暖かな始まり



「やっと、着いたなー!」
先に降りたリンナの手に捕まりながら、ベルカが馬車から降りる。
「お疲れさまでした、殿下」
「まあ、俺は乗ってただけだけどな」
笑いながら周りを見渡すベルカを、リンナは穏やかな気持ちで見つめていた。



ベルカと想いが通じ合ってから、1ヶ月半。
準備に少し時間はかかってしまったが、ようやくこうしてベルカと共に離宮に来ることが出来た。
これも離宮を手配してくれたオルセリートや、ベルカに助言をくれたシャムロック、それに周りにいる色々な人々のおかげだ。
彼らの思いに応えるためにも、自分たちは幸せにならなければならない。
心から、そう思う。

先に離宮に来ていた使用人たちが、ベルカを出迎えに出てきていた。
「ベルカ殿下! お待ちしておりました!」
笑顔で挨拶をする使用人たちに、リンナはホッと息をつく。
オルセリートが選んでくれた使用人たちは、皆ベルカを王子として尊敬し、好意を持つ者たちばかりだった。
そのことだけでも、オルセリートがどれだけベルカのことを思っているかが分かる。

「えっと……マリク、だっけ。馬の方、よろしくな」
「は、はい! お任せください、殿下!」
ベルカに声をかけられた黒髪の青年が、ビシッと背筋を伸ばして緊張気味に返事をする。
彼は確か、エーコが推薦した御者だ。
以前、ミュスカへの使いで城を脱出する際にエーコを呼びに行ってくれた青年だ。
ベルカの乗った馬車を引いていくことに相当感激していたらしく、出発の時も随分と嬉しそうだった。

オルセリートが用意してくれた離宮は、決してそう広くも豪奢でもないが、品の良い落ち着いた調度品でまとめられていた。
ベルカの好みも考慮した上でのことだろう。
「いい感じだな。これくらいのが丁度いいや」
そう言いながら、ベルカがリンナを振り返る。
「そうですね。とても良い宮だと思います」
「だよな」
嬉しそうに笑うと、ベルカは部屋へと案内する使用人に付いていく。

ベルカと分かれ、用意された部屋に入るとリンナは辺りを見回す。
正直なところ、自分などにはもったいないほどの部屋だと思う。
貴族階級でもない、平民でしかない自分には過ぎた待遇だ。
多少落ち着かない気分にはなるが、そんなことよりもこれからはベルカとずっと共にいられるということが何よりも嬉しかった。
極端な話、ベルカと一緒ならばボロボロのあばら家ですらリンナにとっては最高の場所だ。

そんな風に幸福な気分に浸っていると、小さくノックの音が聞こえた。
「リンナ、いるか?」
「はい、殿下!」
急いでドアを開けると、ラフな格好に着替えたベルカが立っていた。
「なあ、ちょっと散歩に行かないか? 街の衛士や民への顔見せは明日だっていうし」
もちろん、この言葉に異論などあるはずもない。
すぐさま承諾すると、ベルカと共に宮を出た。



離宮の敷地内にある森。
風が木の枝を揺らす音と鳥のさえずりが響く中を、2人でゆっくりと歩く。
見上げると、森の木の狭間から澄み渡るような青が見える。
こうして2人だけの静かな時間が得られることが、どれだけ幸せなことなのか。
リンナもベルカも、もう知っている。

「こうやって、2人きりで話すのは結構久しぶりだよな」
リンナの方に振り向いて、ベルカが笑う。
確かにあの日以来、準備のために色々と忙しくしていてなかなか2人だけで話す時間は取れなかった。
「でも、これからは思う存分2人きりにもなれるよな」
少し照れ笑いをするベルカに思わず触れたい衝動に駆られたが、そこは何とか堪える。

「つっても、色々とまた忙しくなりそうだけどなー」
森の木々を見上げながら、ベルカが軽く伸びをする。
地方の離宮とはいえ、ここもまた小規模ではあるがいくつかの街を抱えている。
つまり、ベルカはこの地方の領地を治める太守の役割を担うことになる。
ベルカにとっては、慣れないことだらけでしばらくは大変だろう。

もちろん、オルセリートもその辺りのことは考えているらしく、有能な者たちを幾人かベルカの補佐に付けてくれている。
ベルカに太守を任せたのは、おそらくベルカ自身が「王子」の身分を捨てない以上はこの国の王子としての役割を果たさなければと考えていることを理解しているからだ。
この地方を選んだのも、民やそれぞれの街を治める街長まちおさのベルカへの好意が特に強く広がっているからだろう。
実際、馬車で関所から離宮に向かう際には街の人々がみな喜びの声を上げていた。
王府からも離れたこのような辺鄙な領地に王子殿下……しかも、かの大病禍から自分たち国民を守ってくれた方が太守として来てくれるというのだ。
この領地の人々にとっては、信じられない幸福が舞い込んできたようなものなのだろう。

しかしそれだけに、ベルカにかかる心理的な重圧も大きいのではないかと少し心配にもなる。
過度な期待と積み上げられた偶像が、ベルカを押し潰してしまわないかと。
そんなことにならないように、少しでもベルカを守る盾になれればいいと思う。
「今はそうお急ぎになることはないかと思います。時間はたっぷりとあるのですから」
「分かってるって。俺は俺の出来ることをしていくだけだ。……心配すんなって」
笑顔でそう答えるベルカに、リンナは少し苦笑する。
どうやら、リンナの心配はすっかり見透かされていたようだ。
リンナが思っているよりもずっと、ベルカは冷静に自分自身を見つめている。
ベルカの心配をするよりも先に、リンナ自身をもっと成長させなければ。
自分がベルカの足を引っ張るようなことになってはいけない。

自分も少しでもまつりごとのことを勉強しよう、と思う。
元武官で政務には向かないなどと言ってはいられない。
この先太守として領地を治めるベルカの役にまったく立てないのでは、従者として共に来た意味がない。
ただ単にベルカ個人の伴侶ともがらとしてだけではなく、ベルカ王子の伴侶ともがらたりえるように。
ほんの少しでもベルカを助けていけるように、学ぶべきことは山ほどある。



そんなことを考えていると、不意にベルカが振り向いた。
「リンナ、おまえさ、近いうちに一度実家に帰ってこいよ」
突然の言葉に、リンナは驚いてベルカを見る。
「殿下?」
「俺に付いてくるようになってから、おまえ一度も帰ってないだろ。……すげー心配してるんじゃないのか?」
確かにそうかもしれない、と思う。
サナで休暇を取り、実家に帰ろうとした矢先にアモンテールの襲撃計画を知ってアルロン伯のところへ向かい、そのままベルカに付いていくことにした。
結局、あれから一度も実家に帰ることはなく、現在に至る。

「俺、おまえの家族のこと知らねえけど……せめて顔見せてやれよ。大事にしねーと後悔するぞ」
その言葉に、ズキリと胸が痛む。
ベルカの父はラーゲンの薬によって既に会話すら出来ないほどに衰弱し、寝たきりのような状態で床に伏せっている。
聞いた話では、もう、そう長くはもたないだろうとのことだった。
母は幼い頃に大病禍で亡くし、最愛の兄であっただろうヘクトルも失った。
失くしてからでは遅いのだと、ベルカの言葉にはそんな想いが滲んでいる気がした。
ベルカがオルセリートやミュスカを失わずに済んだことに、心から安堵する。
もしこの2人まで失ってしまっていたら、ベルカは一体どうなってしまっていただろう。

「本当はさ、俺も一緒に行って会ってみたいんだけどな」
挨拶もしたいし、とベルカが笑う。
「でも、いきなり王子が来て、しかも、こ……こ、恋人、とか言ったら、びっくりするだろ」
『恋人』という言葉に思わず頬が紅潮してしまう。
見ると、ベルカも同じように自分で言ったセリフに照れているようだ。

「それに……絶対に、俺のところに帰ってくるだろ?」
そう言って見上げてくるベルカの微笑みは、正直に言って反則なのではないかと思う。
さすがにわざとやっているとは思わないが、無意識なのだとしたらなおのことだ。
「はい、必ず!」
勢い込んで答えると、ベルカの表情がますます柔らかく綻んだ。

……抱きしめたい。
が、周りに誰もいないとはいえ、ここは屋外だ。
ここで抱きしめてもおそらくベルカは怒らないだろうが、万一使用人が様子を見に来たりしては困る。
動きそうになる手をグッと握り締め、静かに呼吸を深くすることで何とか衝動をやり過ごす。

どうにか落ち着いてから、リンナは改めてベルカに視線を向ける。
「では、お言葉に甘えまして、近く実家に帰ってまいります」
王子殿下の従者になったと言うだけでも、きっと随分と驚かれるだろう。
ベルカとの関係を話すのは……もう少し先でもいい。
一度に伝えるには、あまりにも衝撃的過ぎることばかりなのだ。
少しずつ、段階を踏んで理解していってもらった方がいい。

ふと、手に温もりが触れた。
「で、殿下!?
驚いて声を上げると、ベルカが隣でリンナを見上げている。
「誰も見てねーよ。それとも、嫌か?」
「とんでもございません!」
即座に否定すると、ベルカは照れくさそうに笑ってギュッと握る。
少し迷ったが、リンナもまたその手をそっと握り返す。

触れている手の平が、とても暖かい。
この先もずっと、この温もりを感じていられたらいいと思う。

森が拓け、目の前に小さな湖が広がる。
柔らかい陽射しが水面に輝く様は、目を奪われるほどに美しかった。
木陰を見つけ、2人でひときわ大きな木の幹に凭れて座る。

しばらく、何を話すでもなくぼうっと湖を眺める。
ふと隣を見ると、ベルカがうたた寝をしていた。
その無邪気な寝顔に、思わず笑みが零れる。
こんな風に傍で無防備に眠ってしまうくらいに心を許されているのだと実感する。

しかし、このままでは風邪を引いてしまうかもしれない。
せめて上着をかけなければ……と思ったところで、繋いだままの右手に気付く。
名残惜しくはあったが、ベルカに風邪を引かせるわけにはいかない。
ベルカが起きないように慎重に繋いだ手を離すと、静かに上着を脱ぐ。
そうして、ベルカに上着をかけると、再びその手をベルカの手に重ねた。

あの時口付けたのは……確か右手だった。
リンナは重ねた下にあるベルカの左手をそっと持ち上げる。
「……両方とも、というのは我侭かもしれませんが……どうかお許しください」
小さく呟くと、リンナはその手の甲に密やかに口付けた。

そうして、ゆるくその手を握り締めたまま地面へと下ろす。
時間が流れていくのが、もったいない気すらする。
傍らで眠る愛しい人と過ごす、穏やかなひととき。
こんなに幸せで贅沢な時間が、この世にあるだろうか。

何だか、眠くなってきた。
ほんの少しだけ、寝てしまおうか。
2人きりで森でうたた寝というのも、悪くはない。

リンナは次第に深くなるまどろみに身を任せ、ゆっくりと瞳を閉じた。




後書き。

IF未来シリーズ続編ですが、何となく繋ぎの回のような話になりました。
ベルカが治める領地はいっそサナでも面白いかと思ったんですが(十月隊とかリコリス姐さんとかいるし、国王直轄領だけどオルバス同様『代行』ってことにすればいけるし)、サナは重要な領地だろうしいきなり10代のベルカが治めるには大変じゃないかなと思って遠くの小規模な領地ってことにしました。
太守の仕事のこととかはよく分からないので、今後もあまり触れないと思います……。
今回は「手を繋ぐ」「両手へのキス独り占め」が書けたので、それだけで満足です。



2011年1月9日 UP




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