永遠



ポタリと、雫が手にかかる。
小さな嗚咽が聞こえて、リンナはゆっくりと見上げる。
泣かせている。
誰よりも、笑っていてほしかった人を。





一目惚れ、だったのかもしれない。
街中に逃げた賊を追って、ある娼館を捜索した。
その時に見かけた、長い黒髪の少女。
およそこのような場所には似つかわしくないと思える清楚な少女が、リンナの目を引いた。

もう一度会いたくなって、何度かその娼館に通った。
体調が思わしくないからとその度に断られたが、どうしても諦め切れなかった。
そんな折、詩人を処刑せよとの命令を受けた。
相手が武器を持った罪人ならばともかく、内容が内容とはいえただ歌っているだけの詩人を殺すなど──。
だが、命令に逆らうわけにはいかない。
どうするべきか分からなくなって、少女──マリーベルに会いに行った。
今、どうしても彼女の顔が見たかった。
まだ一度も聞いたことのない、その声が無性に聞きたかった。

詩人の話をした途端、突然様子の変わったマリーベルに戸惑う。
そして、次の瞬間、信じられないものを見てその場で呆然と立ち尽くしてしまった。

間違いなく、あれは「少年」だった。
変装で身を隠していたことと、その特徴から、彼が追っていた「賊」だということはすぐに分かった。
なら、どうする?
彼と詩人を、殺すのか?
だが、老人を助け、また仲間であろう詩人を危険を冒してまで救いに行った彼は、本当に追われるべき罪人なのだろうか?



何よりも、自分は「マリーベル」を……この手で殺せるだろうか?



「何ボーっとしてんの、アンタ」
振り返ると、そこには娼館の主がいた。
「はい、これ」
そう言って差し出されたリュックを、思わず受け取る。
「これは……?」
「んー? 坊やの服と、ニワトリ」
「ニ、ニワトリ?」
「そう。まだ血抜きもなーんにもしてないから、うっかりしたら血まみれになっちゃうかもね」
その言葉に、主の真意を悟る。
「しかし、私は……」
「どうするかはアンタの好きにすればいいよ。一応、渡しとくだけだから」
告げたその目は、リンナがどうするかを確信しているような眼差しだった。

激しい雨の中を、ひたすら走った。
男だろうが何だろうが、そんなことはどうでもよかった。
ただ、「マリーベル」の死を見たくない。
例えそれが、太守の命令に反することであったとしても。

雨に流されていく血だまりを、じっと見つめる。
上手く、いっただろうか。
川に落ちた彼は、無事に生き延びることが出来るだろうか。
無事だと、信じたかった。
何故そこまでして助けたかったかは分からない。
それでも、二度と会うことがなくても、彼に生きていてほしかった。



アモンテール襲撃を報せに行ったアルロン伯の別邸で、かの少年を見かけた時は本当に驚いた。
まさか、と思う。
しかし、扉の隙間から僅かに見えたのは確かにマリーベルだったように思えた。
急激に速くなった鼓動を抑えようと、胸の辺りを強く掴む。
彼は、「少年」だ。
間違いなく、男なのだ。
それは分かっているのに、胸が高鳴るのを止められない。
再びその姿を見られたことが嬉しいと、心のどこかが叫んでいる。
自分は、どうかしてしまったのだろうか。
既に男だと分かっている相手に、動揺する必要などないはずなのに。

彼がベルカ王子殿下だと知って、ますますどうしていいのか分からなくなった。
守りたいという気持ちは、どんどん強くなる。
それは彼が王子だからなのか、それとも、マリーベルだからなのか。
そのどちらでもあり、そのどちらでもないような、複雑な感情だった。
リンナのために命を差し出そうとまでしてくれたベルカという1人の少年を、リンナは守りたいと願った。
彼に、付いていきたい。
この先苦難の道を歩むであろう彼を、ずっと傍で助け、守っていきたい。
いや、一番の理由はもしかしたら、ただ彼の傍にいたかったからなのかもしれない。

王子としてのベルカに、忠誠を誓うと決めた。
彼を主として、生涯をかけて守り抜こうと思った。
だが、心のどこかで何かが囁く。
王子と従者。
本当に、それだけでいいのか、と。
もっと望むものがあるのではないか、と。

共に王府への旅をしていく中で、ベルカはだんだんリンナに笑顔を見せてくれるようになった。
名を呼んで、笑いかけてくれる。
そのことが、たまらなく嬉しかった。
この笑顔を守るためなら、どんなことでも出来ると思った。

そうしてベルカと共に城に入り、気付かされてしまったのだ。
忠誠だけではない、この想いに。
ミュスカのところへ使いに行き、もう城には戻ってくるなと言われて、リンナは一瞬言葉が出なかった。
思わず分を越えて王子であるベルカの腕を力任せに掴んでしまう失態を犯すくらいに、そのショックは大きかった。
リンナの身を案じてのこととはいえ、自分を遠ざけようとするその言葉があまりに悲しかった。
ありがとうと告げたベルカの笑顔。
その笑顔に優しさとどこか寂しさを感じ、抱きしめたい衝動に駆られた。
抱きしめて、あなたを守りたいのだと、あなたの傍にいさせてほしいと、そう言ってしまいたかった。
どれほどの危険があろうと、あなたと共に在ることが自分の幸福なのだと。

だが、それが決して許されないことも知っていた。
どれほど腕の中に閉じ込めてしまいたくても、そんなことが出来るはずもない。
ベルカは王子であり、自分はただの従者でしかないのだから。
いや、それよりも一番怖かったのはきっと、ベルカに嫌われてしまうことだったのだろう。
純粋に自分を信頼してくれているベルカに、この感情を知られてしまうことが怖かったのだ。

従者としての枠を超えないように、懸命に堪えた。
傷を負ってキリコの手の者に捕まったリンナに、必死な様子で駆け寄って心配してくれたベルカが嬉しくても、触れそうなその手を何とか押し留めた。

ベルカにとっての自分が、ただの「従者」でしかなくても構わない。
このまま、ベルカの傍でずっと守っていけたらいい。
そう思っていた。
自分自身が、ベルカの足枷になっていたのだと知るまでは。
守るどころか、守られていた。
その事実に、リンナは自分の思い上がりを知ったのだ。

リンナが傍にいることが、ベルカの行動を封じている。
それを知ってなお、傍にいることを望むのはエゴでしかない。
分かっていても、出来るならベルカと共に行きたかった。
ベルカの傍で生きていくことを、許してほしかった。
だから、僅かな望みをかけて供を申し出たが、ベルカの口から出たのはホクレアを連れて逃げろという言葉だった。
ベルカがそう望むなら、リンナはそれに従う以外ない。
傍にはいられなくても、少しでもベルカの役に立てるなら、それでもいいと思った。

ベルカの頭上の異変に気付くのと、身体が走り出すのは、ほぼ同時だった。
何も考えている余裕などなかった。
先に受けていた傷が痛んで自分自身の回避が遅れたことを認識したのは、既に身体を貫かれた後だった。





ベルカが、泣いている。
涙の粒が、次から次へと流れ落ちていく。
悲しませたくなどないのに、今、自分がベルカを泣かせている。

胸が痛むと同時に、自分のために泣いてくれているベルカを嬉しいと思う。
例え従者としてだけでも、ベルカはこんなにもリンナを思ってくれている。
それだけで、十分だと思った。

ベルカを守って死ぬことに、後悔はない。
一つだけ心残りがあるとしたら、この先ベルカを守れないことだ。
危難からも悲しみからも苦しみからも、もう守ることは出来ない。
そのことが申し訳なくて、悔しかった。

せめて、この想いだけでも残したくて、ベルカの手に口付ける。
決して消えることのない、永遠の忠誠を。
そして、最期まで口には出せなかったけれど、永遠の愛情を。
この心が、少しでもベルカを守る助けになってくれればいいと願う。



──誰よりも、あなただけを想っていました
──出逢った頃から、ずっと



伝えることが出来なかった言葉を、暗く落ちていく意識の片隅で呟く。
握られた手のぬくもりが遠くなっていく中で、リンナはただ一つだけを願った。



どうか、彼の未来の先にあるものが「幸福」でありますように、と。




後書き。

初めてのリンベル。
ベルカを書いてないのでリン→ベルみたいな感じになっちゃいましたけど。
出逢いから別れまでのリンナのベルカへの想いの過程を書きたかったんですけど、微妙に失敗している感が……。
でも、書きたいことは色々詰め込んだので満足です。
例のシーンも、生きてるって信じてるからこそ書きました。



2010年6月22日 UP




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