「英雄王様!」
「英雄王様だ!」
口々に、民衆が歓喜の声を上げる。
アゼルプラード。
ライツが築き上げた王国。
民はライツを「英雄王」と讃え、敬愛する。
最初は、ただの気まぐれだった。
いや、気まぐれだと思っていた。
水を治め、城壁を築き、食物を蓄え、民の暮らしを整えた。
いつか、幼い頃に読み聞かされた御伽話の夢の国を、この手で再現した。
それだけの力が自分にはあるのだと、そう思ったから。
違和感を覚え始めたのは、一体いつ頃だっただろう。
嘘で塗り固めたこの国は、本当にいつか夢見た国なのか。
昔はそんなことなど、考えもしなかった。
ただ、前進する道しか見えてはいなかった。
けれど、今振り返ったこの道に広がっているのは、無数に積み上げられた嘘と屍。
そんなことは、とっくに知っていたはずなのに。
いつの間にかそれは、重くライツに圧し掛かる。
反勢力を全滅させた後に無理やり后にしたコーネリアも、子を産んだ後に若くして病でこの世を去った。
まるで、愛しい男を急いで追いかけるかのように。
手に入れたと思ったものは、スルリとこの手をすり抜けて消えてしまった。
本当に欲しいものは、手に入らない。
昔から、何ひとつ。
ふと、窓に映った自分の姿が目に入る。
白が半分以上混じった長い髪。顔に刻まれたたくさんの皺。
そんな自分の姿に、自嘲めいた笑いが漏れる。
数え切れないほど殺し、奪った末が、この姿なのかと。
この手に残ったものなど、何もない。
なら、最後にもう一度思うままに行動してみてもいいかもしれないと思った。
アゼルプラードの建国の真実を、公表する。
しかし、それを言えば、結末はひとつだ。
民の暴動で、あるいはその前に真実の発覚を恐れた元老たちの手で、殺される。
考えるまでもなく、分かりきった未来。
だから、その前に……真実を残そう。
そう思い、自らの執務室で羽ペンを手に取る。
いつしか、ロヴィスコの手記を自らの目で読みたくなって覚えた読み書き。
表向きは「読み書きが出来ないと政務に支障が出る」ということにしていた。
仕方がないと嫌そうにため息をつきながら、それでも根気良く教えてくれたコーネリアの顔を思い出す。
ひょっとしたら、ライツが文字を覚えようとした理由を感付いていたのかもしれない。
文字を習ったあの時間が本当は楽しかったのだと、そう言えばコーネリアはどんな顔をしただろうか。
バカバカしいと切り捨てられただろうか。
それとも、少しはライツに対する憎しみを和らげてくれただろうか。
コーネリアが病に倒れてから死の間際まで、ライツは出来る限りの時間、コーネリアの傍にいた。
彼女が本当に傍にいてほしいと望む人物は、この手で奪ってしまった。
憎い仇が傍にいることは、コーネリアの心に安息はもたらさなかったかもしれない。
それでも最後の瞬間まで、ライツはコーネリアの手を握り続けた。
手から伝わる温もりが、ほんの僅かでも病に苦しむコーネリアの救いになることを願って。
ライツはひとつひとつ文字を滑らせていく。
長年書き続けていくうちに上達はしたが、それでもロヴィスコの流麗な文字やコーネリアの柔らかな文字には届かなかった。
それでも、真実を書き記すことは出来る。
小さく、ノックの音がした。
ライツは急いでそれを執務机の引き出しの中へと仕舞う。
入るように声をかけると、ドアが開いて初老の男が入ってくる。
「おまえか。何の用だ」
男はこちらに向かって歩きながら、困ったように微笑んでいる。
かつて、ロヴィスコの部下だった男。
3号船アゼルプラードの船員としては唯一、ライツに寝返った男だ。
男は机越しにライツの前に立ち、チラリと羽ペンを見やる。
「何か、書いていらっしゃったのですか」
既に国の執政からは半ば身を引いているライツが、滅多にペンを取らなくなっていることを分かっているのだろう。
「……おまえには、関係のないことだ」
「『アゼルプラード』の真実」
投げかけられた言葉に、ライツの目が見開かれる。
そんなライツを見て、男が微かに笑う。
「やはり、真実を書き残そうとしていらしたのですね」
「なら、どうする。俺を殺すか」
今はもう殆ど見せることのなくなった、鋭い目付きで睨み上げる。
だが、男の答えはライツの予想とはまったく違ったものだった。
「まさか。……私も、お手伝いをしようと思いまして」
その言葉に、ライツは再び目を瞠る。
「何故だ」
「さあ……何故でしょうね。私も、歳を取ったということでしょうか。……あなたと同じように」
そう言って笑うその男の声には、どこか寂しそうな、悲しげな響きが混じっていた。
罠かもしれない、とは思った。
だが、今更そんなことを気にしても仕方のないことだった。
もしも罠ならばとっくに元老たちに勘付かれているということで、それならここで警戒してももはや意味はないからだ。
だが、どう手伝う気なのかと問う。
手分けして書こうにも、ライツからいちいち指示を出していたのでは効率が悪すぎる。
「私は、陛下の書かれたものを写し取り、もうひとつ同じものを作ろうと思っています」
男の意図が分からず、眉を寄せる。
「ひとつだけでは、隠しても元老に見つけられれば隠滅されて終わりです」
それは確かにその通りだろうと思う。
「ですから、写しを作り、外に持ち出すのです。その写しは私が……」
男は一旦そこで言葉を切り、決意を宿した瞳を上げる。
「私が、必ずロヴィスコ船長の血を引く者を探し出し、渡します」
「ロヴィスコの……血を引く者……」
ロヴィスコとコーネリアに子がいたことは知っていた。
けれど、ライツは敢えてその子供の行方は追わなかった。
その子供が、いつか自分に復讐しに来るなら、それもいいと思ったからだ。
「もしも私がその前に命尽きることがあれば、その遺志を必ず誰かに託します。
そうして、いつか必ず、船長の血を継ぐ者に全てが伝わるように」
上手くはいかないかもしれない。
それでも、いつか必ず。
時が流れる中で、真実が消えてなくなってしまわないように。
ロヴィスコを裏切ったことを後悔しているのかとは、訊かなかった。
後悔しているなどと今更口に出来るはずなどないことを、ライツは知っている。
「……なら、手伝ってもらおうか」
言いながら、ライツは先程仕舞った紙束を取り出す。
「はい。微力ながら」
そう呟き、男は予備のペンをしわがれた手で握った。
そうして、長い時間をかけ、真実を書き記した書物を完成させた。
それを一揃いは地下書庫の奥の隠し部屋に納め、もう一揃いは元船員の男に託した。
いつか、この書物を……この真実を見つけてくれる者が現れるなら。
それは、アゼルプラードを本物の夢の国にしてくれる者であったらいいと思う。
成り立ちから薄汚い血と嘘に塗れていたこの国を、本当に望んだ御伽話の国へ。
もしも、あの日の海でライツが死んでいれば。
ロヴィスコとコーネリアは幸せになれただろうか。
ホクレアやコンコロルの生活に溶け込み、愛しい我が子を抱きながら慎ましやかで穏やかな人生を送れただろうか。
こんなことで、償いになるとは思わない。
今まで自分が選び歩んできた道を後悔する権利など、ライツにはない。
だが、この真実がいつか誰かに届けばいいと願う。
ロヴィスコという、本当の神の奇跡を起こした人間がいたことを────いつか。
男を城の外に逃がし、ほとぼりが冷めるまでしばらく時を置いた。
そうすれば、真実を告げても男に追っ手がかかることもないだろう。
あちこち自由が利かなくなった身体で、ライツはある部屋の前に立つ。
ノックをしてから中に入ると、座っていた夫婦が慌てて立ち上がる。
「父上、どうされたのですか。お身体の方は……」
「陛下、あまりご無理はなさらず……」
王太子である息子と、王太子妃が心配そうにライツに声をかける。
パタパタと足音を立てて、小さな子供が駆け寄ってくる。
「お祖父さま!」
嬉しそうにそう呼ぶと、ライツにポスンと抱きついてきた。
「こら! 行儀が悪いぞ!」
王太子が嗜めるが、ライツは手でそれを制した。
ライツはその場に膝を着き、小さな王子をギュッと抱きしめる。
立ち上がって息子に近付くと、椅子に座らせてその頭を撫でた。
「……父上?」
戸惑いながら自分を見上げる息子に、ライツは微笑みを向ける。
そして王太子妃に顔を向けると、息子と孫をよろしく頼む、と小さく頭を下げた。
そうして、ライツは船団の真実を公表することを告げた。
その先に待っていたものは、想像していた未来と同じもの。
いくつもの切っ先が、ライツの身体を貫く。
塞ぐものがなくなった傷口から、大量の血が溢れ出す。
それはかつて、ライツが貫いたロヴィスコの姿。
地に倒れ付したライツから、徐々に血溜まりが広がっていく。
少しずつ意識が薄れていく中で、ロヴィスコのことを思う。
ロヴィスコは今も、あの星たちが輝く空からこの地を……自分を、見ていてくれているだろうか。
コーネリアも、きっとロヴィスコの元にいるのだろう。
自分もそこへ行きたいと願うのは、傲慢すぎる願いだろうか。
ライツが落ちるべきなのは、地獄の底だと知っている。
天へ昇ることなど、この手で殺してきたたくさんの屍たちが許さないだろう。
けれど、もしも、いつか許してもらえるのなら。
目を閉じると浮かぶのは、ロヴィスコの星。
あのときライツに差し出された、航海の守り星。
もうひとつだけ願いを聞いてくれるならば。
地獄の底で罪を許されたときには、どうか、自分を導いてほしい。
ロヴィスコとコーネリアのいる────あの場所へ。
後書き。
lynxさんのお誕生日プレゼントに、と書いた綺麗なライツのお話です。
ロヴィスコ文書や読み書き覚えた理由については、Twitterでのこのツイート設定で書かせていただきました。
ラーゲン家に写しがあったということは、原書の写本を作った人物がいたということで、勝手に妄想しました。
ただ「不完全な写本」ということで、実際はもっと後に作られたものなのかもしれませんが。
そこはそれ、長い年月の中で一部が朽ちていったということで……。