繋がる環



部屋に入った途端、ふう、と息をつく。
「お疲れさまでした、殿下」
上着を脱ごうとすると、リンナが声をかけてから丁寧な仕草でボタンを外していく。
こうしてリンナに着替えを手伝われるのにはまだ慣れていなくて、その指の動きをいちいち目で追ってしまう。

脱いだ上着をリンナが掛けている間に、ベルカは身体をソファに投げ出した。
カミーノに戻ってすぐに会議、その直後に宴会……と続いて、さすがに疲れた。
むしろ、まだ酒を飲み続けているエーコやシャムロックや天狼やらの体力は一体どうなっているのかと感心するくらいだ。
ほどほどで解散しろとは言っておいたが、まず無駄だろう。

「殿下、どうぞ」
湯気が立った良い香りの紅茶が、目の前のテーブルに置かれる。
「ああ、ありがとな。おまえの分も淹れて、そっち座れよ」
言いながら、斜向かいのソファを指差す。
「いえ、殿下の私室で座るなど……」
「いいから座れって。おまえも疲れてるだろ」
怪我だって治りきってないんだし、と付け加える。
「それでは……お言葉に甘えさせていただきます」
リンナはそう告げると、もうひとり分のお茶を淹れてソファへと腰を下ろした。

背凭れに身を預けて紅茶をひとくち飲むと、すぅ、と気持ちが落ち着く気がした。
疲れていたのは身体だけではなかったのだと、改めて思う。
リンナとあの水路で別れてから、ずっと気を張り詰めてきた。
強い王子であろうと、周りに誰もいないひとりきりの時でさえも。

けれど今リンナがここにいると思うと、それだけで心が解れていく気がした。
あまりの心地良さに、ともすればこのまま眠ってしまいそうなほどだ。
ベルカは首を小さく振ると、背凭れから身体を起こす。

「リンナ」
名を呼ぶと、短い返事が返ってくる。
「俺は最初、おまえを助けに行かないつもりだった」
テーブルの上の紅茶を見つめながら、ベルカは話し出した。
「王子として他にやるべきことがあると自分に言い聞かせて、おまえを見捨てようとしたんだ」
あのときコールや新月が助けに行けと言わなければ、ベルカはあのまま民の元へと向かっただろう。
リンナへの想いに蓋をして。

「ですがそれは、殿下が私の望みをご理解くださったからこそです。
 私こそ、身勝手な願いで殿下に苦しいご決断を強いてしまいました……」
ギュ、とリンナの手が膝の上で握り締められる。
死を覚悟しての願いがベルカを縛り付けてしまったのだと、そう思ったのだろう。

「そうじゃないんだ。俺が、俺の感情が、強くなりすぎちまったせいなんだ」
ベルカの言葉の意味が分からないのか、リンナは困ったように眉を寄せている。
「おまえをただの従者だとは思えなくなって、特別になりすぎて…………おまえを助けに行くことが、私情に思えちまったんだよ」
『王子』ではなく、『ベルカ』の想いを優先することを躊躇ってしまった。
リンナの誇る王子としての行動ではないと、そう思い込んだ。
けれど、今はそうではなかったのだと分かる。
王子であることも、ベルカというひとりの人間であることも、どちらも捨ててはならなかったのだと。

「なあ、リンナ。これ、覚えてるか?」
ベルカは胸元から紐にかけられたものを取り出す。
「それは……? ……まさか……!」
一度ジッと見た後、それの正体に思い至ったのか、リンナの目が見開かれる。
チャリ、と音を立てて取り出されたのは、あのとき貰ったブレスレット。
リンナがまだ『マリーベル』の正体を知らなかった頃にくれた、初めての贈り物だ。

紐から外し、ベルカはブレスレットを掌の上に乗せる。
「おまえならきっと覚えてると思ったよ」
「ずっと……持っていてくださったのですか」
驚きを隠さないままに、リンナがブレスレットを見つめながら尋ねる。
「ああ……。どうしても、手放せなかったんだ。おまえと再会してからも、あの水路で別れてからも、ずっと持ってた」
「殿下……」
「何で手放せないのか、ずっと不思議だった。女物で、本当なら俺がつけるようなものじゃないのに」
エーコに売るものがないかと訊かれたときも、このブレスレットだけは渡せなかった。
「けど、ようやく理由が分かった気がするんだ」
もっと前に分かっていたのかもしれないけれど、ずっと目を塞いでいたこと。
「たぶん、あの頃からどこかで惹かれてたんだ」
今のようにハッキリとした想いではなく、ぼんやりとした薄靄のようなものだったのだろうけれど。
あるいはあのまま再会しなければ、その靄はいつか自然と霧散したのかもしれない。
けれど、再会して共に過ごす時間で、それは次第に集束されひとつの形を成していった。
そして自覚する頃には、それはもう自分ではどうしようもないほどに膨らんでしまっていた。

「リンナ」
もう一度名前を呼んで、その瞳を真っ直ぐに見つめる。
鼓動の音が聞こえそうなほど、全身が緊張している。



「俺は、おまえが好きだよ。……従者とかそういうのじゃなくて、分かりやすく言うと……惚れてる」



そう告げると、リンナはまるで思考が停止でもしたようにその場に固まってしまった。
リンナのその反応の意味を計りかねて、ベルカの中に今更ながらに不安が湧き上がる。
男からの告白が受け入れられない覚悟はもちろんしているが、覚悟をしているからといって怖くないわけではない。

今ここで伝えたのは、早計だっただろうか。
だが、リンナを失った後、このブレスレットを見て何度後悔したかしれなかった。
リンナにこのブレスレットを大切に持っていることも何も、伝えられなかったことを。
喜ぶことが分かっていてブレスレットを着けて見せてやれなかったことを。

だから、もう後悔したくないと思ったのだ。
この先だって、何があるか分からない。
王府までの道のりも、王府に辿り着いてからも、すべて上手くいくとは限らない。
もしも、何も伝えられないまま、またリンナを失うようなことがあったら。
きっと、ベルカは一生後悔し続けるだろう。
だからこそ、伝えられるときにすべてを伝えたかった。
ベルカがリンナをどれだけ好きなのか、どれだけ大切な存在であるのかを。

「リンナ……」
名を呼ぶと、ハッと我に返ったらしいリンナが慌てて返事をする。
「あ、は、はい、殿下! あの、その、も、申し訳ありません、あまりに、驚いて……」
顔を真っ赤にしながらしどろもどろと答えるリンナを見ていると、逆に冷静になってしまって苦笑する。
「落ち着けよ。……突然だったから、仕方ねえけど」
ベルカ自身は再会できれば伝えるつもりで心の準備はしていたが、リンナにしてみれば青天の霹靂だろう。
まさか忠誠を誓った主からこのような告白を受けるなど、予想できなくて当然だ。

「分かってると思うけど、別に命令とかじゃねえし。おまえに無理強いするつもりもねえ」
リンナ自身の心を捻じ曲げてまで、受け入れて欲しいとは思わない。
「だから、立場とか身分とか、そういうのは一切考えないでくれ。俺が欲しいのはおまえの本心だけだ」
どんなに無茶なことを言っているのか、それは分かっている。
真面目なリンナにそれを求めることが、どれだけ我侭であるのかも。
「無理だと思ったら、そう言ってくれていい。そうしたら、今までどおりに戻るから」
これは、ベルカがリンナへ示すことのできる、精一杯の逃げ道だ。
受け入れられなくても、今までの関係は壊れない。壊さない。
だから、ベルカの従者であるために意に沿わぬ選択をする必要はないのだと。

リンナが目を閉じて黙り込んでから、どれくらい経っただろう。
ベルカへの返事を考えてくれているのであろうこの時間が、ベルカには途方もなく長く感じた。
深く息を吸い、どんな言葉が返ってきても受け入れられるように気持ちを落ち着かせる。
拒否されても、心の痛みを決して顔には出さないように。

ぐ、と膝の上のリンナの拳に力が篭められたかと思うと、ゆっくりとその眼が開かれる。
「殿下」
呼ばれ、真っ直ぐにその目を見つめ返した。
リンナの表情は真剣そのものだ。どこか緊張の色も見える。

「私は……ずっと、殿下にとって信頼するに足る従者であろうと、そう心に決めてきました」
『従者』という言葉に、僅かに胸に棘が刺した。
あくまでただの従者であることを望んでいるのだろうかと、そんな風に思った。
「従者としてあなたをお守りできればそれでいいと。それで満足なのだと」
やはり、とベルカは知らず俯きがちになる。
「けれど……言い聞かせる気持ちとは裏腹に、私の中には決して口に出してはならない想いがどんどん生まれていったのです」
「え?」
予想していなかった台詞に、ベルカは思わず顔を上げる。
期待する気持ちを抑え込もうとするが、上手くいかない。

目が合うと、リンナがほんのり照れたように微笑んだ。
「告げてはならない、育ててはいけない想いだと懸命に摘み取ろうとしました」
鼓動が速さを増し、心臓が壊れそうな錯覚に陥る。
「しかし……出来ませんでした。あなたと離れて、ますますそれは強くなるばかりでした」
「え、と……つまり、それって」
若干うろたえ気味でベルカが尋ねると、リンナの微笑みが深くなる。

「身の程知らずな想いではありますが…………私は、あなたが好きです。誰よりも」
「ほ、本当か? 従者としてとか、そういうんじゃないんだな!?
「はい。殿下のお言葉を借りれば、『惚れている』という意味です」
真っ直ぐに言い切ったその言葉の意味を理解した途端、顔に熱が集まっていく。
リンナが、ベルカを好きだと言ったのだ。ベルカと同じ意味で。

たまらなくなって、ベルカは立ち上がり、ソファに座っているリンナに抱きついた。
「で、殿下!?
「ありがとな、リンナ……。すっげー嬉しい」
自分の想いをもっと伝えたくて、ギュッと力を篭めてしがみつく。
「私も……殿下に同じ想いを持っていただけていたなど夢のようです」
そう囁いて、リンナの手がベルカの背に回る。

互いの温もりが、じんわりと互いに沁み込んでいく。
それがとても心地良かった。
リンナがここにいてくれることも、ベルカの想いを受け入れてくれたことも、ひとつ道を間違えばきっと叶わなかった。
そう思うと、今ここにある幸福が何にも代えがたいものなのだと分かる。
決して、この幸せを二度と手放さない。

「そうだ、リンナ」
少し身体を起こして、リンナを覗き込む。
「はい、殿下」
答えるリンナの身体から降りて、例のブレスレットを差し出す。
「これ……着けてくれよ」
言いながら、手首をリンナの方へ突き出した。

「では……失礼します」
リンナが立ち上がってブレスレットを手に取り、丁寧な仕草でベルカの手首へと装着する。
リンナの指先や掌が掠めるように触れるたび、鼓動が高鳴る気がした。

ブレスレットを着けた手首を、目の前に掲げる。
「ほら、どうだ?」
言いながらリンナに見せてやると、リンナは目を細めて眩しそうにそれを見つめている。
「とても良くお似合いです、殿下」
「……女物の装飾がか?」
からかうように言ってやると、途端にリンナがあたふたと慌て出す。
「あ、いえ、そのっ……女物というのは、あの、重要なことではなくてっ……!」
オロオロと弁明するリンナに、ベルカは可笑しくなって笑い出す。
「冗談だって! おまえが俺のために選んでくれたものだもんな。女物とか関係ねえよ」
正確には『マリーベル』のために選んだものだが、マリーベルもまたベルカの一部だ。

「ずっと……こうやって、おまえに見せたかったんだ」
一度は、もう決して叶わないと思っていた願い。
「そうしたら、おまえを少しでも喜ばせてやれたのかなって……後悔してた……」
「殿下……」
「でも今、こうしておまえの前でこれを着けられて、本当に嬉しいんだ」
「私も、殿下に私の贈り物をこんなにも大切にしていただいてとても嬉しく思います」
本当に嬉しそうに微笑んでいるリンナを見ていられる今が、奇跡のような幸福なのだと感じる。

だが、不意にリンナの表情が曇る。
「リンナ?」
どうしたのかと覗き込むと、リンナがソファの横に下がって頭を下げた。
「殿下、申し訳ございません」
「え、な、何がだ?」
リンナが謝罪する理由がまるで分からなくて、ベルカは動揺しつつも聞き返す。
「殿下は私の贈り物をずっと大切にお持ち下さっていたというのに、私は……殿下から賜りましたあのピアスを、失くして……しまいました……」
ピアス……としばらく考えて、アルロン伯の屋敷でエーコ経由でリンナに渡ったものだと思い出す。
あの頃はベルカも自分のことで精一杯だったこともあって、すっかり忘れていた。

「顔、上げろよ。あんな小せえもの、失くすなって方が無理な話だろ」
おそらく、リンナがそれを失くしたのは水路での一件でだろうと予測はついた。
きっとリンナのことだから、ずっと大事に懐に忍ばせていたんだろう。
あんな酷い大怪我を負って、手当てするのにあの服を脱がされ、そのまま服ごと処分されてしまったのだろう。
状況的に、リンナに過失などあるはずがなかった。
それに、あれはいわば給金代わりのような形でリンナに渡されたものだった。
純粋な贈り物ではない。
それでもきっと、あのときまでは換金することもなく大事に持っていたのだろう。

ベルカの言葉を受けて顔を上げたリンナだったが、その表情には悔やむ色しか見えない。
「あれは、俺がエーコに渡して、それからおまえに渡ったヤツだっただろ」
「は、はい……」
「今度は、俺が、おまえのためだけに選んでやるよ。おまえがそうしてくれたみたいに」
手首のブレスレットを見つめた後、微笑みながらそう告げる。
「俺からおまえへの、本当の贈り物だ。まだ少し、時間はかかるかもしんねえけど」
これからますます忙しくなる。ゆっくり贈り物を選ぶ時間はないだろう。
けれど、いつか必ずリンナに似合うものを選んで贈るから。
「はい、ありがとうございます、殿下……」
そう囁きながら微笑んだリンナの表情は、ほんの少し泣きそうに見えた。

大きく一歩、リンナへと近づく。
触れ合いそうな距離でリンナの顔を見上げると、僅かに頬を染めて戸惑っている。
両手を伸ばし、リンナの頬を包むと少し背伸びをしてチュ、と口付けた。
一瞬触れただけの唇を離して、ニッと笑う。
赤い顔で目をパチクリとさせたリンナだったが、笑い返すとそっとベルカの背を抱き、再び唇を重ねた。

唇の温もりを感じながら、リンナにどんな装飾品を贈ろうかと考える。
派手なものよりも、シンプルで飾り気の少ないものの方がきっと似合うだろう。
リンナはベルカからの贈り物なら何でも喜んでくれるだろうけれど、だからこそリンナに本当に似合うものを贈りたい。
いつかそれを選びに行く日のことが、たまらなく楽しみに思えた。




後書き。

「贈り物」からほんのり続いた感じのお話です。
再会したらこのブレスレットを着けるお話を書きたいなーと思ってて、ようやく書けました!
更に、今回は初めてベルカの方から告白する話になりました。
言うと決めたら、スパッと言っちゃう殿下が好きです。
きっとリンナにプレゼントを渡すときも、またいちゃつくに違いありません! リンベルに幸あれ!



2011年11月27日 UP




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