悪夢の檻



気がつくと、たったひとり闇の中に立っていた。
周りを見渡しても、黒以外の色はひとつもなく。
自分自身の姿すら見失いそうな暗闇は、リンナを酷く不安にさせた。

「リンナ」
もう聞き慣れたその声に、勢い良く振り向く。
その姿を見止めた瞬間、色彩が拡がった。
「殿下!」
ベルカが笑っている。
それだけで、先程までの暗闇が嘘のようにリンナの周りを明るく照らした。

ベルカに駆け寄ろうと足を踏み出したその刹那。
突如現れた多数の槍が、ベルカの身体を貫く。

何が起こったのか、分からなかった。
身体は硬直したように動かず、その視線の先でベルカが倒れていく姿がスローモーションのように映った。

トサリと音を立てて倒れたベルカの身体からは、見る見るうちに赤い液体が広がっていく。
息が、出来ない。
足が震えて、立っていられない。
がくりと膝をつき、それでも必死で這うようにしてベルカの元へと向かう。

「殿下……」
ようやく辿り着いたベルカの身体は、力なく投げ出されたまま動かない。
「殿下……殿、下……どうか、どうかお返事を……殿下……!」
何度呼びかけても、こちらを見てくれることも、返事をしてくれることもない。

これは、夢だ。
きっと、悪い夢に違いない。
こんな現実など、あっていいはずがない。





「殿下!!





視界に広がったのは、薄い暗闇。
訳が分からず、荒い息もそのままに周りを見渡す。
広い室内に質の良い調度品。
そして、自分が今ベッドの上にいることを認識して、やっとリンナは今見ていたものが夢であったことを知った。

ゆっくりと、身体を起こす。
汗で夜着が肌に張り付く気持ち悪さなど、気にする余裕もなかった。

静寂の中に、キィ、と小さな音が響く。
驚いて視線をやると、僅かに開いた扉の隙間からそっと誰かが部屋を覗いている。
リンナが起きていることを見て取ったらしく、改めて扉が静かに開かれる。
「殿下……?」
そこにいたのは、夢の中で失った人だった。
我に返って急いでベッドから下りて立ち上がろうとするのを、ベルカの声が制する。
「ああ、いいから座ってろって。 ……どうかしたのか?」
扉を閉め、こちらに向かって歩きながら、ベルカが心配そうに尋ねる。
「……いえ、何でもございません」
心配をかけまいとそう答えると、ベルカが眉を寄せる。
「そんなわけないだろ。汗びっしょりな上に顔色真っ青だぞ」
ベルカの言葉に、リンナは咄嗟に顔を逸らす。
こんな薄暗い中ですら分かるほど、酷い顔色をしているのだろうか。

「……ちょっと、待ってろ」
そう言って、ベルカは踵を返して部屋を出て行った。

その姿を見送り、リンナはベッドの縁に腰掛けたままひとつため息をつく。
よりによって、ベルカにこんなみっともない姿を見られてしまうとは。
夢の恐怖と自己嫌悪で、際限なく気分が落ち込んでいきそうだ。

「リンナ」
戻ってきたベルカの手には、水の入ったグラスとハンカチが握られている。
ベルカはグラスを一旦ベッドサイドのテーブルに置くと、軽く腰を屈めてハンカチでリンナの額の汗を拭い始めた。
「で、殿下! そのようなことを……」
「いいから黙って大人しくしてろよ。……んな震えてるクセして」
止めようと伸ばしたリンナの手を制して、ベルカは丁寧な仕草でリンナの顔を拭いていく。
あまりにも予想外の展開に混乱している間に、あらかた拭き終わったらしいベルカが身体を起こす。

「ほら、水飲めよ」
ベルカがサイドテーブルの水を手に取り、リンナに差し出す。
「ありがとうございます、殿下……」
まだ混乱の残る頭で、言われるままにグラスを受け取る。
ゆっくりとグラスを傾け、ひとくち口に含む。
コクリと咽喉を鳴らして飲み込んだ水は、ゆっくりとリンナの身体と心に染み渡る。
深い息を吐き、少し落ち着きを取り戻す。

「……ちょっとは気分良くなったか?」
「はい……お手を煩わせてしまい、申し訳ございません」
「別に、そんなことはいいけど……」
会話が途切れ、沈黙が下りる。

水を半分ほど飲んだところで、リンナは俯いたままポツリと呟いた。
「夢を……見ました」
「どんな夢だ?」
このようなこと、話すべきではないと分かっている。
いくらベルカが聞いてくれようとしていても、こんな話はベルカの気分まで悪くするだけだ。
なのに、口から言葉は零れていく。
「殿下が…………亡くなられる、夢を……。私の、目の前で……殿下が、身体を貫かれ……」
「物騒な夢だな」
ベルカが小さく苦笑する様子が、伝わってくる。

「私は……殿下を、守れませんでした……。何も、出来ずに……」
鮮明すぎたその夢は再びリンナの意識を苛み、身体が震えだす。
あの夢が現実にならない保証がどこにある?
この先、どんな事態が待っているか分からない。
そんな中で、自分は本当にベルカを守りきれるのだろうか。

突然、手に持っていたグラスを取り上げられた。
驚いて顔を上げると、ベルカは困っているような、怒っているような、判断がつきかねる表情をしていた。
ベルカはサイドテーブルに再びグラスを置く。
と、間を置かずにリンナは頭をグイと引っ張られるのを感じた。
次の瞬間には、もう視界が塞がれていた。
いや、塞がれているのではない。
近すぎて、視界が布地で覆われてしまっただけだ。

服越しに頬に感じる温もりに、ベルカに抱きこまれていることを悟る。
「で、殿下……!?
身を引こうとするが、ベルカはギュッとリンナの頭を抱え込んだまま離さない。

トクン、トクン……と、ベルカの鼓動が伝わってくる。
「……生きてるだろ?」
抱きしめたまま、ベルカが呟く。
「俺は生きてるよ。サナの時もアルロンの屋敷でも、おまえが助けてくれたからな」
ベルカの声が、先程の水のようにリンナの中に染み込んでいく。
「夢は夢だ、現実じゃない。大丈夫だ。……それとも、俺が信じられねーのか?」
「いえ……いえ! そのようなことは……!」
「なら、そんな怯えんなよ。だいたい、俺のしぶとさ甘く見んなよ。崖から落ちても死ななかったんだぜ?」
わざと冗談めかして、ベルカが笑う。

抱き込まれていた腕が外され、ベルカを見上げる。
「ま、それでも不安なら、俺が『おまじない』かけてやるよ」
ベルカは軽くリンナの前髪を払い、その両手がリンナの両頬にかかる。
そうして、額に柔らかい感触を覚えた数秒後、それがベルカの唇であることを理解する。

「で、で、殿下っ……!? な、何を……!?
思わず後ろに手を付きながら身を引く。
一気に顔の温度と心拍数が上昇し始める。
そんなリンナの反応が面白かったのか、ベルカは悪戯を成功させた子供のような笑みを浮かべている。
「『良い夢を見られるおまじない』だ。ガキの頃に読んだ本に載ってたヤツだから、効くか分かんねえけどな」
ニッと笑うベルカを、半ばパニック状態のまま呆然と見つめる。

「じゃあ、俺は部屋に戻るからな。ちゃんと寝ろよ」
軽く手を振って、ベルカはくるりと身体を反転させて扉の方へと歩いていく。
「殿下!」
立ち上がりながら呼ぶと、ベルカが立ち止まって振り返る。
「その……ありがとうございました」
「ああ。……どうせなら、今度は俺が美味いメシを腹いっぱい食ってる夢でも見てくれよ」
おどけたようにそう告げるベルカに、リンナもようやく微笑みを乗せて「はい」と答える。

おやすみ、と言葉を残して閉じられた扉をしばらく見つめた後、リンナは再びベッドに腰掛ける。
いつの間にか、身体の震えは止まっていた。



あの夢は、きっとリンナの心の内に巣食う不安の現われだ。
ベルカをいつか失ってしまうのではないかという、不安。
けれど、ベルカの言う通りあれは夢でしかない。
あの夢を、決して現実にはしない。
そのために、リンナは今ここにいるのだ。

まだ温もりが残る気がする額に、そっと触れる。
むしろ自分がベルカに守られてしまっているな、とリンナは苦笑する。
そして、それほどにベルカが自分を気にかけてくれいることを、嬉しいとも思う。

もう一度、眠ろう。
今度は、きっともうあんな夢は見ない。
願わくは、ベルカがずっと幸せに笑っていられる夢を。
そして出来ることならば、それを傍で見守っているのが自分である夢を。
それは身の程知らずな願いかもしれないけれど、せめて夢の中でだけは許されればいいと祈る。



彼の人の優しい笑顔を思いながら、リンナはゆっくりと目を閉じた。




後書き。

ありがちな夢ネタではありますが、思いついたら書かずにはいられませんでした。
要は、リンナの頭を抱き込むベルカと、おでこチューするベルカを書きたかっただけのような気もしますが。
後でベルカも部屋に帰ってからちょっと照れてればいい。
きっとベルカが檻をぶっ壊したこの後は、リンナも幸せな夢を見られたと思います。



2010年12月26日 UP




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