滲む色



大柄な身体をシーツに包んで担ぎ上げ、ルツは目立たぬよう太陽宮レギア・ソラリスへと駆けていく。
ずぶ濡れの衣服から染み出した水とそれに混じった血液が黒い服を汚したが、そんなことに構っている余裕はなかった。
応急手当はしてあるとはいえ、一刻も早くきちんとした手当てをしなければまず間違いなく命はない。
治療を施してもなお、助かる保証はないのだ。それほどの、怪我だった。

今回のことは、完全に黒の失態だった。
鉄柵を落としたのはアモンテールを逃がさないためだったが、下の様子を確認することを怠った。
危うくベルカを殺してしまうところだったのだと聞いて、さすがの黒も背筋に冷たいものが走った。
もしベルカを死なせるようなことがあれば、黒だけではなく鴉隊そのものがタダでは済まないだろう。
鴉は元々ラーゲン家での実験材料でしかなかった。
今でこそキリコ直属ということで衛士のフリをしたりしながら仕事をしているが、要は使い捨てだ。
使えなくなれば、処分されるだけ。
自分だけならそれでもいい。
だが、今回ほど重大な事態になれば間違いなく先生や赤にも累が及ぶ。
結果的に、黒はリンナに救われた形となったのだ。

キリコがリンナの治療を命じたのは、城から脱出したベルカへの取引材料にするためだろう。
それでも、黒にとっては有難い命令だった。
このままリンナを死なせてしまっては、借りを作ったまま逃げられてしまう。
せめて、この怪我の治療だけでもしなくては。
そんな思いで、黒は太陽宮へと急いだ。



医術師の治療を手伝った後、リンナの全身を拭いて着替えさせる。
身体が冷えないように毛布をかけ、暖炉に火を入れた。
一息ついたところで、医術師から声がかかった。

「足を見せてください。布で縛ってあるだけでしょう」
「……俺はいい」
「いけません! 簡単に止血してあるだけではないですか。ちゃんと処置をしなくては」
どうやら、医術師としての使命感のようなものがあるらしい。
普段なら恐れて声などかけないだろうに、今だけは随分と威勢が良い。
こんなところで意地を張っても仕方がない、と、黒は大人しく医術師の指示に従った。
この医術師は太陽宮専属の医術師でキリコの息がかかった人物だ。
キリコ直属の鴉隊である黒に下手な真似はしないだろう。

治療を受けながら、黒はチラリとリンナの方に視線を移す。
「……彼の容態は、どうなんだ」
「オルハルディ殿ですか? ……正直かなりの傷ですが、随分と鍛えているようですし体力はあるでしょうから、何とか命は繋げるのではないかと」
「そうか」
とりあえずは安心していいのだろうかと、息をつく。



足の治療が済み、医術師はキリコへ詳しい報告をしてくると小屋を出て行った。
その間のリンナの見張りは黒の仕事だ。
見張りといっても、リンナは動くどころか意識すらない。
ここにリンナがいることは一部の人間しか知らないので、侵入者が来る可能性も薄い。
念のために、という形ばかりの見張りだ。

黒は立ち上がり、リンナが横たわる簡素なベッドの傍に立つ。
アモンテールのナイフに貫かれた足が多少痛んだが、この程度の傷は黒にとってはどうということはない。
ラーゲン家で得体の知れない薬を投与され、運良く生き延びた。
いや、運が良かったのかは分からない。
いっそ、あのときに薬が合わずに死んでいればと思ったこともあった。
訓練とは名ばかりの、思い出すのも怖気が走る責め苦。
先生に拾われなければ、自分は狂っていたかもしれない。

キリコの直属ということになってはいるが、黒自身はキリコに対してそう強い忠誠心のようなものは持っていない。
ただ、先生はキリコに対して絶対の忠誠を誓っている。
だから、黒もキリコのために働く。単純な構造だった。
そして先生は、このリンナに対してもどこか一目置いているような、尊重しているような、そんな風だった。
それは、リンナのベルカに対しての忠誠心を評価しているということなのだろうか。

馬車での脱出が失敗した後、黒はリンナの尋問に当たった。
何度言葉を変えて問い詰めても、時には傷を押さえつけて苦痛を与えても、リンナの答えは変わらなかった。
自分ひとりが勝手にやったことだ、と。
ベルカを庇っていることは容易に知れた。
少なくともこの男は、ベルカを騙して利用できるほど器用な男ではない。

もしもリンナが主犯であるなら相当厳しい処罰が課せられることは、リンナも理解しているはずだった。
ベルカならば許されることでも、リンナでは決して許されない。
逆に言えば、本当のことを──ベルカの命令であることを話せば、ベルカであればそう重い事態にはならないし、リンナ自身の罪も軽くなるだろう。
それを告げても、この男は決して態度を変えることはなかった。

何故そこまで頑なに庇い続けるのか、黒には理解できなかった。
リンナがそこまでするほどの価値が、ベルカにはあるというのだろうか。
黒はベルカのことは大して知らない。
そもそも相手は王子で、接触する機会など滅多になかったのだ。

尋問中に触れたリンナのベルカへの想いは、黒の中に何か得体の知れないチリチリとした異物を残した。
自分が先生を慕う気持ちとは、どこか違う。
黒にとって先生は恩人だ。
話を聞く限りは、リンナもベルカに救われ、それに恩を感じているようだった。
けれど、それだけではない。
それよりももっと、ずっと強い、感情。

その正体を考えてはみるのだが、黒には結局分からないままだった。
何故このようなことがそんなにも気にかかるのかも分からない。



黒は、ゆっくりとリンナへ手を伸ばす。
頬に触れると、ようやく体温が戻ってきたのか暖かい感触がした。
目覚める気配はなく、その瞳は閉じられたままだ。

何故、たったひとりに対してあんなにも強い想いを抱けるのだろう。
どうして、リンナはそんなにもベルカのことが大切なのだろう。

心の中の異物がチリチリと焼け焦げていく。
目の前のリンナの瞼が閉じられたままであることに、どこか落胆を感じる。
尋問のときのように、あの強い瞳が見たい。
矢で射抜くように、真っ直ぐな感情を真正面からぶつけられたい。

もし、目を覚ましたら。
自分をこんな目に遭わせた黒を憎むだろうか。
普通ならば、憎むだろう。
けれど、何故だかリンナは違う気がした。
根拠を訊かれれば答えられない。黒自身、はっきりとは分からないのだ。

あまりにも動かないリンナに少し不安になり、黒は顔を近づける。
手をついたベッドが、ギッと音を立てる。
唇から漏れる呼吸を確認して、ホッと息をついた。
こんなにも気にかける必要はないと分かっていても、気になってしまう。

呼吸さえ肌に触れそうな距離で、黒はリンナを見つめる。
決して揺らがない心。折れることのない強い意志。
黒にとっては初めて見る、どこまでも穢れない真っ直ぐな眼差し。

気が付くと、唇を重ねていた。
火を焚いた部屋で少しかさついた唇を、食むように味わう。
どうしてこんなことをしているのか、黒にも分からない。
ただ、無意識に引き寄せられていた。

何か得体の知れない感情が、胸に重く圧し掛かる。
心地良いような、苦しいような、言葉に出来ない感情。
それは染みのようにじわじわと心に滲んでいく。
もしもその染みにすべて侵されたら、どうなってしまうのだろう。

ダメだ、と頭の中で警鐘が鳴る。
ぐっと腕に力を篭めて、唇を、身体を離す。
これ以上、リンナを見ていてはいけない。
きっと、取り返しのつかないことになる。

黒は視線を外し、ベッドサイドから離れる。
窓の傍の椅子に座り、中庭の景色を眺めることに集中する。



けれど、一度染み出した感情は────もう、消えていくことはなかった。




後書き。

4巻ラスト直後くらいの黒リン……というか、黒→リンです。
雨の修道院に至る前に、黒がリンナにほんのりと無自覚の感情を抱いていた、というあたりの話を書こうと思いました。
リンナがずっと眠ったまんまなので、黒の独り語りみたいになってますが。
最近の燃料のおかげで、鴉隊が愛しくて仕方がありません……。



2011年7月24日 UP




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