願う距離



「あーもう、本当にあるのかよ!」
何冊目とも分からない本を置きながら、ベルカがげんなりといった様子でぼやく。
「ご伝言をなさったからには、あるはずですが……」
本を探す手は止めぬまま、リンナは困ったように返す。

ヘクトルが傭兵を通じてベルカに伝えた「エロ本」とやらを探しに、ヘクトルの書斎に入った。
オルセリートやヘクトルの真意などについて多少話した後は、目的の書物を探すことに集中してはいるのだが……なかなか見つからない。
何しろ、さすがは王太子の書斎だけあって、蔵書の数は相当数に上る。
この中から、たった3冊を見つけるのだ。しかも、タイトルすら分からない本を。
時間がかかるのは、当然といえば当然だろう。

先程ベルカが見つけた「なんかエロい挿絵がついた本」とやらも、結局は違うジャンルの本だったようだ。
この調子で本当に今日中に見つかるのだろうか……と、ベルカでなくてもため息がつきたくなるだろう。

とにかく、あまりベルカを疲れさせたくない。
ここは自分が何とか頑張って見つけるしかないと、リンナは次の本を手に取る。
たかがエロ本、と言ってしまえばそれまでかもしれない。
本来なら、こんなことに時間を費やしている場合ではないのかもしれない。
けれど、ただでさえオルセリートやキリコのことなどで、ベルカも相当心労が溜まっているはずだ。
城に戻ってからは特に緊張の連続で、本人に自覚はなくても精神的に疲れているだろう。
だから、せめてこういった娯楽で少しは気を緩めてほしかった。

本を適当なところで開いてざっと目を通したところで、リンナは気付いた。
ヘクトルの蔵書の1冊は、これではないだろうか。
そう思い、パラパラとページをめくる。
確か、「姫君が娼婦に化けて牢獄に入れられる話」と言っていた。
ざっと斜め読みをしてみると、それらしい描写が見受けられた。
ふと、挿絵のページで手が止まった。
薄暗い牢に繋がれている、長い黒髪の姫君。
その姿はどこか儚くも見え、同時に瞳の中に確固たる強さを秘めているようにも見えた。
それが一瞬別の誰かに重なり、ドキリとする。
何かに操られたかのようにページをめくると、牢に現れた男達により、いわゆる、エロ本の要とも言えるシーンに移行していく。

「……おい、リンナ」
突然声をかけられ、心臓が止まる思いがした。
「あ、で、殿下!」
パタン!と勢い良く本を閉じると、ベルカが不審そうな目でその本に視線を落とす。
僅かな気まずい沈黙の後、ベルカがサッとリンナの手から件の本を取り上げた。
「あっ、その、殿下、それは……!」
リンナが止める間もなく、ベルカはリンナが読んでいた辺りを開いてページをめくっていく。
そうして、どうやら内容が分かったらしく、本を閉じてリンナをじっと見てため息をついた。

「……さっきからやたら真剣に読んでると思ったら……おまえ、意外とエロいんだな……」
「い、いえっ! そ、それは決してそのような……!」
慌てすぎて、まともな言い訳にもならない。
「いいよ、別に。おまえだって男なんだし、さ」
「ち、違うんです! 私はただ──」
そこまで言いかけて、ハッと口を閉じる。
「『ただ』?」
「あ、いえ、その、何でもございません……」
視線をあちこちに泳がせながら、何とか誤魔化そうと試みる。
「……ふぅん、まあ、いいけどな。これがここにあったんなら、他の2冊もこの辺だろ」
どこか不機嫌そうにそう言うと、ベルカはその本をリンナに押し付けて傍の棚を探し始めた。

機嫌を損ねてしまったことに落胆しつつ、それでも何とか誤魔化せたことに息をつく。
危うく、勢いでとんでもないことを口走ってしまうところだった。
ついさっき、姫君の設定がベルカのようだと零した時ですら、ベルカは相当に嫌そうだった。
もっとも、ベルカにしてみればそれは当たり前の反応だろう。
そこに加え、もしも実際にその姫君にマリーベル────ベルカを重ねてあんなシーンを読んでしまったなどと知れようものなら考えるだけで恐ろしい。
嫌がられるくらいでは済まない。
嫌悪、軽蔑。
そんな感情がベルカから向けられたら、リンナはおそらく立ち直れなくなる。

いや、そうなっても自業自得なのだろう。
いくら雰囲気が似ていたからといってあんな場面でベルカを重ねて読むなど、無礼どころの話ではない。
自己嫌悪のあまり、知らずため息が出る。
一番大切な人を汚すような真似をするなど、男の風上にもおけない。
そして、そんな風に反省しきりだというのに、未だ重ねたベルカの残像を頭の中から追い出せない自分がどうしようもない人間に思えた。

誰より愛しい、大事な人。
叶うことなど望まない。ただ、守りたい。
そう願う気持ちは紛れもなく真実だ。

なのに、どこかで、手を伸ばしたい、触れたいと焦がれる自分がいる。
その瞳が自分だけを見つめてくれたら、どんなに幸せだろう。
あの笑顔を独占できたら、どれほど満たされるだろう。
肌の温もりに触れられたなら、どんなにか────

リンナは慌てたように首を振る。
一体、自分は何を考えているのか。
ベルカとリンナは、王子と従者だ。
例えリンナがそれだけでは済まない感情を持っていたとしても、ベルカにとってはリンナは「従者」でしかない。
そしてそれは当たり前のことで、変えられるはずもなく、変えようとすることは許されない。

身の程を弁えることを、忘れてはならない。
ベルカが優しいからといって、決して距離を見誤ってはならないのだ。



「……リンナ?」
ふと気付くと、ベルカが少し心配そうな顔でリンナを覗き込んでいた。
「どうしたんだ? ……別に、怒ってるわけじゃねえんだし、そんな顔すんなよ」
困ったように声をかけるベルカを見て、リンナは戸惑う。
一体今、自分はどんな顔をしていたのだろう。
先程まで不機嫌そうだったベルカが思わず心配してしまうくらい、酷い顔をしていたのだろうか。

「いえ……申し訳ありません、殿下」
ベルカに気を遣わせてしまったことを詫びると、ベルカが小さく苦笑するのが分かった。
「別に謝ることじゃないだろ。ほら、情けない顔すんなって」
ペチ、とリンナの額を軽く叩いてベルカが笑う。
「はい、殿下」
どうやら機嫌が直っているらしいベルカに安堵したことに加え、自分を気遣ってくれたことが嬉しくて、リンナはようやく表情を綻ばせた。

途端にベルカは目を丸くし、次いで僅かに赤みが差した顔をパッと背けてしまう。
「殿下?」
どうしたのだろうとベルカの様子を伺おうとすると、今度は背を向けられてしまった。
「あの、どうかされたのですか? ひょっとしてご体調が優れないのでは……!」
少し顔が赤いと思ったのは熱でもあるからなのではと、若干の焦りを含ませて尋ねる。
「別にそんなんじゃねーから! ほら、残りのヤツも見つかったし、もう行こうぜ」
速い口調でそう言うと、ベルカはさっさと歩き出してしまう。

すぐに後を追いかけ、ベルカが持っていた本を自分の手に引き取る。
「殿下、本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫だって! おまえ、結構過保護だな」
「そ、そうでしょうか?」
もしかして迷惑になっているのだろうかと、ヒヤリとする。
「何だよ、自覚なかったのか?……でも、心配してくれてありがとな」
振り返って笑うベルカを見て、ホッと息をつく。



そうだ、こうして笑いかけてもらえる距離にいられることに何の不満があるだろう。
触れられなくてもいい。
ベルカの傍で、この笑顔を見ながら守っていけたら十分に幸せのはずだ。

望みというものは一つ叶うと、どんどん増長してしまうものらしい。
共に行くことを許してくれた。
リンナの名を呼んでくれた。
笑いかけてくれた。
そして今、こうして傍にいさせてくれている。
こんなにたくさんの望みを叶えてもらって、なおそれ以上を望むのは身勝手というものだろう。



「殿下……ありがとうございます」
「ん? 何がだ?」
何のことだか分からない、といった風にベルカが首を傾げる。
「いえ、ふと……そう思ったもので」
「何だよそれ。変なヤツだな」
言いながらも、ベルカはどこか楽しそうにリンナを見ている。

そんなベルカを見るだけで、とても嬉しい気持ちになれた。
この気持ちを忘れないようにしよう、と思う。
心の一番根源にある望みは、きっとたった一つだ。
この先自分の心を見失いそうになった時は、この笑顔を思い出そう。

そう心に決めて、リンナは再び歩き出したベルカに寄り添うように足を踏み出した。




後書き。

リンナだって男なんだから好きな子のアレコレを考えちゃうことだってあるよね、っていう感じで。
ベルカはベルカで、リンナが悩んでる間、こっちも何やら内心でぐるぐる考えてたようですが。
リンナがちょっと鈍すぎる……赤くなった理由なんて考えるまでもなかろうに……。



2010年8月8日 UP




小説 TOP
SILENT EDEN TOP