想いと言葉と



カチャリ、と小さな音を立てて、皿を重ねる。
「ご苦労さま、ヴォルグさん。もういいわよ」
最後の1枚を拭き終えたヴォルグに、寛子が労いの言葉をかける。
「いつも手伝わせてごめんなさいね」
「そんなコトないデス。ボク、イソウロウですから、当たり前でス」
申し訳なさそうに微笑む寛子を見て、ヴォルグは慌てて首を振る。
ちなみに、『居候』という言葉は梅沢に教えてもらった。

「ヴォルグさんが手伝ってくれるおかげで助かるわ。ありがとう」
そう言って笑ってくれる寛子に、僅かに今は亡き母の面影が重なる。
思えば、母が臥せってからというもの、こんな笑顔を見た事が何度あっただろうか。
病気ももちろん苦しかっただろうと思うが、何よりもヴォルグに対する申し訳なさや寂しさが母から笑顔を少なくしてしまったのかもしれないと、今になって思う。

「……ヴォルグさん? どうかしたの?」
ハッと我に返ると、寛子が心配そうな顔で覗き込んでいた。
「何でもないデス。もう、戻りまス」
咄嗟に笑顔を作り、ヴォルグは少し早足で台所を出た。



寝起きさせてもらっている一歩の部屋には戻らずに、廊下を出て庭に続く縁側に腰掛ける。
部屋に戻れば一歩がいるだろう。
今の状態で、一歩のいる部屋に戻りたくなかった。

どうして、今日に限ってこんなに感傷的になっているのだろう。
後ろは振り向かないと、そう決めて祖国を出てきたはずなのに。
ただ、この家は……ここにいる人々は余りにも暖かすぎて。
どうしようもなく、かつての幸福だった頃を思い出してしまうのかもしれない。

ここでの時間が増えていくたびに、ヴォルグは喜びと共に痛みが強まっていく。
同じ時間を過ごせば過ごすほど、離れがたくなる。
自分の進むべき道に踏み出すその足が、縫い止められそうな錯覚に陥る。
もちろんそれは彼らのせいなどではなく、自分の弱さのせいだ。
眼を閉じれば、最も離れがたい人が瞼の裏に浮かんでくる。

最初は、良い友人になれるだろうと、そう思っていただけだった。
だが、彼の真っ直ぐな強さはいつしかヴォルグの内に深く入り込んでいた。
そしてロシアに帰されるあの時、気付いたのだ。
彼に会えなくなる事の、耐えがたい悲しみに。

しかし、気付いても、もうどうしようもなかった。
ロシアへの帰還は決定されていて、今更覆す事など不可能だった。
結局、見送りに来てくれた彼に何も告げられないまま、ヴォルグは日本を後にした。

後悔しなかったといえば、嘘になる。
せめて、彼への気持ちを伝える事だけでも出来ていたら……と。
例え男からの告白に嫌悪されても、二度と会えなくなる前にどうして伝えられなかったのか、と。

母の死をきっかけに復帰を決めた時、ヴォルグ自身制御しきれない感情が真っ先にヴォルグをここへ向かわせた。
新たな道へ踏み出す前に、どうしても彼に会いたかった。
もう、後悔しないために。

アメリカ行きが決まる前に彼に想いを告げようと決めたものの、なかなか思い切れないでいた。
きっかけがないというのももちろんだが、やはり拒絶への怖れがどこかにあるのだろう。
自分も彼も男である以上、拒絶されて当然だとは分かっている。
それでも、理解と感情は別物だ。

誰だって、好意を抱いている相手に嫌われたくなどない。
その『好意』が大きくなればなるほど、嫌われることへの恐怖も比例して増えていく。
いや、おそらく想いを告げても、一歩はヴォルグを嫌いになどならないだろう。
きっととても驚いて…………とても、困ってしまうのだろう。
一歩の優しさはヴォルグの苦しみを理解し、それが一歩自身を苦しめてしまうに違いない。

それが分かっていてなおこの気持ちを打ち明けようとすることは、ヴォルグの自己満足に過ぎないのではないだろうか。
けれど、打ち明けなければ、きっとまた後悔するだろうことも分かっている。
『一歩を苦しめる』などと考えるのは、結局は自分自身に向けた言い訳なのかもしれない。
手を振り払われることを恐れて言えない、不甲斐ない自分に対しての。

軽く首を振って、小さくため息をつく。
「幕之内……」
いくら求めても届かない、愛しい人の名を呟く。

「何ですか、ヴォルグさん?」
突然背後からかけられた声に、ヴォルグは心臓が飛び出さんがばかりに驚いた。
勢いよく振り向くと、そこにはいつから立っていたのか、一歩の姿があった。
「ま、幕之内」
軽くパニックに陥りかけたヴォルグは、上手く言葉が出てこない。
そんなヴォルグの状態を察したのか、一歩は申し訳なさそうにヴォルグの傍に歩み寄る。
「すみません、驚かせちゃって。縁側にいるのが見えたんでどうしたんだろうって近付いたら、名前を呼ばれたから、てっきりボクが来たことに気付いてるんだと……」
眉をハの字に寄せて謝る一歩に、ヴォルグは慌てて首を振る。
「幕之内が謝るコトないでス。ボクが勝手に驚いたダケだかラ」
その言葉にホッとした表情を浮かべた一歩は、少し距離を空けてヴォルグの隣に腰掛けた。

しばらくは、そのまま沈黙が場を満たした。
ヴォルグも一歩も何を言うでもなく、ただ虫の声だけが耳に流れ込んでくる。

沈黙を破ったのは、一歩だった。
「あの……ヴォルグさん」
呼びかけられて、ヴォルグは一歩の方へ振り向く。
そこには、一歩が困ったような顔で僅かに視線を泳がせている。
「あの……ですね、ボクはヴォルグさんがここにいる間、楽しく過ごしてもらいたいって、思うんです」
一歩が急にこんなことを言い出した意図が分からず、ヴォルグは微かに首を傾げる。
「だから、えっと……ボクに、というかここでの生活に嫌なこととかあったら、遠慮しないで言ってほしいんです」
余りにも予想外の言葉に、ヴォルグは一瞬反応が遅れる。
そして、一歩の言うことを理解したと同時に、無意識に身を乗り出した。
「ありまセン。そんなコト、絶対ないデス。どうして、そんなコト……」
嫌なことなどあるはずがない。
ないからこそ……幸せすぎるからこそ、こんなに離れがたいのに。

「あ、すみません。で、でも、さっきヴォルグさん、何か考え込んでる風だったし……。ボクの名前も出たから、何かボクに言いたくて言えないことでもあるんじゃないかって思って……」
一歩にとっては何気なく口にしたことだろうが、ヴォルグはビクリと身体を揺らす。
確かに、『言いたくて言えないこと』はある。
もちろん、それは一歩が考えているようなことではなく、目の前の相手への諦めきれない恋慕の情だ。

ヴォルグの反応を珍しく敏感に察知したらしく、今度は一歩が身を乗り出してくる。
「やっぱり、何かあるんですね!? 言って下さい、何でも!」
間近で真っ直ぐに見つめてくる瞳に、どこか頭の中がグラグラとした感覚を覚える。
これ以上この瞳を見ていたらいけないと思うのに、視線が外せない。
「何でも……?」
無意識に零れ出たヴォルグの言葉に、一歩は大きく頷く。
「はい、何でも言って下さい!」
他の全ての音が消えて、一歩の声だけが直接響くような感覚がヴォルグを支配する。

気がついたら、両手で一歩の両肩を掴んでいた。
「幕之内……ボクは……」
知らず、手に力が篭る。

喉がカラカラに渇いたような感覚に支配され、思うように言葉が出ない。
たった一言、告げればいいだけなのに。
言わなければ。
今、言わなければ、必ずまた後悔する。

ヴォルグ自身の意思とは無関係にどんどんと早くなる鼓動を手の震えを、必死で抑え込む。
一度伏せた視線を、決意を込めて一歩へと注いだ。



「……キミが好きでス、幕之内」



それだけ言うのが、精一杯だった。
目の前の一歩の瞳が、大きく見開かれている。
当然だろう、と思う。
一歩の瞳の中に驚きの次に映る感情が怖くて、ヴォルグは僅かに視線を下に逸らす。

「え……っと、ヴォルグさん」
名前を呼ばれ、ヴォルグは微かに肩を揺らす。
「ボクも、ヴォルグさん好きですよ?」
その言葉に驚いて視線を上げると、一歩がヴォルグを見つめて笑っていた。
いつも通りの穏やかな笑顔には、困惑も何も感じ取れない。

いくら日本語に明るくないヴォルグでも、さすがにヴォルグの真意が通じていないことくらいは分かる。
明らかに、別の意味に受け取られている。
一歩はおそらく、家族や友人に対する友愛の情としての「好き」だと思ったのだろう。

「違いまス、幕之内。……違うんデス」
そうは言うものの、日本語で上手く説明するためにはどう伝えればいいものかヴォルグには分からない。
この恋情を伝えるのに、どんな日本語を使えばいいのだろう。
ヴォルグの心を全て焼き尽くしてしまいそうなほど、強いこの想いを。

日本に来て、言葉が通じなくて歯がゆい思いをすることもたくさんあった。
けれど、今日ほどもっと日本語を使いこなせればと思ったことはない。
この気持ちを全部言葉にすることが出来れば、きっと分かってもらえるのに。

「ヴォルグさん?」
様子の変化を感じ取ったのだろう、一歩が心配そうにヴォルグを見つめている。



言葉では、伝えられない。



そう思った時には、一歩を思い切り抱きしめていた。
「ヴォ、ヴォルグさん!? どうしたんですか!?
一歩の慌てたような声が聞こえたが、離すことは出来なかった。
想いの強さを伝えるように、キツくその身体を抱きしめる。

「……好きでス」
小さく呟くと、何とか離れようともがいていた一歩の手がピタリと止まった。
「好きでス、幕之内。好きでス」
壊れたレコーダーのように、同じ言葉を繰り返す。
想いを伝える日本語を、自分はこれしか知らない。
何度も何度も繰り返せば、いつかは伝わってくれるだろうか。



「……好きでス……」



何度目とも分からないその言葉の後、一歩が腕の中で小さく身じろぎした。
僅かに腕を緩めると、一歩がヴォルグを見上げていた。



「ボクも……ボクも、ヴォルグさんが…………好きですよ」



そう言った一歩の表情は、どこか悲しそうな儚げな笑顔だった。



ほんの少し前では、自分の「好き」という言葉の意図が一歩に伝わっていないと思った。
けれど今は、一歩が口にした「好き」の意図が分からない。

日本語は何故こんなにも難しいのだろう、と思う。
同じ言葉を使っても、相手の気持ちが掴み取れない。

アメリカに発つまでの短い時間で、理解できるだろうか。
一歩の気持ちを。今の言葉の意味を。





何も言葉を返せないまま、ヴォルグはもう一度想いを込めて一歩を強く抱きしめた。









END









後書き。

折角のお誕生日だというのに、おめでたくも何ともなさげな話ですみません。
ヴォルグ以上に一歩にも、何やらとても複雑な感情があるようです。
時に、場所は間違いなく幕之内家の縁側なのですが、うっかり寛子ママが聞いちゃってたらどうしよう。
まあでも、寛子ママは大物なので動じないかもしれません。むしろ応援してくれるといいなぁ。



2007年10月30日 UP




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