不安距離



一歩は廊下の電話の前に座り込んで、部屋から持ってきて傍に置いてある時計を見た。
もう少し、と一歩は時計を見つめながら心中で呟く。
廊下の電気は落とされており、ペンライトの微かな灯りがほんのり灯っているだけだ。
深夜なのだから当然だが、若干不便を感じるのもまた当然の事だろう。
それでも、下手に電気をつけてしまうと茶の間で眠っている母を起こしかねない。
ただでさえ早朝から遅くまで働いているのだから、それだけは避けたいのだ。
本来なら一歩も夜更かしはすべきではないのだが、今日だけは特別だ。
ヴォルグと、電話越しとはいえ言葉を交わせる日なのだから。

アメリカで頑張っているヴォルグとは、会う事はおろか声を聞く事すらままならない。
それは仕方がない事だし、お互い目指すものがあるのだから我慢しなければならない。
いつか、ボクシングの世界で再び巡り会える事を信じて。
けれど、やはり一歩とて達観しきれるものでもなく、寂しいのも事実だ。
だから、こうして電話できる数少ない日が何より嬉しかった。

ヴォルグとの電話は、大体において交代にかけるようになっていた。
そう決めたわけではないが、いつの間にか自然にそんな感じになっている。
遠距離電話で費用がかかる事もあって、互いに電話があると「次は自分からかける」というような事を言い出すのが常だった。
それを繰り返す内に、交互に電話をするのが習慣になっていた。
もっとも、それでもそう頻繁に電話を出来るわけではないけれど。

時計の針が0時を指したのを見て、一歩はダイヤルに手をかける。
アメリカと日本では時差があるから、どうしてもこんな時間になってしまう。
ダイヤルを1つ回すたびに、鼓動が早くなっていく気がする。
これまでにも何度か電話しているが、この感覚はいつまで経ってもなくならない。
コール音が鳴り出す頃には、自分でも心臓の鼓動が分かるくらいに高鳴っている。
もうすぐ、ヴォルグの声が聞ける。
待ち遠しい気持ちで、コール音が途切れるのを待った。

いつもなら、大抵3コール以内には取ってくれる。
しかし、今日は既に10コールを過ぎてもコール音は鳴り止まない。
出かけてしまったのだろうか。
そう思うが、今日一歩がこの時間に電話する事はヴォルグも分かっているはずだった。
予告をしたわけではないが、今ではヴォルグから電話する時も一歩から電話する時も、日や時間は一定化しているからだ。

もしかして何かあったのだろうかと、不安が一歩の中に湧き上がる。
そんな中で、あと少し、あと少し待ってみよう……と思いながら、一歩はなかなか受話器を置けなかった。



何十コールを数えた頃だろうか、コール音が途切れた。
一歩の表情が一瞬にして明るくなる。
ヴォルグの名前を呼ぼうとして、その前に受話器から零れ出た声に一歩は動きを止めた。
『Hello?』
そう応じた相手の声はヴォルグのものではなく、女性の声だったからだ。

「え? あ、あの、間違えました! あ、そうじゃなくて、そのあの、そ、ソーリー!」
混乱状態になりながらも、それだけ言うと、一歩は慌てて電話を切ってしまった。
随分失礼な態度を取ってしまったと思うが、英語で丁寧に詫びるなど一歩には無理だ。
電話を切ってから、我に返ると茶の間に視線を向ける。
しばらく息を殺してじっと見ていたが、母親が起きた様子はない。
一歩はホッと息をついた後、首を傾げる。
ヴォルグに電話をかけるのは初めてではないし、電話番号もちゃんと1つ1つ確かめながらダイヤルを回したはずなのに。
気分が高揚する余り、ダイヤルし損ねたんだろうか。

1度深呼吸をしてから、一歩は再びヴォルグの電話番号へかけ直した。
間違えないように、番号を確かめながらゆっくりとダイヤルを回す。
今度こそ、絶対に間違いない。
そう確信して、一歩はヴォルグが受話器を取ってくれるのを待った。

今度はほんの数コールほどでコール音が途切れた。
しかし受話器から聞こえてきた声は、先程も聞いた女性のものだった。
声を出す事すら出来ずに、受話器から流れる声を呆然と聞いている。
女性は何事かを尋ねているようだったが、流暢過ぎて一歩にはまるで聞き取れない。
一歩は何も言えないまま、静かに受話器を下ろして電話を切った。
それからしばらくの間、一歩は黙って座り込んだままだったが、のろのろと立ち上がるとゆっくりとした足取りで自分の部屋へと戻った。




部屋の隅に座り込んで、一歩は膝を抱える。
ダイヤルした番号は、間違いなくこれまで何度もかけたヴォルグの電話番号だった。
なのに、電話に出たのはヴォルグではなく、聞き覚えのない女性の声だった。
声の感じからして、かなり若い女性だろう。
どうして、ヴォルグの部屋にそんな女性がいるのだろうか。
ヴォルグは一人っ子で亡くなってしまった母親以外に肉親はいないと、以前この家に滞在していた時に聞いた事がある。
だったら、ジムの関係者だろうか。
しかし、ジム関係の人であるならヴォルグが不在の時に部屋にいるのは不自然だ。
一歩がこの時間に電話をかけると知っている以上、ヴォルグが部屋にいるならヴォルグ自身が電話を取るはずなのだから。

ヴォルグの留守中に、ヴォルグの部屋に入れる女性。
それはつまり、ヴォルグの部屋の合鍵を持っている事を意味する。
1つの単語が浮かび、一歩の心臓の鼓動が大きく跳ね上がる。

『恋人』

そう考えた瞬間、身体中が冷たくなっていくような感覚を覚えた。
寒くなどないはずなのに、身体が小さく震え出す。

「そ、んな事……あるはず、ないよ……」
口に出して否定してみても、思考はその可能性を否定できない。
ヴォルグはルックスもいいし、ボクシングも強くて、何よりとても暖かくて優しい人だ。
アメリカでも彼に好意を寄せる女性は、決して少なくないはずだ。
その中で、ヴォルグの目に止まる女性がいてもおかしくないだろう。

自分は滅多に会う事も出来ない遠い日本にいて、しかも男だ。
しかもボクシング以外、取り立てて何か誇れるものがあるわけでもない。
そんな自分より、すぐ傍にいる綺麗な女性の方が良くなったとしても仕方がない事なのかもしれない。
もしそうだったとしても、一歩にはヴォルグを責められない。

いつかこんな日が来る事を、心のどこかでは分かっていたのかもしれない。
ヴォルグの事は誰よりも好きだし、迷わずに信じていたい。
だけど、遠い地で戦うヴォルグの心を繋ぎ止めるだけの魅力が自分にあるとはとても思えなかった。
いつか、ヴォルグが一歩への気持ちが異国での寂しさゆえの錯覚だったのだと気付く時が来るのではないか。
ずっと、心の隅にあったそんな不安が今どんどんと一歩を侵食していく。

「もしそうでも……仕方ないんだよね……」
自分に言い聞かせるように、小さく呟く。
「……仕方、ない……」
もう1度口に出しても、胸の痛みは薄れない。
それどころか、ますます鋭い棘となって一歩の心を突き刺していく。

ヴォルグは優しいから、きっと一歩の気持ちを思って言い出せなかったのかもしれない。
もし、ヴォルグに他に好きな人が出来たのなら、一歩に出来る事は身を引く事だけだ。
ヴォルグの重荷にはなりたくない。
無理やり引き止めて嫌われるくらいなら、綺麗に身を引いてせめて思い出としてだけでもヴォルグの中に残った方がいい。
必死にそう思い込もうとして、一歩は何度も何度も心の中で繰り返す。
「……そんなの嫌だ……嫌だよ……・」
抱えた両膝に顔を埋めて、一歩は唇を噛んだ。

仕方ないと思おうとしても、思えない。
今この瞬間にも、一歩の心にはヴォルグだけしかいないのに。
こんなにも、ヴォルグだけの事が好きなこの気持ちを捨てる事など出来ない。
けれど相手をそんな風に想っているのは、自分だけだったのだろうか。
胸がキリキリと痛んで、上手く息が継げない。
苦しくて苦しくて、どうにかなりそうだった。

「ヴォルグさん……」
搾り出すようにヴォルグの名を呼ぶと、瞼が熱くなった気がした。






結局、その夜はロクに眠れないまま朝を迎えてしまった。
目の下にクマを作った状態で下りてきた一歩に寛子は驚いた風だったが、1度何があったのか訊いてそれに一歩が曖昧な返事を返すとそれ以降は尋ねてこなかった。
母のこういう気遣いが、一歩としては有難かった。






22時を過ぎた辺りだろうか、廊下で電話の音が鳴り響いた。
ジムの誰かだろうかと、一歩は受話器を取る。
「もしもし、幕之内ですが」
『幕之内。ボクでス』
予想していなかった声に、一歩は思わずその場で固まってしまった。
声を出す事すら忘れて、その場に立ち尽くす。

『幕之内?』
ヴォルグが再び呼びかける声で、一歩は我に返った。
「あ……はい、す、すみません、びっくりして」
『ボクこそ、こんな時間にごめんなさイ。どうしても、幕之内にすぐ謝りたくテ』
「……謝る……?」
『昨日の朝……幕之内には夜だと思うケド、電話くれなかったですカ?』
途端に、昨夜の女性の声が一歩の頭の中に蘇り、言葉に詰まる。
それでも何とか肯定の返事をすると、ヴォルグは申し訳なさそうな声で一歩に謝った。
『本当にごめんなさイ。3日ほど前から遠征に行っていて、昨夜やっと戻ってきたんでス』
「遠征?」
『うん。急に決まったカラ、幕之内に連絡する時間がなくテ……。
 昨夜も帰ってすぐに電話したケド繋がらなくテ、こんな時間になってしまいましタ』
「時差があるんですから、仕方ないですよ」
『怒ってませんカ?』
「……怒ったりなんて、してませんよ……」
『良かっタ。ありがとう、幕之内』
会話を交わしながらも、一歩の頭の中にあるのは昨夜の電話の女性の事ばかりだった。

昨夜ずっと考えていた事が、再び頭の中を支配していく。
遠征で3日間家を空けていたなら、やはりあの女性はヴォルグのいない間にも部屋に入れる権利を持つ女性なのだとしか考えられなかった。
そんな親しい間柄の女性がいたなんて話は、1度も聞いた事がない。
小さく巣食っていた痛みが、じわじわと広がっていく。

ダメだ、と一歩は胸の辺りをギュッと押さえる。
綺麗に身を引くんだと、昨夜あれほど繰り返したのだから。
早く言わなければならない。
膨らんでいく醜い感情が爆発してしまう前に。
それによって、ヴォルグを深く傷付けてしまわないように。

「……ヴォルグさん……」
1度深く息を吸うと、一歩は受話器を持っていない方の手をキツく握りしめた。


「もう……気を遣わないで下さい。ボク、もう、電話しませんから……」


シン、とした空気が一歩の周囲を包む。
受話器の向こうからもよく似た空気を感じたのは、一歩の気のせいだろうか。
ヴォルグも一歩も一言も発しないまま、しばし時間が過ぎる。
沈黙が酷く重苦しくて、しかしこのまま電話を切ってしまう事も出来ずに、ただ黙りこくったまま時計の針だけが進んでいく。
そうしてどのくらい経っただろうか。
受話器の向こうから微かに何かが軋む音が聞こえ、次いでヴォルグの声が沈黙を破った。


『どうしてそんな事を?』


その声の硬さに、一歩はビクリと身体を揺らす。
一歩から返事がない事に焦れてか、ヴォルグが言い募る。
『どうして? やっぱり、連絡できなかったコト、本当は怒ってるのですカ?』
「違います……」
それは本当だ。連絡できなかったのは仕方のない事だと思っているし、怒るはずもない。
『だったら、どうしてですカ? 理由を教えて下さイ』
理由なんて決まっている。
どうして分からないのだろう?
ヴォルグだって、電話があった事はあの女性から聞いているはずなのに。
いや、それよりも一歩が泣きたい気持ちを堪えて引いたのに、何故ヴォルグは理由などを求めるのだろう。
どうしてそのまま電話を切ってくれないのだろう。
こんなに激しく胸を刺す理由を、一歩の口から言えなどというのは残酷だ。

「……何でそんな事言うんですか……」
『幕之内?』
「何で! ボクが必死で身を引こうとしてるのに、何でそんな風に訊くんですか!?
突然の大声にヴォルグは一瞬驚いたように言葉を失くしたが、すぐに返事が返ってきた。
『身を引ク? どういうコトですカ? どうして、そんなコト……』
「どうして? 留守を守ってくれる女性の恋人がいて、どうしても何もないでしょう!?
『恋人? 誰のですカ』
「ヴォルグさんに決まってるでしょう! 何でボクにそんな事まで言わせるんですか!?
『ち、ちょっと待って下さイ、幕之内。何言ってるのか、分かりまセン』
明らかに混乱しているヴォルグの声に、一歩も若干落ち着きを取り戻す。

それがヴォルグにも伝わったのか、一息入れてからヴォルグは静かに口を開いた。
『幕之内。ボクの恋人は幕之内だけでス』
「……でも、だったらあの女性は誰なんですか……」
『女性?』
「昨夜……いえ、朝にボクからの電話を受けた女性……です」
そこまで言って、ようやく思い当たったらしいヴォルグは慌てた様子で否定した。
『幕之内、違いまス。あのヒト、このアパートの管理人さんのお孫サン』
「……え?」
思いきり間抜けな声を出してしまってから、一歩は疑問に思った事をぶつける。
「……その管理人のお孫さんが、どうしてヴォルグさんの留守中に部屋にいるんですか」
その疑問に、ヴォルグは少し迷った様子を見せてから答えた。

そもそもそのお孫さんとやらは、最初からヴォルグの部屋にいたわけではなかった。
しかし、朝からヴォルグの部屋にかかってきた電話のコール音がいつまで経っても鳴り止まず、とうとう両隣の住人から苦情が来たらしい。
そこで、余り元気とは言えない老齢の管理人に代わり一緒にいた孫の女性が、止む無くマスターキーでヴォルグの部屋を開け、電話を取った。
もちろん、相手にはその旨とヴォルグの留守を伝えようとしたのだが、その相手が一歩だったため伝わらなかったのだ。
とりあえずそれ以降電話がかかってくる事はなかったため、その後帰ってきたヴォルグに電話があった事を伝えた、という事だった。

そこまで話を聞いて、一歩は蒼白になった。
とんでもない勘違いもだが、自分のせいでヴォルグに大変な迷惑をかけてしまった。
「ヴォ、ヴォルグさん、すみません! 凄い迷惑かけて、その上1人で勝手に酷い勘違いして……」
『ううん、違いまス。連絡できなかった、ボクが悪いんでス』
「そんな事ありません! 悪いのはボクです! 電話の事も、ボク、全然気が回らなくて……」
自分が余りに恥ずかしくて、いっそ消えてしまいたかった。
だが、受話器から聞こえるヴォルグの声はひたすら優しかった。
『謝るコトないでス。ボクでもきっと、同じコトしましタ』
「え?」
『あと1コールで出てくれるかも……そう思って、切れなかったんでしょウ?』
図星を突かれて、一歩は返事すら出来なかった。
『ボクが幕之内の立場でも、きっと電話切れなかっタ。だから、謝る必要ないでス』
受話器を持つ手が震える。
泣きたい気持ちで一杯だった。
ヴォルグの優しさと想いが、余りにも嬉しくて。
そんなヴォルグを疑ってしまった自分が、本当に恥ずかしくて情けなかった。

「ヴォルグさん……本当に、すみません。ヴォルグさんの事、疑って……」
『幕之内。離れていて不安になる気持ちは、ボクも一緒でス』
「ヴォルグさん、も?」
『ハイ。日本にいる時、板垣に聞きましタ。幕之内は、とても女性に好かれると』
「そ、そんな事ありません!」
大慌てで否定すると、受話器の向こうで微かに笑う気配がした。
『ボクもたまに思いまス。この距離と同じように、幕之内の心もボクから離れてしまうんじゃないカ』
「それも絶対にありません!」
『……ウン。ボクも同じ。幕之内以上に好きになる人なんて、絶対にいませン』
「ヴォルグさん……」
少し間を置いてから、ヴォルグは真剣な声ではっきりと言った。
『だから幕之内。ボクを信じテ。ボクも、幕之内を信じてますカラ』
告げられた真摯な言葉に、一歩は胸が締めつけられるのを感じた。

この場にヴォルグがいたなら、きっとそのまま抱きついていただろう。
今ほどヴォルグの温もりを感じたいと、自分の温もりを伝えたいと、そう強く思った事はないかもしれない。
この人を好きになって良かったと、心の底から思う。

「……信じます。信じてます。ヴォルグさん……」
『ありがとう、幕之内』
ヴォルグの柔らかい声が、静かに一歩の内に染み込んでいく。



離れている距離は、互いの心に不安を生み出す。
それは、避けようのない事なのかもしれない。
昨夜はその不安に負けてしまったけれど、もう二度と負けるものかと一歩は心に誓った。
ヴォルグに、信じると約束したから。
その約束を、必ず守り通してみせる。例え、何があっても。



それがきっと、自分への自信にもなっていく事を信じて。









END









後書き。

「4周年記念ミニ企画」第13弾。
お題は「どうしてそんな事を?」。
『そんな事』。何を一歩に言わせようか(もしくはさせようか)と考えて、あんな事になりました。
前半の一歩はやたらネガティブですが、自信のなさの表れですね。
でも、ラストではようやくポジティブに。ちょっと前進。
後半のヴォルグと一歩の会話部分は、自分でも気に入ってたりするので、読んで下さった方にも楽しんで頂けるといいなと思います。
そして、リクエスト下さった方に少しでも気に入ってもらえたら、とても嬉しいです。



2005年10月7日 UP




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