名を知ること



薄いカーテンの向こうから、柔らかい朝の光が差し込んでくる。
薄く瞼を開けたベルカの目に、見慣れぬ天井が映った。
そうして、今自分がどこにいるのかを思い出す。

アモンテール────ホクレアと和解して、アルロン伯の屋敷を発った。
今現在の自分たちは「アルロン伯の使者」ということになっているため、宿もかなり高級なところに泊まっている。
ゆっくりと身体を起こし、小さくため息をつく。
王府に向かうのはいいのだが、またメイドの格好に着替えなければならないかと思うと憂鬱になる。
メイド服は朝食後に着ればいいだろうと、とりあえず普段の私服に着替える。

ゆっくりとした動作で着替えていると、控えめに扉を叩く音がした。
「殿下、御支度の方はお済みでしょうか。朝食の用意が出来ておりますが」
扉の向こうから聞こえるのは、何故か一緒に付いてくることになったサナの衛士だ。
一体何を思ったのか、サナに戻らずにベルカに付いてきてしまった。
自分のどこに、今までの生活を捨てるほどの価値を見出したというのだろう。
「分隊長」などと呼ばれていたくらいだから、かなり出世もしていたはずなのに。

「殿下?」
「ああ、今行く」
返事をして、止まっていた着替えの手を再び動かす。
昨夜の夕食があれだけ美味しかったのだから、朝食もかなり期待できるはずだ。
正直なところ、この状況では食事に楽しみを見出すしかない。
ベルカは急いで着替えを済ませると、勢い良く部屋を出た。

「おはようございます、殿下」
「ああ、おはよう」
そう挨拶を返し、ふと気付く。
そういえば、この衛士の名前を知らない。
もっとも、再会からこっち、名前を訊くどころではなかったのだが。

ついジッと見つめていたらしく、衛士が戸惑うように首を傾げる。
「あの……殿下、どうかなさいましたか?」
「あ、いや……何でもない」
咄嗟にそう答え、ベルカは朝食が用意されている部屋へと向かう。

朝食を取りながら、チラリと衛士の方を見る。
どうして、自分はさっき名前を訊かなかったのだろう。
「そういえばおまえの名前、何て言うんだ?」とでも軽く訊いてしまえば良かったのに。

それは多分、向こうが自分から名乗らない理由が分からないからだ。
あの衛士のことを、よく知っているというわけではない。
それでも、サナで出会い、アルロン伯別邸で再会してから、多少はこの衛士の性格を理解できたとは思う。
馬鹿みたいに真っ直ぐで真面目で真っ正直な、お人好し。
この衛士の性格から考えれば、アルロン伯別邸でベルカに付いていくと言い出したあの時に名乗っていてもおかしくないのではないか。
自ら志願したのだ、その場で名乗るのが普通ではないだろうか。
その時に名乗り忘れていても、ここまで一切口にしないのは少々不自然に思える。

何故かと考えると…………何か名乗れない事情でもあるのでは、と思ってしまうのだ。
どんな事情かは分からない。
けれど、もしもそうなのだとしたら、ベルカが名を尋ねることは衛士を困らせてしまうことになるだろう。
考え過ぎかもしれない。けれど、そうでないかもしれない。
分からないならば、向こうが名乗ってくれるのを待とう。
名前を教えてもらえないのは少し寂しいが、あのお人好しを困らせてしまうよりはいいと思う。



……と、珍しくそんな殊勝なことを考えていたのに。
現実は、実に単純なものだった。
いや、もちろん衛士────リンナが悪いわけではない。
ベルカが物知らずだったのがいけないのだ。
それでも、こうもあっさり判明してしまうと、今まで悩んでたのは何だったんだと言いたくなる。

ふう、とため息をつくと、リンナが心配そうに身を乗り出す。
「殿下、どうかなさいましたか。もしや、お身体の具合が……」
「いや、そんなんじゃねえから……それより」
言いながら、顔を上げてリンナを見る。
「改めて、よろしくな。……リンナ」
初めてその名を呼ぶと、パッとリンナの表情が明るくなる。
「は、はい! よろしくお願い致します、殿下!」
背筋を伸ばして張り切って答えるリンナに、クスリと笑ってしまう。

リンナの喜びようが微笑ましいと同時に、もったいなかったなと思う。
もし、ベルカがもっと早くリンナの名前を訊いていたら。
こんななし崩しのような形ではなく、ちゃんとした形で名を尋ねていたら。
リンナはきっと、もっと喜んだのではないだろうか。
ベルカが名前を教えてもらえないことを寂しく感じていたように、リンナも名前を訊いてもらえないことに思い悩んでいたかもしれない。
もっと早く訊いておけば、今よりも嬉しそうに笑うリンナが見られたかもしれなかったのに。



そこまで考えて、ふと思う。
どうして、そんなに自分はリンナの喜んだ顔が見たいのだろう。
リンナが嬉しそうに笑っていると、ベルカも嬉しくなる。
今まで人と接してきた中で、そんな風に思ったことなどなかった。
リンナが、ベルカに対して真っ直ぐな好意だけを向けてくるからだろうか。
ベルカの周りにいた人物で、そうやって好意を隠さずにぶつけてくる相手はそれこそ兄のヘクトルくらいだった。
自分は、リンナにヘクトルの面影を見ているのだろうか。

そう考えて、だけどそれも少し違う気がした。
はっきりとした感覚ではない。
けれど、ヘクトルに感じていた心地良さとは、また違う気がする。
安心感は確かにあるが、それだけではない。
リンナといると、妙に落ち着かない気分になることがある。
これは、ヘクトルと一緒にいたときには感じたことのない感覚だ。

リンナと一緒にいて覚える感情は、他の誰に対するそれとも違うように思える。
なら、それは何なのかと自分に問いかけてみても、明確な答えは出ない。
初めて覚える感覚なのだ、それも当然だろう。
この先ずっと共にいれば、いつか分かる日が来るのだろうか。

「殿下……?」
じっとリンナを見つめていると、リンナが戸惑った様子でベルカを呼ぶ。
「なあ、リンナ。おまえは……ずっと俺に付いてくるんだよな?」
「はい! 殿下にお許しいただける限り、どこまでもお供いたします!」
「お許しいただける限りって……じゃあ、俺が許さないって言ったら付いてこないのか?」
何気なくそう言うと、一瞬、リンナの表情が傷付いたように歪む。
しかしそれも僅かな間のことで、すぐに表情を整えたリンナは、しかし弱くなった声を零す。
「それは……殿下が、どうしても私の存在がお嫌なのでしたら、殿下のご意思が何より優先ですので……」
そう言いながらも、その拳はキツく握りしめられている。
そんなリンナの様子を見て、胸の辺りがズキリと痛んだ。

自分が言ったことの不用意さに気付き、ベルカは急いで先の発言を否定する。
「べ、別にそんな意味で言ったわけじゃねえんだ! 付いてきてほしくないとか思ってるわけじゃなくて……」
慌てるあまりに上手く弁解が出来ず、言葉を探しながら言い募る。
「おまえが嫌だなんて、これっぽっちも思ってねえよ。 ……悪い、言い方がまずかったな」
伝わっただろうかと恐る恐るリンナを見ると、幾分か安堵した様子で先程よりは表情が緩んでいた。
「いえ、とんでもございません。私の方こそ、失礼致しました」
その顔に覗いた笑みに、ベルカもまたホッと息をつく。

どうも、先程からすっかりリンナの感情に同調してしまっているような気がする。
リンナが喜ぶと、ベルカも嬉しい。
リンナが傷付くと、ベルカも辛い。
リンナが安心すると、ベルカもホッとする。
自分でも分からないくらいに、感情がリンナに左右されている。

リンナは、どうなのだろう。
ベルカの感情に、自らの感情が同調することなどあるのだろうか。
そうだったらいいのに、と思う。
何故そう思うのかなんて分からないが、リンナも同じなら嬉しいと……そう思う。

いっそ直接訊いてしまえばいいのだが、何となくそれは躊躇われた。
自分自身、正体が掴めないものをどう訊いて良いのか分からないということもある。
だが、それ以上に、はっきりとした答えを聞くことが少し怖くもあった。

今はまだ、分からないままでもいい。
時間が経つことでしか分からないこともあるだろう。
こうして一緒にいれば、いつかは────自分の中にあるこの感情の名前を知ることが出来る気がした。




後書き。

ちょっと書きながら色々と話がブレて曖昧になってしまいましたが、「名前」をメインにした話です。
リンナの名前と、ベルカの中に生まれつつある気持ちの名前。
まあ、見てる方にすれば一目瞭然なんですけどね!<気持ちの名前
まだまだくっつくには時間がかかりそうな頃のお話。



2011年3月26日 UP




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