ネリネ



試合の帰り、会場の傍にある土産物屋。
普段は立ち寄る事などないが、年若いトレーナーが近く帰省するらしく何か買っていくというので、ヴォルグも何となく入ってみる事にした。
店内は小奇麗ではあるが、雑多で多種多様なものが数多く置かれ、独特の雰囲気を醸し出している。
そんな店の中をゆっくりと歩きながら、陳列された品物を流し見ていた。

ふと、レジのすぐ傍の小さな棚に並べられているものが目に入る。
そこでヴォルグが立ち止まると、レジにいた店員がにこやかに話しかけてきた。
「綺麗でしょう? メッセージを添えて送れば、きっと喜ばれますよ」
良ければ手に取って見て下さい、という言葉に甘え、ヴォルグはその中の1枚を手に取った。

青い、青い海が描かれた小さな絵葉書。
海と空の青がとても美しく、写真の事などよく分からないヴォルグでも、この絵葉書はとても綺麗だと思った。

海を見ると、大好きな人達を思い出す。
大切な彼の人の思い出にも、海は多くを占めていた。
彼と一緒に船に乗って出て行った、大きな海。
この絵葉書のように美しい海ではなかったけれど、ヴォルグにとっては幸せな思い出の詰まった海だ。

彼に逢いたい。
そう、強く想う。





「……お客様? どうかされましたか?」
絵葉書を見つめたまま動かないヴォルグに、困惑したような店員の声が届く。
「ああ、すみません。…………これを、下さい」
手に持っていた絵葉書を差し出すと、店員は会計の後、丁寧に小さな袋に入れてくれた。

トレーナーの買い物を待って、ヴォルグは帰路に着いた。
絵葉書を大切に抱えながら、心が浮き立つ気持ちを抑えきれなかった。
この絵葉書を送ったら、一歩は喜んでくれるだろうか。
そのためには、絵葉書に添える言葉もよく考えなくては、と思う。
一歩に想いを伝える言葉を。一歩が嬉しいと思ってくれる言葉を。





ヴォルグが絵葉書を投函して、2週間と少し経った頃。
郵便受けを覗くと、葉書が1枚入っているのが見えた。
まさか、と、ヴォルグの鼓動が少し早くなる。
葉書を取り出すと、送り主はヴォルグが期待していた通りの人だった。

思わず緩む頬を意識して引き締めつつ、ヴォルグは宛名の下のメッセージを読む。
そこには、ヴォルグが送った絵葉書がとても嬉しかった事、そしてヴォルグに見てほしい絵葉書を見つけたので送る、といった事が書かれてあった。
一歩がヴォルグに見てほしいという絵葉書とはどんなものだろう、と葉書をめくる。
宛名の裏にあったのは、優しい色をした花の写真だった。
その素朴な色に、ヴォルグは彼を思い起こして微笑む。
ただ、その花が何の花かは分からなかった。
花弁の形が百合に似ている気がするが、百合とは違うようだ。

確かに綺麗な花だとは思うが、一歩の意図が分からず、ヴォルグは首を傾げる。
一歩からの絵葉書は、もちろん嬉しい。
だが、一歩がこの花を選んだのにはきっと何か理由があるはずだと思う。
その理由が、分からない。

明日、通っているジムの事務員の女性にこの花の事を尋ねてみようか。
花に詳しいかどうかは分からないが、少なくともトレーナー達に訊くよりは良いだろう。
正直なところを言えば、一歩からの絵葉書は誰にも見せたくないとも思う。
自分ひとりで大事に抱え込んでしまいたい。
しかし、母国語でない言葉での本でこの花を調べるだけの時間はなかなか取れない。
子供じみた独占欲よりも、一歩の真意を知りたいと思う気持ちの方が強かった。



ヴォルグは再び絵葉書に目を落とし、幸せそうに笑う。
一歩が、ヴォルグのために選んでくれたもの。
いっそ、このまま写真立てにでも入れて飾ってしまいたいくらいだ。
そんな事を考えて、それが案外良いアイデアではないかと思い至る。
写真立てに入れてテーブルの上にでも飾ってしまえば、いつでも見られる。

本当は一歩の写真を飾りたいのだが、それは以前話した時に一歩自身に猛反対されてしまった。
おそらく、その写真を誰かに見られた時の事を危惧したのだろう。
ヴォルグ自身は、一歩と付き合っている事が知られてもそれはそれで構わないと思うが、一歩としてはそうはいかないらしい。
こっそり飾ってしまっても言わない限り一歩には分からないはずだが、一歩が嫌がる事を黙ってするのも嫌で結局それは諦めてしまった。

しかし、この絵葉書なら一歩も反対はしないはずだ。
ヴォルグ以外の誰かが見ても、何の変哲もないただの花の写真にしか見えないだろう。
この絵葉書が特別なのは、ヴォルグだけが分かる事なのだから。

そうと決まれば、明日は早速写真立てを買ってこなければならない。
女性事務員に花の事を訊くついでに、良い写真立てが売っていそうな店も尋ねてみよう。
そんな風に明日の事を考えていると、どんどん楽しい気分になってくる。
毎日の厳しいトレーニングの疲れなど、消し飛んでしまったかのようだ。
たった1枚の絵葉書だけでこんなにも感情を動かされる自分に驚きつつも、それを容易く成し遂げてしまう彼が愛しくて仕方がない。
彼との出逢いはヴォルグにとって最大の財産だと、心の底から感じる。
持っていく時に折れたりしてしまわないように、硬めのカードケースを取り出して丁寧に挟むと、ヴォルグはそっと荷物の中に絵葉書をしまった。





翌日、ジムで花の事を尋ねてみると、思いの外あっさりと答えが返ってきた。
「ああ、『ネリネ』ですね」
「ネリネ?」
あまり聞き覚えのない名に、ヴォルグは小さく首を傾げる。
「ええ、ダイヤモンド・リリーとも呼ばれますけど」
別名を教えられても、元々花に詳しくないヴォルグにはさっぱりだ。

仕方がないので、ヴォルグは少しためらいつつも突っ込んで訊いてみた。
「その花に……何て言ったらいいか分からないけど、意味、みたいなものがあるのかな」
「意味って……花言葉とかの事ですか?」
「そう、それ。知ってるかな」
そう尋ねると、女性事務員は僅かに考える素振りを見せる。
「……この絵葉書、ひょっとして噂の日本の恋人さんからのものですか?」
思いもしなかった突然の問いに動揺し、ヴォルグの頬が僅かに赤らむ。
「え、あ……うん」
そんなヴォルグの様子を微笑ましそうに見て、女性事務員は絵葉書をヴォルグへと返す。
「だったら、ご本人に訊いた方がいいですよ。花言葉って国によって違ったりするから」
つまり、彼女の知っている花言葉と、一歩が伝えたい言葉は違うかもしれないという事だ。
「でも、その人、とても素敵な方なんですね」
「え?」
小さく笑いを漏らした彼女の言葉に、ヴォルグは咄嗟に聞き返す。
「だって、あなたにそんな顔をさせられるんですもの」
自分がどんな顔をしていたのかヴォルグ自身には自覚がないのだが、その事が余計面白かったらしく、彼女は楽しそうに笑う。
何だか妙に気恥ずかしくなり、彼女に丁寧に礼を言うと、ヴォルグはそそくさとトレーニングに戻った。





教えてもらった雑貨屋で購入した写真立てに絵葉書を飾り、手に持ったままじっと見つめる。
結局この花の意味は分からなかったが、今はこうして一歩からの想いを感じているだけで十分だと思う。
逆に言えば、次に会う時の楽しみが増えたと言ってもいい。
電話で訊いてもいいかとは思うが、どうせなら一歩と直接会えた時に訊いてみよう。
そうすれば、一歩がどんな気持ちで送ってくれたのか、言葉と表情の両方でヴォルグに伝えてくれるだろう。
その時を思うと、幸せな気持ちでいっぱいになる。





必ず、一歩に会いに行こう。
この、絵葉書を持って。

きっと見せてくれるであろう彼のはにかんだ笑顔を思いながら、ヴォルグはそれをコトリとテーブルに置いた。









END






ネリネの花言葉 : また会う日を楽しみに




後書き。

6周年記念ミニ企画「花にまつわる小さなお話」第5弾。
第5弾の花はネリネ。
本当は秋の花ですが、お気になさらず。
絵葉書を写真立てに入れて飾っちゃうヴォルグは、案外一歩と似たもの同士なのかもしれません。
……いえ、一歩もヴォルグからの絵葉書飾ってそうだと思って。



2007年7月13日 UP




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