従者の務め



「ほら、見ろよリンナ!」
捕まえた魚を掴んで、リンナに見せてやる。
まだピチピチと跳ねている魚は気を抜くと落としてしまいそうで、グッと手に力を篭める。
「大きな魚ですね、獲るのが大変だったでしょう」
「これくらい、俺だって出来るぞ」
笑顔で応えてくれるリンナが嬉しくて、ついはしゃいでしまう。

今、目の前にリンナがいる。
そのことが夢のようで、けれどこれが現実だということを今はちゃんと知っている。
あの日から、浅い眠りの中で何度も夢を見た。
リンナが戻ってくる夢を。リンナと共に笑う夢を。
そうして目覚めては、それが全部夢だったと知って絶望し、新しい傷が刻まれていく。
そんな日々の繰り返しだった。
先ほど荷車の上で目覚めたときにも、また夢を見たのかと呆然とした。
けれど、リンナはそこにいた。間違いなく、手の届くところに。

リンナが笑ってくれることが嬉しかった。
少し低いその声で、「殿下」と呼んでくれることが嬉しかった。
だから、殊更ベルカもリンナに笑いかけ、その名を呼んだ。
リンナも同じように喜んでくれているといい、と思いながら。

それから更に何匹か獲った後、新月たちが焼いてくれている間に着てしまおうと服を置いてあるところへ向かう。
川に浸かっていたのは足だけだが、魚を獲るのにかなり動き回ったせいで全身あちこち濡れている。
髪からは雫がポタポタと落ち、更に肩や胸を濡らしていく。
先に何かで身体を拭かないと、などと考えつつ辿り着くと、そこには先にリンナがいた。
「動き回って大丈夫なのか?」
「はい、激しく動かなければ問題ありません」
そう答えるリンナの様子は本当に平気そうで、ベルカはホッと息をつく。

「殿下、失礼致します」
声をかけられたかと思うと、ホクレアから借りたのだろうか、タオル代わりの大きな布がふわりとかけられる。
そのままリンナはベルカの後ろに回り、髪を拭き始めた。
「お、おい、リンナ、自分で拭けるから……」
「いえ、私にお世話させてください」
言いながら、手を休めることなく髪の一筋一筋まで丁寧に布を滑らせていく。
どうにも落ち着かなくてそわそわしていると、手の動きが緩められる。
「……ご不快、でしょうか……」
不安そうな声が耳を打ち、ベルカは即座に否定する。
「そんなんじゃねーよ。何かこう、世話されんのに、ちょっと慣れないだけだから」
ありがとな、と告げると、安堵の息が漏れたのが分かる。

カミーノにいる間、コールに着替えなどの世話をされているときも最初は落ち着かなかった。
城にいるときはずっと自分でやっていたことを、他人にやってもらうことに慣れなかった。
それでも、嫌がるベルカに根気良く世話を続けたコールのおかげと言おうか、以前よりはかなり慣れてきたように思う。
今はもう、コールに着替えを手伝われるのにもそんなに抵抗はない。

けれど、今こうしてリンナに世話をされているとどうにも落ち着かない。
それはたぶん、相手が変わったというだけの理由ではない。
リンナの手が布越しに触れるたび、鼓動が速さを増していく気がする。

髪と背中を拭き終わったらしいリンナが、今度は前に回ってベルカの身体を優しく拭いていく。
「ちょっ……くすぐってえ……!」
「申し訳ありません、しばしご辛抱ください……」
ゴシゴシと拭くのではなく、撫でるように柔らかい仕草で拭いていくため、余計にくすぐったい。
それに、何というかこう、跪かれて足などを拭かれていると妙な気分になってくる。

「殿下、申し訳ありませんが、そちらの岩に座っていただけますか」
リンナが示した岩に、素直にちょこんと座る。
するとリンナがベルカの足を持ち上げ、足の指の間まで丁寧に水分を拭き取っていく。
もちろんリンナは純粋な気持ちでしてくれているのは分かっているが、それでも意識してしまう。
支えているリンナの手の平の温度が、足裏にじんわりと沁み込んでいく感覚がする。
その体温がいやに熱く感じられるのは、今まで水に浸かっていて足が冷えているせいだろうか。

心臓の鼓動の音がうるさい。
つい先刻まで水に入っていたはずなのに、何だか身体が熱い気がする。
その理由を、ベルカは知っている。

リンナに触れられているからだ。
こんなにも近くにいて、リンナがベルカに触れている。
そのことが、ベルカの心と身体を高揚させている。



魚の焼ける良い匂いが漂ってきて、ベルカは新月たちのいる方へチラリと視線を向ける。
新月たちやコールには、いくら感謝してもし足りない。
もしもコールの進言がなければ、新月たちが背中を押してくれなければ。
ベルカは自分の心を殺したまま、リンナの救出には向かわなかっただろう。
リンナの誇れる王子であることに固執して、心を永遠に殺してしまうところだった。

あのとき、新月たちが下がった後、コールが静かな口調で言ったのだ。
『殿下。自らを幸福に出来ない王が、民を、国を、幸福に出来るとお思いですか』
声音こそ穏やかだったが、表情は真剣だった。
「王子」ではなく「王」と表現したコールの意図は分かりかねたが、口を挟む気にはなれなかった。
『心が死んだ王など、民にとっては不幸でしかありません』
自分ひとりの心を犠牲にすることで民を救えるなどと考えるな、と、思い上がりを指摘された気分だった。
実際、思い上がっていたのかもしれない。
自分が耐えれば、頑張れば……民を救えると。
こんなにもたくさんの人たちに助けられてきたのに、彼らを信じて頼ることをしなかった。
リンナへの想いを私情だと切り捨てるのではなく、「力を貸して欲しい」と、そう言えば良かったのだと今なら分かる。
『殿下の悲しみは、我々の悲しみでもあることを……お忘れにならないでください』
どこか儚くも見える微笑みを浮かべたコールを見て、その思いに何も言えなくなった。

触れる体温を強く意識しながら、思う。
もしかしたら、もうこの温もりを二度と感じられない未来もあったかもしれないのだ。
そのことを思うと、鋭い針を何本も突き刺したかのように胸が痛む。
今ここでこうしていられることが、何にも代えがたい幸せなのだと感じる。

ベルカはたまらない気持ちになって、そっと両手を伸ばしてリンナの頬を包む。
足を拭くのに下を向いていたリンナが、戸惑ったように顔を上げた。
「殿下?」
ほんの少し頬を染めて見上げているリンナの額に、一瞬だけ口付けた。
「生きててくれて……ありがとな……」
ポツリと、そう呟く。

突然の口付けに少しうろたえていたリンナだったが、そのベルカの言葉を聞いて小さく微笑む。
「私の方こそ……迎えに来てくださり、ありがとうございます」
囁くと、リンナはほんの少し下がり、手の上に乗せていたベルカの足の甲に口付けを落とした。

まさかそこに来るとは予想しておらず、顔に急激に血液が集まっていく。
「おっ……おまえ……! あ、あ、足に……!?
「申し訳ありません……お嫌でしたか……?」
しょぼんという形容が似合いそうな様子を見せるリンナに、ベルカは首を振る。
「い、嫌とかじゃねーけど……足にされるとか初めてで、その、びっくりしたっつーか……」
「私も、足に口付けたのは初めてです」
「……初めてじゃなかったら、そっちのが嫌だ」
リンナが他の誰かの足に口付ける光景など、想像しただけでムカムカする。
もっとも、これは足に限ったことではないが。

リンナは嬉しそうに微笑むと、立ち上がってコルセットと尼僧服を手に取る。
「そろそろ魚も焼けているようですし、こちらをお召しになって彼らのところへ向かいましょう」
お手伝いいたします、と、ベルカを敷いた布の上に立ち上がらせて丁寧な仕草で着せていく。

尼僧服の背中のボタンを留めながら、リンナが殿下、と呼びかけてくる。
「こうして、殿下のお召し替えのお手伝いが出来ることが、私には望外の幸福です」
生きていたからこそ、もう一度会えたからこそ、叶ったこと。
「出来ますれば、これからもずっと私に殿下のお世話をさせていただきたいと……そう思います」
「……おまえがいるのに、他のヤツにやってもらう理由なんてねえよ」
そう告げると、一瞬、手が止まった。
「ありがとうございます、殿下……」
その声が、僅かに震えているように聞こえた。



着替えを終え、リンナが片付けを終えるのを待って、空いているその手を取った。
「行こうぜ、リンナ!」
めいっぱいの笑顔を向けて手を引くと、リンナからも幸せそうな笑顔が返ってきた。
「はい、殿下!」
答えるその声に、迷いの色はない。



もう二度をこの手を離さないと誓おう。
王子としても、ただの『ベルカ』としても、リンナは決して失くせない存在なのだから。




後書き。

ようやく再会して照れ照れしてるベルカとリンナを見ていると、つい書きたくなりました。
まあ何といいますか、ベルカの髪と身体を拭くリンナとかベルカの足の甲に口付けるリンナとかが書きたくてですね。
あの別れの前よりも、主従としても個人としても距離が近づいたリンベルが! 書きたくて!
今後はベルカとリンナも存分にいちゃつけばいいと思います!



2011年11月13日 UP




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