幼い頃に両親を亡くし、引き取られていった貴族の屋敷。
そこの食事に何かが混ぜられていると気付いたのは、一人目が死んだ時だった。
同じように引き取られたたくさんの子供たちが、日が経つごとに次々と死んでいく。
けれど、食事を拒否すれば、飢えて死ぬ。
食べても、食べなくても…………同じことだった。
次に死ぬのは俺かもしれない、いつ死ぬのだろうと毎日怯えていた。
けれど、俺は死ななかった。
その代わりに、訓練という名の地獄に落とされた。
いつしか、俺の中から「感情」というものは消えていった。
ただ人を殺すだけのモノにそんなものは必要ない。
この家の当主にしてみれば、望みどおりのものが出来てさぞ満足だっただろう。
そうして、先生に拾われ、赤と共に暗殺部隊の鴉として城に上がった。
今までどおり、命令に従って標的を始末すればいい。
その、はずだった。
失くしたと思っていたはずのものが、胸のうちから溢れてくる。
ああ、これが「好き」という感情なのだと、ぼんやりと思う。
そんなものは今まで知らなかった。
こんなにも、誰かひとりのことしか考えられなくなるなんてことは。
これはきっと、鴉隊である俺には必要のないものなのだろう。
暗殺を生業とするのに、感情など邪魔なだけだ。
むしろ、俺たちのような者にとっては命取りでしかない。
それを理解していても、俺は初めて得たこの高揚が嬉しかった。
手放そうなどとは、思えないくらいに。
嬉しくてたまらなくて、つい、それを押し付けてしまったけれど。
焦がれる想いも届かない痛みも、すべてが初めて手にするものだった。
「オルハルディさん、ひとつだけ、頼みがあるんだ」
ベルカ王子のところへ逃がすために連れ出しながら、俺は森の中でオルハルディさんを振り返った。
「頼み?」
体力が落ちている身体では少々辛いのだろう、オルハルディさんは少しだけ息を乱している。
「……最後に一度だけ…………あなたからの口付けが欲しい」
オルハルディさんの眼が、驚きで見開かれる。
当然だろう、あまりにも突然な話だ。
薬を盛って抱かれた時にも、口付けはされた。
けれど、あのときオルハルディさんが見ていたのは……ベルカ王子だ。
一度だけでいい、『俺』への口付けが欲しかった。
今まで俺がオルハルディさんにした仕打ちを考えれば、随分と身勝手な願いであるとは分かっている。
オルハルディさんからすれば、ふざけるなと怒鳴ってもいいところだ。
けれど、オルハルディさんは戸惑ったような顔で俺を見返すだけだ。
本当に、優しい人だと思う。
俺にはその優しさを受ける価値などないのに、つい、期待をしてしまう。
しばらく何事かを考えているようだったオルハルディさんが、一歩俺へと近付く。
その両手が伸ばされ、俺の頬を包んだ。
心臓の鼓動が、一際強く跳ねた。
近づいてくる顔に、ギュッと目を閉じる。
しゅるりと鉢巻を解く音が聞こえ────額に、少しかさついた温もりが触れた。
ゆるりと眼を開くと、困ったような、悲しそうな、そんな表情のオルハルディさんが見えた。
これはきっと、オルハルディさんの精一杯の優しさだ。
本当ならば跳ね付けて当然の自分勝手な願いを、それでもオルハルディさんは叶えてくれようとした。
これまで自分を散々犯し、苦しめた相手のために。
「……ありがとう、オルハルディさん」
僅かに微笑みを浮かべ、俺はオルハルディさんの手から鉢巻を受け取る。
そうして、オルハルディさんからの口付けを封印するかのようにもう一度締め直した。
近づいてくる気配に、俺はナイフを抜く。
いくら消していても、同じ鴉隊である俺には分かる。
赤の、殺気が。
「オルハルディさん、逃げろ」
そう言って、オルハルディさんの背を押した。
もしも、先生や赤に殺されることになったとしても。
それでも構わなかった。
だけどもし、生きてもう一度会えたなら。
そのときはあなたの爪になりたいのだと、そうあなたに伝えたい。
ひとつの温もりと決意を秘めて、俺はナイフを構えた。
後書き。
9月6日は「黒」の日……ということで、突発で書いた短い黒リン黒です。
黒の一人称で書いたので何だかポエミーですが、そこはそれ。
相変わらずタケミさんとこの三次創作になります。
ラストシーンはあちらの黒リン本に勝手に続くような感じで……。