逢いたいなら、会いに行けばいい。
そうだ、彼は気弱そうに見えてとても強い人だった。
控えめで大人しくて、しかしその大きな瞳には力強い意思の光を宿していた。
そんな彼に、こんな弱い自分を見せるのは余りに情けない。

「ボクも、いつか必ず幕之内に会いに行きマス。待っていてくれますカ?」
『はい!』
嬉しそうに返ってきた答えに、ヴォルグは微笑んだ。

いつ、会いに行けるかは分からないけれど。
それまでは、一歩に負けないくらい強い自分でいよう。
再び一歩に会った時、今よりもっと好きになってもらえるように。

「君が好きデス、幕之内」
ヴォルグの突然の言葉に、一歩がうろたえたような反応を返す。
「好きデス」
自分の正直な気持ちを、もう1度口に出す。
日本語で上手い言い回しなど出来ないから、ただ、それだけを。

黙って一歩からの返事を待っていると、おずおずといった感じで一歩が喋り出した。
『ヴォルグさん……えっと、その、あの、ボ、ボクも……』
そこで一旦声は途切れ、息を深く吸うような音が耳に届く。
『……ボクも、ヴォルグさんが好きです』
きっと顔を真っ赤にしながら一生懸命に言っているだろう一歩の様子が簡単に想像出来て、ヴォルグは一層優しい笑みを浮かべた。

その言葉だけで、自分はいくらでも頑張れるから。
彼が自分を想ってくれるなら、何も怖いものなどない。
彼のこの言葉ほど、嬉しい誕生日プレゼントはない、とそう思った。





数日後、一歩からヴォルグへのプレゼントが小包で届けられた。
それに添えられていたメッセージカードには、ぎこちない文字でこう書かれていた。



『Поздравляю вас с днём рождения.
 Я люблю вас.』



カードを見た瞬間に驚きに満ちた表情が、すぐに泣きそうな微笑みに変わる。
この2行を書くのに、どれだけ調べてくれたのだろう。
ヴォルグ自身、日本語を覚えるのがとても難しいのだから、一歩にとってのロシア語もとても難しいものなのは間違いない。
なのに、こうしてヴォルグのためにロシア語で気持ちを伝えようと頑張ってくれたのだ。
その一歩の気持ちが、何よりも嬉しかった。

彼を好きになって良かったと、心底思う。
心の奥に、暖かい想いが満ちていく。


最高の誕生日プレゼントをありがとう。
そう心の内で呟きながら、ヴォルグは小包の封を開けた。









END









後書き。

ヴォルグさん、お誕生日おめでとうございますv って事で書きましたー。
前半はともかく、中盤以降を書いてて砂吐きそうでどうにもこうにも。
ラストのロシア語は「お誕生日おめでとうございます。あなたが好きです」という意味のつもりで書いてますが、間違ってたらごめんなさい。(オイ)
もちろん調べて書いたんですが、私の理解力ではロシア語なんてとても……。
100のお題の「封筒」でヴォルグさんがしてくれた事のお返し、という事でどうしても書きたかったんです。



2004年10月30日 UP




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