シトロン



宿に着き、部屋に向かおうとしたところで、小さな影がふたつ角から飛び出してきた。
避ける間もなくぶつかってしまい、その小さな影────子供のひとりが尻餅を付いた。
「っと、大丈夫か?」
声をかけて手を差し伸べようとすると、その前に少年は立ち上がり服をはたいている。
「お姉さん、ごめんなさい」
「ごめんなさい」
ペコリと少年、それに一緒にいた少女が頭を下げる。
お姉さんという言葉に一瞬反応が遅れたが、どうやらベルカのことらしい。
「い、いや……気をつけ、つけてね」
周りの客の目もあるので、何とかマリーベルらしくなるように言葉を取り繕う。

「一緒に謝ってあげるなんて、優しいねー」
エーコが少女の頭を撫でると、少女は当然とでも言うように胸を張った。
「あたりまえよ! だってわたしたち、ケッコンするんだもの!」
「へえ、そうなの?」
「うん! だいすきだもん!」
少年が満面の笑顔で答える。
すると、少女も満足そうに笑って、少年にチュッと軽く口付けた。
さすがに面食らっている一堂をよそに、子供たちは手を繋いで走り去ってしまった。



「なんつーか、最近のガキはマセてやがんなぁ」
宿の部屋に入って荷物を置きながら、シャムロックが苦笑気味にぼやいている。
「いいじゃない、可愛くてさ。口付けはレモンシトロンの味、ってね」
「味? くちづけに、味がするの?」
傍にいたミュスカが、首を傾げた。
「そうですよ、姫様。姫様も、いつか大人になったら分かりますよー」
荷物から十一弦を取り出しながら、エーコが楽しそうに笑っている。

風呂と食事の後、ミュスカは早々に寝かせ、エーコとシャムロックはいつものように宴会を始めてしまった。
ベルカは自分に割り当てられた寝室のベッドに仰向けに転がり、ぼんやりと天井を見つめる。
『口付けはレモンシトロンの味』
実は、ベルカもこれまで口付けなど経験したことがない。
もちろん、これがただの喩えだということは分かっている。
けれど、未知のものに対する興味というものは些細なことで膨れ上がってしまう。

「そういや、レモンシトロンもしばらく食ってねえなー……」
あの果物が、ベルカは好きだった。
けれどこの辺りの街ではあまり流通していないらしく、食事でも店先でもとんと見かけない。
思い出してしまうと、無性に食べたくなるのが人間というものだ。
しばらく迷うようにベッドでゴロゴロとしていたベルカだったが、勢いをつけて起き上がると部屋を出た。

ノックをして部屋に入ると、リンナが丁度立ち上がったところだった。
「殿下、どうされましたか」
「ん……どうってことでもねえんだけど……」
さすがにどう切り出したらいいか分からず、ベルカは口ごもる。

考えるより行動してしまえ、とベルカはリンナに向かってちょいちょいと手招きする。
リンナはよく分かっていないながらも素直にすぐ傍までやってきた。
少し困ったようにベルカを見ているリンナの顔が、何だか可愛く見えた。

ひとつ大きく息を吸うと、ベルカはリンナに両手を伸ばす。
リンナの顔を包みこみ、ほんの少し力を入れて引き寄せ────唇を重ねた。

目を閉じたまま、唇の感触だけに集中する。
まるで食むように、僅かに離しては何度もリンナの唇を味わう。
どれくらいの時間そうしていただろう。
はあ、と熱い息を吐きながら、ベルカは唇を離した。

目の前では、リンナが呆然としている。
当然といえば、当然かもしれない。
突然やってきて、突然口付けられたのだから。

「リンナ?」
ちゃんとこちらが見えているだろうかと、ベルカはリンナの顔の前でヒラヒラと手を振る。
すると、ようやく我に返ったらしく、途端に顔が真っ赤に染まった。
「で、殿下……! 今のは、その、一体……!?
随分と混乱した様子で、リンナは右手で口を押さえている。

「さっき、『口付けはレモンシトロンの味』とかって言ってたろ?」
「は、はい……」
「俺、レモンシトロン好きなんだよな」
この辺りで、ベルカが何を言いたいのかうっすらと分かってきたらしい。
「口付けとか俺もしたことねえから、本当にレモンシトロンの味とかすんのか気になって」
もちろん、本当にそんな味がするだなんて思ってはいなかったけれど。
「食ってみたくなったんだ……」
口付けという名のレモンシトロンを。

そこまで言うと、ベルカはもう一度リンナを見上げる。
「ごめん、嫌だったなら……謝る」
考えてみれば、あまりにも一方的な話だ。
リンナにしてみれば災難と言ってもいいくらいだろう。

だが、予想に反してリンナは大きく首を振った。
「いえ! 嫌だなどと、そのようなことはございません!」
「……本当か?」
「はい!」
即答されたその言葉を聞いて、少し安心する。

「ですが、殿下……。ひとつだけ、お訊きしてもよろしいでしょうか」
「何だ?」
「……何故、私だったのですか?」
言われた意味が即座には分からなくて、首を傾げる。
「殿下が口付けを望まれた理由は分かりました。その相手に、私を選んでくださったのは……何故でしょうか」
そのリンナの問いに、ベルカも初めてそのことを意識した。

リンナを選んだ理由。
そんなこと、考えもしなかった。
言われてみれば、確かにリンナである必要はなかったのかもしれない。
まだ幼いミュスカは論外としても、酒の入ったエーコやシャムロックならむしろノリノリで付き合ってくれたのではないだろうか。
真面目でこの手のことに抵抗のありそうなリンナのところに来たのは、何故なのだろう。
部屋を出たとき、宴会をしているエーコやシャムロックは目に入っていたのに。
当たり前のように、リンナの部屋に向かっていた。

理由を説明しようにもベルカ自身にも分からず、ますます考え込む。
そんなベルカを見て、リンナも少し戸惑っている風だ。
「私が……殿下の臣下だからでしょうか」
助け舟のように示された答えに、けれどベルカは頷くことは出来なかった。
臣下だから、リンナを選んだのか。こんなことをしたのか。
そうじゃない、と思う。
そもそも、ベルカはリンナに対して「臣下」という意識をあまり持ってはいない。
王子として扱ってくれたリンナの気持ちに応えるべく「王子」であろうとは思っているが、リンナのことは臣下というよりも共に旅をする仲間としての意識の方が強い気がする。
だから、何かを頼むことはあっても、命令などは極力したくない。

「臣下とか……そういう理由じゃねーと思う。けど、だったら何なのかって訊かれても、俺にもよく分からないんだ」
正直に、今の自分の考えていることを話す。
「ただ、おまえ以外のヤツは考えもしなかった。なんか、おまえのとこに行くのが当たり前みたいな感じで……」
リンナが理由を求めるのはもっともなことだと思うだけに、答えてやれないのが申し訳なくなってくる。
「悪い、こんなんじゃ理由になんねえよな」
「いえ、そのような……。私の方こそ、理由を尋ねるなど出過ぎました。申し訳ございません」
言って、リンナは頭を下げる。
リンナが謝る理由こそ、どこにもないのに。

「それで……殿下、レモンシトロンはご満足いただけましたでしょうか」
そう訊いてくるリンナの顔は、少し不安そうだ。
レモンシトロンは…………正直言って、よく分かんねえ」
「そうですか……」
やはり自分が相手ではダメなのだと、そう思ってしまったのかもしれない。
リンナの表情が曇るのを見て、ベルカの胸がズキリと痛む。

「なあ……もう1回、しちゃダメか?」
ベルカはリンナにそう切り出してみた。
「もう1回、とは……今の、口付けのことでしょうか……」
「ああ。おまえが嫌ならしない。……先に言っとくけど、気は遣うなよ」
リンナにベルカに対して気を遣うなということ自体が無茶である気はするが、一応付け足しておく。

「いえ、先程も申し上げましたが、嫌だなどということは決してございません」
そうは言うものの、リンナはどこか迷っている風だ。
だがひとつ深い呼吸をすると、リンナの視線が再びベルカに戻ってくる。
「分かりました。……もう一度」
そう言って、顔を僅かに下向きにしてリンナは目を閉じた。

先程と同じように、両手でリンナの頬を包んで口付ける。
優しく、ゆっくりと。
僅かに離しては、角度を変えて再び唇を重ねる。
どちらのものとも分からない吐息が、妙に耳に響く。

不意に、腰を引き寄せられた。
驚いて唇を離そうとしたが、それは叶わなかった。
もう片方の手がベルカの後頭部に添えられ、強く吸われる。
途端に主導権を奪われ、先程までリンナに口付けていたのが、今はリンナに口付けられている。

深くなる口付けにいつの間にかリンナの顔から外れていた両手が肩にかかり、縋るようにギュッと掴む。
どこかふわふわと宙に浮いたような感覚を覚えて、足元が頼りなく感じる。
ずっとこうしていたいような、けれど少しそれが怖いような、不思議な感覚。

ようやく唇が解放され、力が抜けた身体をリンナに預けたままゆるりと瞳を開く。
同じように目を開けたリンナと至近距離で視線が絡んだ瞬間、全身の血が顔に集まっていくような錯覚を覚えた。
心臓の鼓動が、早鐘を打つ。
思わず、右手で胸の辺りの服をキツく握り締めた。
口付けなど先程も自分からしたというのに、何故今更こんなに動揺しているのだろうか。

「あ……あの、殿下。申し訳ございません……」
「何で、謝ってんだ」
「殿下にお任せすべきところを、その、我慢しきれずに……」
よく見ると、リンナの顔もほんのりと赤く染まっている。
そんなリンナの表情と言葉に心の中がほんわりと暖かくなった気がして、そんな自分に戸惑う。

「謝んなよ……。レモンシトロンの味はよく分からなかったけど…………なんか、すっげー気持ち良かった……」
ポスン、と頭をリンナの肩に預ける。
「たぶん、おまえとだから……なんだと、思う」
根拠があるわけではない。けれど、確信めいたものがあった。

「ごめん、俺、もうしないとは言えねえ」
二度目に交わした口付けは、諦めてしまうにはあまりにも心地良すぎた。
「またしたくなったら……して、くれるか?」
「は、はい、殿下! 私などでよろしいのでしたら……」
「もう一度訊くけど、本当に……嫌じゃないんだな?」
いくらしたくても、嫌なのをリンナに我慢させてまで我侭を言う気にはなれない。
「誓って、そのようなことはございません」
はっきりと言い切られた言葉に、ホッと息をつく。

「ただ……」
そう付け加えられ、ベルカは顔を上げる。
「ただ、恐れながらひとつだけ、不安に思うことがございます」
「……何だ?」
一体何を言われるのだろうと内心で緊張しながらも、ベルカは出来る限り普段どおりの返事をする。
「先程の口付けは、私にとっても…………とても心地良いものでした」
「それの、何が不安なんだ?」
心地良いとリンナが感じてくれていることが嬉しく、しかしそれでは尚更その不安とやらが理解できず首を傾げる。
「心地良すぎて、先程のように、いえ、それ以上に節度を失いそうな自分が不安なのです」
節度を失う、というのは、つまり行動がエスカレートしてしまうということだろうか。
思わず口付けの先を想像してしまい、ベルカは慌てて首を振って頭に浮かんだ映像を振り払う。

「殿下?」
「あ、いや…………そんなの、気にすんなよ。そんときは、俺が止めるし」
これ以上はダメだと思ったら、必ず止めるから……と、ベルカはリンナに安心させるように笑う。
ベルカが嫌だと言えば、リンナがそれ以上無理を強いることは決してない。
「だから、俺が嫌だって言うところまでは、節度とかそういうの考えんな」
どこまでが良くてどこからがダメなのか、ベルカ自身、よく分かってはいないのだけれど。
「俺がした最初のより、二度目のおまえにされた方が気持ち良かったし……」
小さく呟くと、未だベルカの身体を支えたままのリンナの腕に、僅かに力が篭った気がした。

「本当に……よろしいのですか」
「何度も言わせんな」
「……はい、申し訳ございません」
謝罪してはいるが、その声の響きにはどこか嬉しそうな色が混じっている。

しばらくはそのまま寄り添うように身体を預けていたが、名残惜しい気持ちを振り切ってゆっくりと離れる。
「じゃあ、俺、部屋に戻るな」
「はい、ゆっくりとお休みになってください」
向けられた微笑みに、何だかくすぐったい気持ちになる。

部屋を出る間際、ふと思いついて振り返る。
「リンナ」
名を呼ぶと、直立不動のリンナから返事が返ってくる。
「もし、おまえもレモンシトロン食いたくなったら言えよ。いくらでもやるから」
笑ってそう言ってやると、リンナは一瞬目をパチクリさせたが、意味を理解したらしく顔を真っ赤に染めた。



元々、好きだったレモンシトロン
けれど、今日を境に一番の好物になりそうな気がした。




後書き。

10周年記念ミニ企画第4弾。
お題は「食ってみたくなったんだ……」
最初から最後までチューしかしてないようなお話になりました。
……一応くっつく前の2人なんですが、もうくっついちゃえよおまえら……としか言いようが……。
「ダメだと思ったら止める」とか言ってますが、ベルカはリンナならどこまでもOKだと思います。
こんな感じになりましたが、お気に召していただければ幸いです。



2011年5月15日 UP




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