夢を、見ていた。
その腕に抱き寄せられ、口付けられる夢を。
それはとても心地良く、とても……熱かった。
緩やかに意識が浮上していく。
ゆるりと目を開くと、既に明るい陽が薄いカーテンの向こうから差し込んでいた。
そのまま微睡んでいたい誘惑に何とか抗って、ベルカは身体を起こす。
ふと見ると、夜着ではなくメイド服を着ていて首を傾げる。
出発の際にはまたメイド服を着なければならないのだが、この格好のまま朝食を摂るのも何だか嫌だ。
とりあえず楽な格好に着替えようと、ベルカはベッドから下りてのろのろとメイド服を脱ぎだす。
どうにも、身体がだるい。
普段からさして寝起きがいいわけではないが、今朝は特に身体が重い気がする。
何故だろうかと考えて、昨夜の記憶を掘り起こそうと試みる。
ぼんやりと靄のかかった記憶が、次第にハッキリしてくる。
そうだ、昨夜は部屋に戻った後、喉が渇いてテーブルの水を飲んだ途端に顔が熱くなって……。
今から思えば、あれはエーコとシャムロックが飲んでいた酒だったのだろう。
それを、水と勘違いして飲んでしまったのだ。
それから、そう、リンナが戻ってきて。
寝室のテーブルで食事をした……というよりも、させてもらったと言った方が近い。
どうして「食わせろ」なんて言ってしまったのだろうと、ベルカは頭を抱える。
あれではまるで駄々っ子ではないか。
リンナもさぞ呆れただろうと思うと、恥ずかしくてこのまま再びベッドに埋もれたい気分だった。
その後は…………と、そこまで考えた途端、顔が真っ赤に染まる。
食べさせてもらうどころではない恥ずかしい行動をしていたことを思い出したからだ。
果物を食べさせてもらって、それがとても美味しかった。
その果汁がリンナの指に絡んでいて、それもとても美味しそうで……。
「やっべえ……何やってんだ俺……!」
脱いだメイド服を握り締めながら、ベルカは独りごちる。
指を舐めるなんて、普通有り得ない。
いくら酒に酔っていたとはいえ、何てとんでもない行動を取ったのか。
そして、その後の出来事。
あれは、夢などではなかったのだ。
リンナに抱き寄せられ、口付けられた。
あのときの温もりを思い出し、鼓動がうるさく響きだす。
熱く感じた口付け。抱きしめたその腕の強さ。
相手は男だというのに、何故か不快感は覚えなかった。
むしろ、手を離されたのが寂しく感じてしまうくらいだった。
理由なんて分からない。
マリーベルの……女の格好などをしていたせいだろうか。
ああ、そうだ……あのときの自分は、マリーベルだったのだ。
だから、リンナはあんな行動を取った。
リンナは、マリーベルが好きだったから。
好きだった女の姿であんな風にされたら、男なのだから我慢できなくなっても仕方がないだろう。
素のベルカの姿のままだったら、きっとあんなことにはならなかった。
途端に、何かが胸を刺した気がした。
ジリジリと何かが焦げるような痛み。
リンナがマリーベルを好きなことくらい、最初から知っていたはずなのに。
ベルカは小さく首を振る。
そんなことを考えていても仕方がない。
問題は、これからどうするかだ。
土下座といってもいい体勢で謝罪していたリンナ。
きっと、自分を責めているだろう。
気にしていないと言ってやるべきか、それとも、忘れてしまったフリをしてやるべきか。
ベルカが酒のせいで忘れてしまっていたら、リンナは少しでも気が軽くなるだろうか?
そんなことを考えながらも、ひとまず着替え終える。
すると、小さくノックの音が聞こえた。
「……殿下、その、もうお目覚めでしょうか……」
どこか躊躇いがちにかけられた声に、返事をする。
ゆっくりと開かれたドアの向こうには、既にきっちりと身支度を整えたリンナがいた。
「おはようございます、殿下……」
やはりどこか元気のない様子のリンナに、明るい調子でいつものように笑いかけた。
「おう、おはよう。もうメシの支度出来てるのか?」
まるで何事もなかったかのようなベルカの笑顔に、リンナは戸惑っているようだ。
「は、はい。間もなく。……その前に、少し、お時間をいただけますでしょうか」
真剣な眼差しで、リンナが見つめてくる。
折角忘れたフリをしていたというのに。
どうやら、うやむやのまま終わらせる気はないようだ。
リンナらしいといえば、リンナらしい。
視線で続きを促すと、リンナはその場で深く頭を下げた。
「殿下。申し訳ございません……。私は……私は昨夜、大変な無礼を働きました」
ベルカは黙ったまま、リンナの言葉を聞く。
「酒で酔いが回られた殿下に……私は……く、口付け、を……」
リンナの両手が、キツく握り締められている。
「たとえ殿下が覚えていらっしゃらなくとも、事実は消えません。本当に……申し訳ございませんでした……」
顔が見えなくても、声で今のリンナの切羽詰った気持ちが伝わってくる。
「顔……上げろよ」
そう声をかけると、恐る恐るといった様子でリンナが姿勢を上げる。
「……昨夜も言ったろ、気にすんなって」
言ってやると、リンナは心底驚いたという顔で目を見開いている。
「お、覚えておいでなのですか!?」
「ん……まあ、な」
リンナから言い出した以上、もう忘れたフリには意味がない。
「マリーベルの格好であんなことした俺も悪いんだし……」
「そのような! すべては私の自制心のなさ故です!」
リンナに自制心がない、などと言ったら、それこそ自制心のある人間とはどんな人間かということになる。
「『マリーベル』だったんだから、仕方ねえよ。あんま気に病むな」
自分の言葉に感じた痛みには気付かないフリをして、ベルカは笑う。
「殿下、私は……」
「ん?」
「…………いえ……何でも、ございません……」
何を言いかけたのか気にはなったが、今の状況であまりリンナを問い詰めたくなくてそのまま聞き流す。
「ほら、いつまでもそんな顔してんなって」
「はい……」
それでもやはり、悔恨の念は消えないらしい。表情は沈んだままだ。
ベルカの意志を無視して口付けたことは、ベルカが思うよりもリンナの心を責め苛んでいるようだ。
これは、言い訳かもしれない。
リンナの心を軽くするためなどという言い訳で、自分の望みを正当化しているだけなのかもしれない。
……それでも。
「リンナ」
名を呼んで、リンナに近付く。
両手を伸ばし、リンナの頬を包む。
ほんの少しだけ背伸びをして、戸惑っているリンナに────唇を寄せた。
唇を離すと、リンナが耳まで真っ赤にしてうろたえていた。
「で、殿下……! あの、今のは、一体……!?」
そんなリンナの様子を見て、僅かに苦笑する。
「俺も今、おまえに無断で口付けた。これで、お互い様だろ?」
俯きがちにそう告げて、ベルカは一歩下がる。
これはきっと、『ベルカ』として交わす最初で最後の口付け。
リンナにとっては不本意だろうけど、この一度だけ、許してほしい。
どこか胸の奥に苦い想いを隠しながら、ベルカはリンナに小さく笑いかけた。
後書き。
「甘い酩酊」の翌朝、ということでこちらはベルカ視点で書きました。
なんか色々とすれ違ってる2人ですが、いつか互いの想いを知る日まではすれ違いっぱなしなんでしょうね……。
傍から見てるとじれったいやらもどかしいやら。
ラスト部分をちょっとだけ、対っぽくしてみました。