天秤



ガチャリ、と音を立てて扉の鍵が閉まる。
扉から手を離し、黒髪に黒服を纏った男が振り返る。

「もう結構ですよ」
その言葉と同時に、ベッドに腰掛けていたオルセリートは深く息を吐いた。
「まったく……『お人形』のフリも楽ではないな」
「お疲れさまです。なかなか見事な演技でしたよ」
クスリと小さく笑いながら、キリコが近付いてくる。

キリコと手を組んで以来、ラーゲンの薬を飲まされたフリを続けている。
せめて普通に振舞える段階まで来ればまだ楽なのだが、今はまだ言葉もまともに交わせない、文字通りお人形の演技をしなければならない。
自分で選んだことだとはいえ、なかなかに骨が折れる。

それに、演技とはいえ大切な相手にまでそれを貫くことはオルセリートにとっても辛かった。
「……ミュスカ姫のことをお考えですか?」
キリコが、まるで考えを読んだかのように問いかけてくる。
昨日は、自分に駆け寄ってきたミュスカを無視し、バルコニーでは酷く冷淡な視線を向けた。
きっと、ミュスカはとても傷付いただろう。

「ミュスカ姫のことですが、いかがなさいますか?
 このままにしておいては、色々と不都合が出てくるかと思いますが……」
「……ミュスカに危害を加えることは許さない」
オルセリートの、大切な妹。
ベルカに加えてミュスカにまで何かあったら、オルセリートは何のためにこんな芝居まで続けて耐えているのか。
「では、お身体に危険のない範囲で弱い薬の投与をお許し願えますか。
 ご療養という名目で、ひとまず城から離れていただけば、逆に他の元老達からも守れましょう」
「本当に、危険はないのか」
「ご安心ください。例の薬とは違い、きちんと効果の検証も済んでいるものです」
「そうか……。なら、そうしてくれ」
ミュスカに対してそのような行為は気が進まないが、城にいて動き回られては別の者達に目を付けられる危険性すらある。

ベルカは、どうなってしまったのだろう。
どこかで、生き延びていてくれているだろうか。
死亡した可能性が高い、との報告を受けても、オルセリートは信じられなかった。
きっと生きていると、そう信じていたかった。
城に戻ってこなくてもいい、どこかで幸せに暮らしてくれれば。
宮廷のドロドロとした澱みは、すべてオルセリートが引き受けるから。

「……オルセリート様」
かけられた声に、オルセリートはハッと意識を現実に戻す。
「どうなさいましたか。ぼんやりとしておいでのようでしたが」
「いや……何でもない」
そう答え、オルセリートは夜着に着替えようと服に手をかける。
察したキリコが夜着を用意し、オルセリートの着替えを手伝い始める。

着ていた服を落とすと、キリコが夜着を広げて背中から着せ掛ける。
袖を通し、前に回りこんだキリコがボタンを留めかけたところでふとその手が止まった。
「……どうした?」
「いえ……白い……美しい肌だなと思いまして」
言いながら微笑みを浮かべるキリコに、一瞬カッと頬が染まる。
「馬鹿なことを……おまえはそういう趣味でもあるのか」
「そうですね。ないつもりだったのですが……あなたは特別です」
最後の部分だけ、殊更甘く囁いたように聞こえたのはきっと気のせいではないだろう。

オルセリートは僅かに視線を逸らしながら、出来る限り不自然にならぬよう声に厳しさを混ぜ込む。
「くだらないことを言ってないで、早く留めろ。寒いだろう」
「これは失礼致しました」
全くそんなことなど思っていないのが分かる口調で言いながら、キリコは頭を下げる。

この男は、時々こういったことを口にする。
本心でないことはすぐに見て取れる。
いちいち反応しなくても、軽く流せばいいだけの話だ。

なのに、言われるたびに心に入り込んでそこに何かを置いていかれるような気分になる。
時間をかけて、少しずつ。
最初は気付くことすらなかったそれは、徐々に増えていき、存在を主張し始める。
普段は気にしないフリをしていても、キリコの姿を見止めると途端に意識を侵食する。

馬鹿馬鹿しい、と思う。
キリコとは、目的のために手を組んだだけだ。
最終的には、この男も決して許すわけにはいかない。
兄の暗殺に加担し、ベルカを見殺しにした男。

特別な感傷など、抱いてはならない。
そんなものは、オルセリート自身をいつか滅ぼしてしまう。
それは十分すぎるほど、理解している。
決して、距離を錯覚してはいけないのだ。

ボタンを留め終わったキリコが、姿勢を上げる。
不意にその顔を見上げると、目が合った。



青とも緑ともつかない、深い深い海の色。
ベルカと同じ、どこまでも透き通っているように見えるあお
オルセリートは、この瞳の色が好きだった。

「おまえは……おまえの、その眼の色は綺麗だな」
ポツリと、小さく呟く。
この色を見ていると、とても懐かしいと同時に後悔が胸を満たす。

あの夜まで、ベルカとはあまりちゃんと話したことはなかった。
ベルカがオルセリートを避けていた風なところがあったし、今思えば周りが近付かせないようそれとなく注意していたせいもあったのかもしれない。

もしも、もっと早くベルカと打ち解けて話が出来ていたら。
あの夜のような会話をもっとずっと前に交わし、互いを認め合えていたならば。
今現在のような状況にはなっていなかっただろうか。
例え元老達の陰謀を知っても、2人力を合わせて立ち向かえたのだろうか。
自分が何も知らない単純な子供だったばかりに、ベルカをあんな目に遭わせてしまった。
ベルカの言う通りあの時は逃げることだけに集中するべきだったと、今なら分かる。
オルセリートのせいで、ベルカは矢傷を負い、崖から落ちてしまった。

綺麗な碧。
この色を映した瞳を、もう一度見ることが叶えばいいと思う。
もう一度ベルカに会って、そうしたら今度こそベルカを守れるように。
誰にも、何にも、傷付けさせないように。
オルセリートはもう、昔のようには戻れない。
だから、せめてベルカだけは。
ベルカとミュスカだけは、汚れることなく笑っていてほしい。
心から、そう願う。



ふと、目の前の碧が瞼に閉ざされた。
目を閉じたまま、キリコはフイと顔を逸らす。
「……オルセリート様、そろそろご就寝のお時間では」
声音にほんの少し不機嫌な色が混じって聞こえたのは、オルセリートの気のせいだろうか。
少々不躾に眺めすぎたために気分を害したのかもしれない。
それにしても、そういった感情の揺れを気付かせるのは珍しい、と思う。

「ああ、そうだな。……少ししつこく眺めすぎたな、すまない」
一応そう謝罪しておくと、キリコは何故か眉を寄せている。
「……そのようなことは気にしておりません」
では、何を気にしているのかと思ったが、尋ねても答えるとは思えなかったので口にはしなかった。

そんなキリコの様子もほんの束の間で、すぐに普段通りの顔に戻る。
それをどこか残念に思う自分がいることに、オルセリートは戸惑う。
キリコが感情を見せようが見せまいが、特に気にすることではないはずだ。
見せてくれた方が何を企んでいるかが読みやすいという点では確かに有難いが、元々そんなことは期待していない。

今日はどうも感傷的になっているな、とオルセリートはため息をつく。
感情のないお人形を演じている反動なのかもしれない。
さっさと寝てしまおうと、オルセリートはベッドへと向かう。

「オルセリート様」
呼ばれて振り向くと同時に、流れるような動作で手を取られる。
そうして、恭しく手の甲に口付けた後、胸に手を当てゆっくりと礼を取った。
「おやすみなさいませ、オルセリート様」
「……ああ、ご苦労だった」
僅かな動揺を気取られないよう注意を払いながら、オルセリートは答える。





キリコが部屋を出たのを確認して、オルセリートは身体をベッドへ投げ出した。
見慣れた天蓋が、目に映る。

あの男は、オルセリートを自らの傀儡にしたいだけだ。
この国を動かす実権を得るために。
オルセリートを、操りやすいように変えていこうとしている。
そのために甘い言葉を囁き、自分はあなたの味方ですという顔をして。

惑わされてはならない。
自分達の関係は、あくまで共犯者だ。
そこにあるのは、忠誠でも愛情でもなく、打算だ。

それは分かっている。
なのに、あの男の唇が触れた手の甲が、どうしようもなく熱い。
そこから、じわじわと熱が広がっていく感覚がする。
この熱に全身を侵されたら、一体自分はどうなってしまうのだろう。

たぶん、そこに待っているのは破滅だけだ。
あまりにも分かりきった結末。
それを回避する術は知っているのに、自ら破滅への道を選びかけている。

「本当に、馬鹿げているな……」
両手の甲で目を覆い、自嘲気味に小さく呟く。
幸福な未来を望むことなど、とっくに止めてしまった。
血塗れの道でも、迷わず進んでいこうと決めた。
それなのに、こんな小さなことで心が揺れている。

眠れば、すべて夢の中に置いてこられるだろうか。
そうして、目的のためだけに行動できる冷静さを取り戻せるだろうか。
明日の朝には普段通りの自分に戻っていることを願い、オルセリートは静かに目を閉じた。



一瞬胸を刺した甘い痛みには────気付かなかったフリをした。




後書き。

Twitter上の企画「フォロワーさんから文章リクエスト受付ったー」で @eclucifer 様から頂いたリクエストですー。
初キリオル! ……なのに、何故こんなに殺伐とした感じになったのか……。
キリコの目の色は許可を頂きましてこの設定でいきました。
原作ではいまいちまだハッキリしないので……。原作で目の色出てきたら、その時はその時で。
ちょっとでも気に入っていただければ幸いです。ありがとうございましたー!



2010年9月30日 UP




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