追憶



「ヘクトル様」
背後から声をかけると、こそこそとしていた背中がビクッと揺れる。
光枝の常夜灯のみの仄かな明かりの中、石になったかのように硬直している。
そうして恐る恐るといった様子で振り返ったのは、紛れもなく自分の主であった。

「ヤ、ヤシュカ……もう休んだんじゃなかったのか?」
汗をダラダラと流しながら問う主に、コールは小さくため息をつく。
「嫌な予感がして目が覚めましたもので…………で、このような時間にどちらに?」
にっこりと笑顔で告げると、途端に目が泳ぎ出す。
「いや、その……寝つけないものだから、ちょっと散歩にな……」
「そうですか、でしたらお供いたします」
「えっ……いや、おまえは疲れてるだろう、ゆっくり休んでくれ」
「いえ、これも従者としての務めですので」
笑顔を崩さず言い募るコールに、ごまかしきれないと諦めたのかヘクトルが両手を上げた。
「降参だ……。部屋に戻る」
しょぼんと肩を落とすヘクトルに、先程までの笑顔とは違う苦笑がつい漏れてしまう。

ヘクトルは、民からも兵からも慕われる良き王太子だった。
領を治める能力にも問題はなく、武芸にも秀でていて、性格も気さくで明るい。
一見すると非の打ち所のないこの王子の、唯一の欠点が、色を好むところだった。
もちろん見境のない真似はしないし、ちゃんとギリギリの節度は弁えている。
純朴な街娘などに手を出すことはないし、艶街の娼妓の元へ通うくらいだ。
きちんと割り切れる相手しか選ばないし、間違いを起こさぬよう気をつけてもいるようだ。
だから、多少ならばコールも見逃しているのだが、何故かここのところは随分と頻度が多い。
更に言うなら、今は特に大事な時期だ。
いずれ王府に戻ってホクレアの解放を訴えるからには元老院と対立することになるし、出来る限りつけこまれそうな材料は作りたくない。
結果、コールがちょくちょく釘を刺すことになっていた。

そう、ほんの少し度を過ぎているから。
だから、止めるのだ。そこに他意などない。
このもやもやとした気分も、万が一を心配しているだけだ。

「私も男ですし、お気持ちは分からなくもないですが、もう少しだけご自重ください」
ヘクトルを部屋まで送りながら、コールはヘクトルの背中に声を投げる。
「ああ……」
聞いているのかいないのか、ヘクトルはぼんやりと返すのみだ。
「……何かあったのですか?」
「いや、何もないさ」
振り返らずに答えるヘクトルを、コールは少し眉を寄せて見つめる。

確かに近頃、ヘクトルの様子がおかしいような気はする。
その変化は微々たるもので、おそらく他の者は気付いてはいないだろう。
しかし「何もない」と言われてしまっては、従者でしかない自分にはこれ以上突っ込んで尋ねることは出来ない。
話してもらえないということは、つまりは、頼りにされていないということ。
それが、寂しさとほんの少しの苛立ちをコールに与える。
身勝手な感情だとは理解しているから、決して表には出さないけれど。

ヘクトルの部屋が見えてくると、警護の衛士が驚いた様子で振り返る。
背後にいるコールに気付き状況を悟ったようで、実に顔色が悪い。
とはいえ、コールとしても警護の衛士を叱責するつもりはなかった。
そもそも王太子である上に口の上手いヘクトルを止め切れるはずがないのだ。
立場上、後で多少の小言くらいは聞いてもらうことになるだろうが。

衛士が扉を開けてヘクトルが部屋に入った後、「失礼します」と声をかけてコールも中に入る。
「ヤシュカ?」
「眠れないとのことでしたので、お眠りになるまでお傍についておりますよ」
実際のところはまた抜け出されても困るので、眠るのを確認したい、といったところであるが。
「ヤシュカたんが信用してくれない……」
わざとらしくシクシクと顔を手で覆って嘘泣きをするヘクトルに、二度目のため息をつく。
「コソコソと抜け出そうとなさるからです」
そう言われると反論が出来ないのか、がっくりと肩を落とす。

「しかしなぁ、男なんだから溜まるのは仕方ないだろう?」
ベッドに腰を下ろしながら、ヘクトルはコールを見上げる。
「ですから、ある程度は黙認しているではありませんか」
こっそりと街に出て行くヘクトルに、ざわめく内心を無視して見なかった振りをしたことも数度では済まない。
「まだ妃も娶っていらっしゃらないというのに、万が一間違いを起こされては困ります」
「そんなヘマはしないぞ」
「しないようにしても起こるからこそ、間違いなのです」
ヘクトルが気をつけていることは知っているが、回数が増えればミスをする確率も高くなる。

どう言い返そうかと考えていたらしいヘクトルが、ニッと悪戯っ子のような笑みを浮かべる。
かなり嫌な予感がしたが、眠るまでいると言ったからには部屋を出るわけにもいかない。
「じゃあ、間違いが絶対起きない相手ならいいんだな?」
「それは、そうですが……」
そんな相手などどこに、と続ける前に、グイと手を引っ張られた。

コロコロ、と、外れた帽子が絨毯の上を転がる。
気付けば、ベッドの上でヘクトルに組み敷かれていた。
目を瞬かせているコールに、ヘクトルはしてやったりとでもいった顔をしている。
「おまえなら、間違いなんて起こりようがないだろ?」
確かに、それはその通りではある。しかし。
「……私は男ですよ」
「分かってるさ。男同士でも、やろうと思えば出来るぞ」
冗談だとは分かっているが、ヘクトルの場合そうとも言い切れない部分もある。
「おまえが相手をしてくれるって言うんなら、俺もわざわざ変装して街に女を買いに行く必要もないしな」
おそらくコールが真っ赤になって怒ることを予想しているのだろう、楽しそうにコールの顔を覗き込んでいる。

だが、コールはとてもではないがそんな気分にはなれなかった。
たとえ冗談であっても、ヘクトルはコールに娼妓の代わりになれと言っているのだ。
もちろん娼妓という職業を見下しているわけではない。
従者という立場である以上、主のそういった処理のことも務めのひとつと言われればその通りかもしれない。
けれど、理解していても、何故だか無性に悲しかった。

「……分かりました」
「え?」
コールの返事の意味が咄嗟に理解できなかったのだろう、ヘクトルが目をパチクリとさせている。
「これも従者の務めのひとつでしょう。……ヘクトル様が望まれるなら、お好きなようにお使いください」
全身の力を抜いて、人形のように身体を投げ出す。

しばし、シンとした空気が寝室を満たす。
そっと伸ばされた手が、コールの頬を撫でる。
「ヤシュカ……すまん。悪ふざけが過ぎた……」
その声に、先程までのようなからかいの色はなかった。
「だから、そんな顔をしないでくれ……」
自分がどんな顔をしているかなんて分からない。
むしろヘクトルの方が、バツの悪そうな、困り果てたような顔をしていた。

「おまえを処理に使おうなんて考えてないよ」
身体を起こしながら、ヘクトルはコールに手を差し出して呟く。
その手に捕まり、コールも身体を起こした。
「それは、おまえが男だからとかいうんじゃなくて…………どう言えばいいか分からないな」
困ったように髪をガシガシと掻いて、ヘクトルが首を捻っている。

「俺にとっておまえは、そんな軽い存在ではないよ」
真っ直ぐにコールの目を見つめたヘクトルの表情は、真剣そのものだった。
「調子に乗りすぎておまえを傷付けたな。すまなかった」
ベッドの上で姿勢を正してペコリと頭を下げるヘクトルに、やっとコールも我に返る。
「あ……いえ、そのように改まって謝罪なさることではございません……」
コールが自分の心の中にある想いをもてあまして、勝手に傷付いただけだ。

「いや、今回は本当に俺が悪かった。どうも俺は、いつもおまえに甘えすぎるな」
甘えられている、という自覚はあまりコールにはないのだけれど。
少しは、ヘクトルが心を預けられる存在にはなれているのだろうか。

「まあ、今日は反省も兼ねて大人しく寝るよ」
「そうしていただけると助かります」
視線が合って、互いに苦笑する。

ベッドから下り、コールは拾った帽子を被ると胸に手を当てて礼を取る。
「それでは、おやすみなさいませ」
挨拶をして部屋を辞そうと一歩下がったところで、ヘクトルから声が掛かる。
「ヤシュカ」
「はい、ヘクトル様」
「俺が眠るまでいるんじゃなかったのか?」
確かにそうは言ったが、さすがにこの状況でヘクトルが部屋を抜け出すなどと疑ったりはしない。
そう告げると、ヘクトルが拗ねたように唇を尖らせる。
「いると言ったんだから、いてくれてもいいだろう」
子供のような物言いと表情に、思わずコールは吹き出してしまう。

「先程、甘えすぎるのを反省すると仰いませんでしたか」
笑みを滲ませたままの声で尋ねてみると、ヘクトルは眉尻を下げて肩を落としている。
「これくらいはいいじゃないか……」
そんなヘクトルの様子が可愛らしくて、コールはクスリと笑う。
「分かりました。それでは、お眠りになるまでここにおります」
言いながら、ベッドサイドの椅子に静かに腰掛ける。
「子守唄は?」
「管轄外です」
にっこりと笑顔で告げると、どこかヘクトルがホッとした様子でベッドに横になった。

「おやすみ、ヤシュカ」
「おやすみなさいませ、ヘクトル様」
ゆっくりと目を閉じるヘクトルを、柔らかな眼差しで見つめる。


『俺にとっておまえは、そんな軽い存在ではないよ』


その言葉だけで、十分だと思った。
たとえ想いの種類は違っても、ヘクトルの特別な存在であれるなら。

* * *

「私は、本当に……それだけで良かったのですよ」
主のいないベッドの前で、コールはポツリと呟く。

整えられた真っ白なシーツ。柔らかい羽毛の枕。
けれど、そこに横たわるべき人はもういない。
眠るまでいてくれと願う声も聞こえない。
優しく頬に触れたその手の温度も、もう感じることはない。

シーツにそっと手を触れる。
撫でるように手を滑らせていたが、不意に皺ひとつなかったシーツがくしゃりと歪む。
真っ白なそれに、ポタリポタリといくつもの真新しい染みが増えていく。
膝を着いて、まるでベッドを抱きしめるかのように両手でシーツを掴んだ。
堪えきれないくぐもった嗚咽が、他に音のない静かな部屋に溶けていく。


『おやすみ、ヤシュカ』


いつかの笑顔を思い出す。


「……おやすみなさいませ、ヘクトル様……」


あなたの志は、願いは、私が必ず果たしてみせます。
だからどうか、優しい眠りと暖かな夢の中で────あなたが笑っていてくれますように。




後書き。

ゼロサム1月号を読んで無性にヘクヤンが書きたくなって突っ走りました。
コールの片想いっぽい話ですが、私の中ではヘクヤンです。
相互片想いのような感じで、お互い好きだけどどちらもそれを知らない的な。
このカプはヘクトルが暗殺されている以上、どうやっても幸せな結末がないのが辛いところです……。



2011年12月11日 UP




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