光と影



黒い、鴉の装束。
この姿にももうすっかり慣れてしまった。
キリコ様の下で、暗殺部隊として働くようになってからどのくらい経っただろう。



かつて、私は剣奴だった。
人間扱いすらされないまま使い捨てられて死ぬなど冗談ではないと、自由を求めて脱しようとした。
当然追っ手がかけられたが、私は大怪我を負いながらも逃げ延びた。
多量の血を失い、体力も尽きかけた状態で辿り着いたどこかの屋敷。
そこで、ナサナエル様に出会ったのだ。

流れた血が目に入って何も見えなかったが、声と所作の空気でどこかの貴族の子息だということはすぐに分かった。
きっとこの幼い子供も、私を汚いものを見るような目で蔑んでいるのだろうと、そう思った。
けれど、幼子がおずおずと近付いてきたかと思うと、目の辺りに柔らかい布の感触が触れた。
次いで、「だいじょうぶ?」という少し怯えた声が耳を打つ。
その言葉で、その布がハンカチであることを知った。

そのような優しさを受けたことなど初めてで、戸惑う。
幼子はそのまま私の治療を使用人に命じ、私はそこで手当てを受けることとなった。
ある程度怪我が回復した頃、そこがアディン地方領主の館だと知った。
領主と奥方は私のような者が屋敷にいることに難色を示していたが、ナサナエル様が強く願い出てくださったらしい。
おかげで、私はナサナエル様の世話係として置いてもらえることになったのだ。

ナサナエル様は私を「兄や」と呼び、慕ってくださった。
貴族の子弟ともあろう方が私のような剣奴をそのように呼ぶことなど本来なら許されないことだろう。
けれど、私はナサナエル様が「兄や」と呼んで笑いかけてくださることがとても嬉しかった。
いつしか、この方のためなら何でもしたいと、そう思うようになっていった。

だが、そんな束の間の幸福な日々も唐突に終わりを告げた。
ラーゲン公の治めるカリュオン領に召し上げられるという。
そう言えば聞こえはいいが、どうやら妙な薬の研究をしているらしく、要は実験材料として集められたということなのだろう。
アディン領主夫妻にしてみれば、私のような存在は疎ましいものでしかない。
ナサナエル様にご挨拶のひとつも出来なかったことだけが、心残りだった。
突然いなくなってしまったことを、悲しまれるだろうか。
あの方をもうお傍で守れないのだと思うと、胸が痛んだ。
こんな感情など、とうに失くしてしまったと思っていたのに。

そんな風にして、2年ほどの月日が経ったある日。
「ねえ、あなたが『兄や』?」
金髪の、身なりからしておそらくはここの令息なのだろう少年が、笑顔で問いかけてきた。
そもそも、このような実験場に訪れるような身分の方ではない。
怪訝に思い、返答をしかねていると、少年は焦れたように言い募ってきた。
「ねえってば。ナサナエルが探してる『兄や』ってあなたのことなの? 違うの?」
「ナサナエル様!?
思いがけない名前が出てきて、私は思わず声を上げてしまった。

「ああ、やっぱりそうなんだ」
やっと見つけた、と少年は笑っている。
ナサナエル様のことを尋ねようとした矢先、少年は私の手を取って引っ張りながら歩き出した。
「どちらへ行かれるのですか。それに、あなたは……」
手を引かれるままに歩きながら、私は少年の後姿に問う。
「ぼくはフランチェスコ。それよりも早く行かなきゃ、あなたもナサナエルに会いたいでしょ?」
「ナサナエル様が、ここに?」
「そう。……あなたを探すために、毒使いにされてまでね」
「毒使い!?
驚きのあまり、声を上げる。
毒使いという言葉はチラリと耳にしたことがある。
このラーゲン家で毒を専門に扱う者。
だが、毒に慣れるために日常的に毒を服用し、生き残る者は稀だという。
ナサナエル様が、そんな目に遭っているというのか。それも、私のために。

「ナサナエルは自分からここに来たんだよ。『兄や』を探すために」
知らず、手が震えた。
ナサナエル様が、そこまで私を必要としてくれていること。
ナサナエル様が、私のために毒に身を侵される事態になっていること。
微かな喜びと大きな苦しみが、心の中で渦巻いている。

「でも、時間がないんだ。見つけられて良かったよ」
「時間がない……?」
問い返すと、私の手を握っている少年──フランチェスコ様の手に僅かに力が篭った。
「……倒れたんだよ、毒に身体が耐え切れなくて」
「なっ……!?
心臓に冷水を浴びせかけられたかのようだった。
鼓動がうるさく鳴り響く。
「だから、早くあなたに来てほしいんだよ。あなたが来れば、ナサナエルも持ち直すかもしれないでしょ?」
「は、はい、分かりました」
それまでは引かれるままに歩いていたが、歩調を速めて自ら歩き出した。

フランチェスコ様に付いて屋敷の中へと足を進める。
開け放たれた扉の向こう。
そこに据え置かれたベッドの上に横たわる人物を見て、私は思わずその名を呼んでいた。
青い顔色。口元の吐血の跡。痩せた手。弱々しい声。
ナサナエル様がこのようなことになったのは、私のせいだ。
私が黙っていなくならなければ。
いや、そもそも、アディン領主の屋敷になど辿り着かなかったなら。
ナサナエル様は毒を飲んで死の淵に立たされることなどなかったのだ。

祈るように、ナサナエル様の手を握った。
どうか、逝かないでほしい。
ナサナエル様は、こんな悲しい死を迎えて良い方ではない。
私の命を与えることができるなら、迷うことなく差し出せるのに。

「兄や……もう、どこにも……行かないよね……」
「はい、ナサナエル様……私はずっとお傍におります」
そう告げると、ナサナエル様はホッとしたように微笑みを浮かべた。

この方を救うことの出来ない無力な自分が悔しかった。
投与される薬に耐え、人を超える身体能力は手に入れたが、こんなときには何の役にも立たない。
毒に苦しむナサナエル様の手を握っていることしか、出来ることがない。
せめて、身の程知らずではあっても、こうしていることで少しでもナサナエル様の支えになっていてほしい。

数ヶ月かけて、少しずつ容態が回復していったことは本当に幸運だったらしい。
ナサナエル様のご体調が日に日に良くなっていくのを見て、私は心からの喜びを得た。
フランチェスコ様の口添えで、ナサナエル様のお傍に控えることを許されたことにも。
後からお礼を申し上げると、「良かったね」の一言だけが笑顔で返ってきた。



ふ、と閉じていた目を開ける。
あれから、随分と時が流れた。
正式に養子となったナサナエル様はキリコ様と名を改められ、同じ頃に暗殺部隊として「鴉」が作られた。
同時に、私への呼び名も「兄や」から「鴉」へと変わっていった。

いや、変わっていったのは、呼び名だけではない。
かつての無邪気だった笑顔は消えていき、瞳からも温度が失われていった。
お傍にありながら、私はそれを止める術を持たなかった。

この方に一生をかけて仕えていくという誓いは永遠に変わることはない。
だが、変わっていった────変わらざるを得なかったキリコ様を思うと胸に痛みが走る。
いつから、私たちは変質していったのだろう。
もう、「ナサナエルと兄や」だったあの頃には戻れない。

不意に、ベルカ王子とオルハルディのことを思い出す。
馬車での一件で黒にオルハルディの尋問に当たらせたが、彼はすべてを自分の咎として背負おうとした。
そしてベルカ王子もまた、オルハルディを守ろうとしていらした。

ベルカ王子はオルハルディをとても大切にしており、オルハルディもベルカ王子に命懸けの忠誠を捧げている。
それは、私の目から見ても容易く感じ取れることだった。
互いが互いを信頼し、必要としている。
彼らの姿に、私はかつての自分とナサナエル様の関係が重なって見えた。

一点の曇りもない忠誠。
それは私にとって、敬意を抱くには十分なものだった。
このオルハルディという人物は、礼節を尽くすに足る男だと思った。

彼が鉄柵に貫かれたのは、完全に計算外の出来事だった。
このまま放っておけば、確実に死に至る。
ベルカ王子が去った後、私はキリコ様の命令を待たずに即座に赤と黒にオルハルディの救出を命じた。
おそらくは2人とも、オルハルディがベルカ王子への切り札に使えるからだと思っただろう。
もちろん、それもあった。
だが何よりも、この男をここで死なせたくないという思いが行動を急がせた。

そしてベルカ王子が、こちらの手の内にあるオルハルディとの引き換えを拒まれたとき、私は心のどこかで納得してしまっていた。
オルハルディがそれを望むことを、ベルカ王子はご存知なのだ。
だからこそ、ご自身の心を殺してカミーノの民を優先された。
すべての始まりだったあの離宮での夜とは、見違えるほどの王子としての成長。
それもきっと、オルハルディと出逢ったからこそなのだろう。

今の私には、ベルカ王子とオルハルディの主従関係がとても眩しいものに見えた。
私たちが失ってしまった、白く、強く、優しい絆。
この2人は、この先もずっとそれを守っていくことができるだろうか。
手放すことも変質することもなく、生涯をかけて。

彼らはきっと、キリコ様の障害となる。
既に現段階でベルカ王子は民の信望を集め、王府に対する民の信頼は失われつつある。
このままでは、オルセリート殿下ではなくベルカ殿下に王位を、と望む者が増えてくる。
なれば一刻も早く、ベルカ王子を王府へ連れ戻さねばならない。

けれど、どこかで。
かつての「ナサナエルと兄や」が辿れたかもしれなかった未来を、ベルカ王子とオルハルディに見せてほしいと願ってしまう自分がいる。
決して穢れることのない、信頼と忠誠。
瞳が合えば笑い合える、暖かな繋がり。
それを、貫き通してほしい。
どんな邪魔立てにも、そびえる壁にも、負けることなく。



目の前には、尼僧の変装を半分解いたベルカ王子と、助け出されたオルハルディ。
私の役目は、彼らを王府へと連れ戻すこと。
何よりもキリコ様のために、必ず遂行すべき仕事だ。

それでも、心のどこかで望むことを止められない。
彼らが、自らの道を貫き通す姿を。



相反する二つの思いを抱えたまま、私はベルカ王子の前へと跪いた。




後書き。

最近先生含めて鴉隊への萌えが凄まじくて、つい先生SSを書き上げました。
先生の名前が分からないので一人称に……。
言葉少なで冷静な先生ですが、キリコのことも、ベルカとリンナのことも、色々と思うところがあるんだろうなと思ってこんなお話になりました。



2011年8月27日 UP




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