境界線



リンナはソファに座り、目の前のテーブルに広げた白い紙を見つめる。
部屋に備え付けられている羽ペンを手に取り、ゆっくりと文字を走らせた。
休暇中に突然このようなものを送りつけることに、罪悪感がないわけではない。
十月隊には自分を慕ってくれていた部下たちもいるし、衛士の仕事に誇りを持ってもいた。
けれど、もうサナには戻れない。
あの方に、一生をかけて付いていくと決めた。

今の自分は、他者から見れば愚かに映るのかもしれない。
サナという国王直轄領を守る十月隊の分隊長にまで上り詰めておきながら、その地位を捨ててひとりの少年に付いていっている。
ベルカは王子とはいえ、平民の子ということで殆どその地位にふさわしい力は持っていないというのは自分たちの間にも知られていることだった。
そんな形ばかりの王子に付いていっても良いことなどないと、嘲笑する者もいるだろう。
けれど、リンナはベルカに忠誠を誓うと決めた。
ベルカが王子だから、というだけではない。
恩人のために命を投げ出し、あれほど憎んでいたのに身体を張ってまで捕まっていたアモンテールの少年を助けようとした。

この方を死なせてはならないと思った。
守りたいと、この方が笑っていられるようになればいいと、そう思った。
ほぼ押しかけ従者のような形になってしまったが、それでも付いていくことを許してもらえたことが嬉しかった。



小さく、ノックの音が聞こえた。
「リンナ、いるのか?」
「はい、殿下。少々お待ちを」
返事をしながら立ち上がり、急いで書きかけの辞表を荷物の中へと仕舞う。
そうしてドアを開けた途端、リンナは目を見開く。

「で、殿下!? そ、そのお姿は……」
目の前には、メイド服を脱いだマリーベル。
要するに、ほぼ下着姿に近い状態のマリーベルがいた。
リンナは咄嗟に視線を逸らし、何かかけるものはないだろうかと部屋を見渡す。
ひとまず間に合わせに、と慌ててベッドから上掛けを取ってベルカに着せ掛けようとすると、ベルカがそれを制する。
「いらねーって。女じゃねえんだから」
それはもちろん分かっているのだが、正直なところ今のマリーベルの姿は目の毒以外の何物でもない。

「それよりさ、ちょっと手伝ってほしいんだよ」
「はい、何なりとお申し付けください」
出来るだけマリーベルの格好を見ないようにしながら、リンナは答える。
だが、そんなリンナの努力を嘲笑うかのような言葉がベルカの口から発せられた。

「このヨロイ……えー、『コルセット』ってヤツ? これ、脱がせてくれよ」
数瞬の間、思考が固まる。
「…………ぬ、脱がせ……わ、私がですか!?
「他にいないだろ」
何でもないことのように言うベルカだが、リンナにとっては大変な事態だ。
「いつもはエーコに手伝ってもらってるんだけど、なんか今、あいつ出かけててさ」
ミュスカに頼むわけにもいかないしおっさんじゃ無理そうだし……と、ベルカが零す。

「……どうしても嫌なら、エーコが帰ってくるまで待つけど……」
困ったように眉を寄せるベルカを見て、リンナが拒否できるはずなどない。
「わ、分かりました! お任せください!」
そう答えると、パッとベルカの表情が明るくなる。
「じゃあ、頼むな!」
言って、ベルカは背中を向ける。

邪魔にならないようにという配慮なのだろう、長い髪を両側に分けて肩の前に垂らしている。
いっそウィッグを脱げば良いのではないかと思うのだが、ベルカ曰く、この格好のままウィッグを外したくないとのことだった。
その気持ちは、リンナとしても分からなくもない。
この格好はあくまで「マリーベル」であって「ベルカ」ではないのだと、そう思いたいのだろう。
だが、リンナからしてみれば長い髪から覗くうなじが眼前に晒されているのをまともに見なくてはならないのが非常に困る。
女性ではないのだから首のラインをそこまで気にする必要はないと分かっていても、どう見ても愛らしい少女にしか見えないマリーベルの首が晒されていると意識してしまう。

あまりジロジロと見てはならないと分かっていても、視線が無意識に首元に注がれる。
「リンナ?」
「はっ……はい!」
僅かにコクリと咽喉を鳴らしたところで名を呼ばれ、飛び上がりそうになりながら返事をする。
「早く脱がせてくれよ。結構キツいんだよ、これ……」
「はい、ただいま!」
慌ててリンナは視線を首元から外し、コルセットへと向ける。

腰の辺りで結んである紐を解き、背中の編み上げを緩めようとコルセットに手をかける。
指の背に布越しのベルカの体温を感じ、一瞬動きが止まる。
鼓動が、速まっていくのが分かる。
ブンブンと首を振り、今自分がすべきことだけを考える。
ベルカに出来るだけ負担をかけないよう、ゆっくりと丁寧に編み上げを緩めていく。
「……なんかくすぐってえ」
「も、申し訳ありません」
「別に謝ることじゃねえって。エーコだと結構容赦なくグイグイ引っ張るからさ」
これくらいゆっくりしてくれた方が痛くなくて助かる、とベルカは笑っている。

紐がある程度緩められたのを確認すると、リンナはベルカの前に回り込む。
一瞬マリーベルの首筋が目に入りドキリとするが、そんな自分を戒めつつ前面の留め金部分を外そうとする。
すると、ベルカがリンナの手を制する。
「前は自分で外せるし、そこまでしなくていいって」
「いえ、ですが……金具でお怪我などされては大変です」
「大げさだな……」
そんな風に苦笑するものの、ベルカもそれならばと止めようとしていた手を下ろす。

プチン、プチン……と、ひとつずつ留め金を外していく。
正直に言えば、マリーベルのコルセットを脱がせていることで妙な気分になってしまう部分はある。
自制心を必死に稼動させて、衝動を抑えこむのも一苦労だ。
しかし、中途半端に引いてベルカに怪我をさせてしまうことの方が辛かった。

すべての留め金を外し終え、コルセットをベルカからそっと外す。
コルセットがなくなるとシュミーズとドロワーズだけになってしまうため、ますます目を向けづらくなる。
そんなことを思っていたら、何を思ったのかベルカはそのシュミーズまで脱ぎだした。
「殿下!?
「ん? あ、そうだ、悪ぃけど、俺の部屋から服取ってきてくれよ」
この格好でウロウロしてミュスカに見つかるとうるさいから、とベルカは続ける。
ドロワーズにまで手をかけたところで、リンナは慌てて返事をしながら踵を返して部屋を出た。



急ぎ足のままベルカに割り当てられた寝室の前まで行き、中に誰もいないのを承知の上で「失礼します」と声をかけて部屋に入る。
扉を閉めると、ようやくリンナは小さく息を吐いた。
目を閉じると先程のマリーベルの姿が目に浮かび、再び首を振る。
実際のところ男同士なのだから、ベルカの行動はさほどおかしなものではない。
必要以上に意識してしまうリンナがおかしいのだ。

リンナにとってベルカは、ただひとり忠誠を誓う存在だ。
今までの自分の人生をすべて捨ててでも、付いていこうと決めた人だ。
いくら女装しているとはいえ、このような邪な気持ちを抱くこと自体が不敬極まりない。
ベルカに付いていこうと決めたことに対して、不純な動機などはない。
それだけは、はっきりと言える。
けれど、共に行動するようになって、今までにはない感情が生まれかけているのが分かる。

それは、マリーベルのみに向けられたものなのか、そうでなくベルカ自身に向けられているものなのか。
いっそ前者であったならば良かったのかもしれない。
けれど、きっとそうではない。
だからこそ、どうすれば良いのか分からなくなる。



ベルカの服を持ち部屋へと戻ると、下着だけになったベルカがベッドに座っていた。
わざとではないのは分かっているが、その無防備さは今のリンナには非常に辛い状況だ。
男性用の下着だけになったからか、さすがに今はもうウィッグは外している。
「殿下、そのお姿ではお風邪を召してしまいます。こちらを……」
出来るだけベルカの姿を見ないように気をつけつつ、リンナは服をベルカに渡す。
いくら火を入れてあるとはいえ、ほぼ裸に近い格好では本当に風邪を引いてしまう。
ベルカに服を渡すと、リンナは不自然にならないようにコルセットなどを片付けながらベルカに背を向ける。

衣擦れの音が耳に届くだけで、鼓動が速くなるのを止められない。
背を向けているはずなのに、ベルカが服に袖を通す姿が見えるような気すらする。
目をギュッと閉じてみても、今度はマリーベルの姿が浮かんでしまう。

「リンナ?」
不意に名を呼ばれ、ビクリと身体を震わせる。
「は、はい、何でしょうか」
「いや……なんかその体勢のまま固まってるから、どうしたのかと思ってさ」
「いえ、少し考え事をしていただけです。失礼致しました」
ベルカが脱ぎ散らかしたシュミーズやらを拾い集め、リンナは立ち上がる。
「では、こちらは洗濯に出しておきますので……」
一礼して部屋を出ようとするリンナに、ベルカが声をかける。
「ああ、ありがとな!」
もう一度深く礼をして、リンナは部屋を出た。



用を済ませ部屋に戻ると、既にベルカはいなかった。
もう自分の部屋に戻ったのだろう。
ふうと息を吐きながらベッドに座り、そこが先程までベルカが座っていた場所だと気付く。

そっとベッドのシーツに触れると、まだ微かに体温が残っているような錯覚を覚える。
このベッドで無防備に笑っていたベルカ。
リンナがどんな思いでその姿を見ていたかなど、想像もしていないだろう。

忠誠を誓う主に対してこのような想いを抱くことなど、許されない。
けれど、それならばと消せるようなものではなかった。
捨てるべきだと分かっていても、彼の人への思慕は日増しに強くなるばかりだ。
いずれ、それは思慕だけでは済まなくなる。
今でさえ、あのような格好を見せられると触れたくて仕方がなくなるのだ。
これ以上想いが増幅していったなら、自分は果たして耐え切れるのだろうか。

置いてある荷物が、目に入る。
中から書きかけの辞表を取り出し、じっと見つめる。
この辞表は、リンナなりの覚悟。
もう戻らない、ずっとベルカを守り続けるとそう決めた証。

この辞表を書くと決めた時の誓いを、忘れてはならない。
一番大切なものを見失ってはいけない。
感情だけに流されて、守りたいものを失ってしまっては意味がない。

ベルカに捧げるのは、リンナのすべてを賭けた忠誠。
それだけでいい。
他のものは、ベルカにとって重荷となる。

リンナはベッドから立ち上がり、再びソファに腰を下ろす。
この文字に、閉じ込めてしまえればいい。
募らせてはいけない想いも、すべて。

そう祈りながら、リンナは一文字ずつゆっくりとペンを走らせていった。




後書き。

4巻巻末漫画のマリーベルの「このヨロイとってくれ!」から思いついた話。
当初はコメディ調にする予定だったのが、何故かこんなドシリアス展開に……。
すべてはベルカ(マリーベル)が無自覚でリンナキラーなのがいけないんだと思います。



2010年1月30日 UP




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