心の狭間



パタン、と扉の閉まる音が響いたのを最後に、静寂が部屋を満たす。
明かりが落とされた部屋の中は薄暗闇に閉ざされ、かろうじて窓から入り込む月光の欠片だけが僅かに中を照らしていた。

身じろぎしようとして、身体に走る痛みに顔が歪む。
つい先ほど医術師から与えられた薬が効き出すには、まだ少し時間がかかりそうだ。
ただ、その痛みのおかげで、幾分ぼんやりとはしているものの今は意識が保てている。
目を閉じると、その瞼に浮かぶ人はただ1人だ。
ベルカは今、どうしているだろう。
どうやら無事にエーコと合流して王府から脱出は出来たようだが、当然追っ手はかかっているはずだ。
今のところ見つかっていないようではあるが、そう安心もしていられない状況だろう。
それでも、ベルカならばきっとホクレア達の元へと辿り着いてくれていると信じたかった。

ベルカが大変な今この時に、ベッドから動くことすら出来ない自分が不甲斐なくて仕方がなかった。
いや、むしろ今はベルカの足を引っ張りかねない状況だ。
もしも、ラーゲンの例の薬を使われたら……そう思うと、焦りと不安だけがどんどん膨れ上がる。
リンナ自身がどうなるかということよりも、それによってベルカを深く傷つけてしまうことが恐ろしかった。

そうなる前に、と、自らの命を断とうとした。
けれど、それはミュスカに止められてしまった。
何故ミュスカがここにいたのかは分からないが、その時のミュスカの言葉が頭から離れない。



『あなたは、へいみんといっしょにいなきゃだめなの!』



今もなお、それを望んでもいいのだろうか。
一度は諦めた、ベルカと共に生きていくという願いを、今また抱いても許されるだろうか。

ベルカに会いたかった。
これからのことだとか考えるべきことは山ほどあるというのに、何も考えられない。
ただ、ベルカに会いたい。
それが叶わないことが、傷の痛みよりもずっと辛かった。



ふと、小さく扉の開く音が聞こえた。
医術師が戻ってきたのだろうか。
そう思い、開いたリンナの目に黒い人影が映る。
薄い暗闇の中でその人物を判別できずにいると、その影はリンナにゆっくりと近付き、声をかけた。

「身体の具合はどうだ、オルハルディ」
その声には、聞き覚えがあった。
「キ、リコ……卿?」
「そうだ」
短く答えると、キリコは先日この場所を訪ねた際と同じ場所に腰を下ろす。

何故こんな時間に……と不審に思ったのが表情に出たのだろうか、キリコが小さく笑う。
「今ならおまえの意識があるのではないかと思ってな。そうでなければ、医術師にわざわざ立ち会ってもらわねばならない」
つまり、他の誰かを立ち会わせたくない話がしたいということなのだろう。

「先日話した件、考えてみたか? もっとも、その状態では考えることすら億劫かもしれないが」
確かにキリコの言う通り、まともに熟考など出来る状態ではない。
治療のための薬で眠っている時間の方が多い上、今のように意識がある時も常に頭の中に靄がかかったような状態なのだ。
それでも、キリコの「先日話した件」とやらに頷くわけにはいかないことくらいは分かる。
エーコと共に王府を脱出したベルカは、ホクレアの元へと向かった。
その先でベルカが何をしようとするのか、それはリンナには分からない。
だが、ベルカがそう望むならともかく、こんな形でベルカを城に連れ戻させるなどしてはならない。

そんなリンナの考えを、おそらくキリコは分かって言っているのだろう。
薄い笑みを浮かべたまま、リンナを見下ろしている。

「オルハルディ、おまえのベルカ王子への忠誠心の強さは知っている。
 だからこそ、ベルカ王子に穏やかに、幸せに生きてほしいとは思わないのか?」
『幸せに生きてほしい』。
そんなこと、言われるまでもない。
リンナは常に、ベルカの幸せだけを望んでいる。
「城にお戻りいただければ、何も心配などすることなく平和に暮らしていただける」
そんなわけはない。
少なくとも、オルセリートがホクレアを弾圧、迫害するような政策を止めない限り、ベルカが何も心配せずにいられるなどということは有り得ない。

リンナの視線でそれに気付いたのか、キリコは小さくため息をつく。
僅かな沈黙の後にキリコに浮かんだ笑みに、ゾクリと何かが背筋を這った。
「オルハルディ」
その呼びかけすらも、先程までとはどこか違う響きがある。
「おまえは、どうだ? おまえが望むものは何だ?」
リンナが望むもの……それは、ベルカの幸せ。
「血なまぐさい争いなどとは無縁の静かな宮で、殿下と共に、日々を穏やかに暮らしたくはないか?」
ベルカと共に、という言葉がリンナの意識を捕らえる。
「おまえがベルカ王子を説得してくれるなら、傷が癒えた後、おまえも解放して殿下に付いていくことを許してもいい」
甘い毒のような声が、耳から入り込んでくる。
「誰にも邪魔されることなく、殿下と暖かい陽だまりの中で静かに暮らす……そんな生活を、おまえは望んではいないのか?」
まるで、リンナの心の底にある恋情を見透かしたかのような言葉に、眩暈のような感覚が襲う。



それは、あまりにも甘美な誘惑だった。
どれほど望んでも叶わないはずの未来。
それを、キリコは用意してくれると言うのだ。



「もし万が一、ベルカ王子が王位に就くことになったら、おまえはそれで良いのか?」
告げられた言葉の意味が分からず、リンナはキリコを見返す。
「ベルカ殿下が王になれば、当然、それに伴う義務も負うことになる。……世継ぎを設けるという義務をな」
世継ぎ。
それがどういうことを意味するのか……それは至極簡単だ。
「つまり、ベルカ殿下は后を娶り、子を成す義務が生まれるわけだ」
分かっている。
そんなことは、ずっと以前から覚悟していた。
「おまえは、それで良いのか。殿下がご結婚され女性を愛するのを、見続けるのか?」
ベルカが女性を愛するのは、当然のことだ。
自分の、ベルカへの想いの方が異質なのだから。
「本当に、それでおまえは……満足なのか」
『満足です』という答え以外の、どんな返事がリンナに許されているというのだろう。
それ以外の答えなど、口に出せるはずもない。

「……オルセリート様が王となれば、ベルカ殿下はある程度の自由を許されるはずだ。
 オルセリート様に子がお生まれになれば、ベルカ殿下がご結婚されずともさほど問題にならずに済む」
「な……に、を」
何を言いたいのか、という言葉は上手く声にならなかった。
自分自身ですら、それは愚問だろうということは分かる。
キリコが言いたいことは、最初から一つだけなのだから。



意識にかかる靄が、いっそう酷くなる。
薬が効いてきたのかもしれない。
「ああ……辛そうだな、大丈夫か?」
全く心のこもっていない口調で、キリコが笑みを浮かべたままリンナを覗き込む。

「薬が効いてきたか」
そう呟くキリコの声が、随分と遠くに感じる。
同時に、何か布のようなものが目に被せられ、視界が黒く染まる。

空気の動く音すら聞こえそうな静寂が、場を支配する。
シンとした空気の中で、囁く声が聞こえた気がした。



『リンナ』



遠い、声。
けれど、自分のことを「リンナ」と呼んでくれるこの声は────。



「で……ん、か……?」
『リンナ、大丈夫か?』
「は、い……殿下……」
朦朧とした意識の中で、必死に答える。

『リンナ、早く、迎えに来てくれよ』
行きたい。行けるものなら、今すぐに。

『おまえに会いたいよ』
望んでくれるのなら、どこへでも会いに行きたい。

『おまえがいてくれればいい。2人でいられれば、どこでだっていいよ』
自分だって、ベルカがいてくれればそれでいい。

『一緒に暮らそう。他には何にも要らない』

それは、ほんの微かな、違和感。

『おまえが好きだよ。おまえが俺と一緒に生きてくれるなら、他はどうだって構わない』

違う。

ベルカは決して、他の誰かをどうでも良いなどとは思わない。
だからこそ、ベルカは今も苦しんでいるのだから。
オルセリートもホクレアも守りたくて、ベルカは傷付きながら懸命に歩き続けている。

重い腕を動かし、右手の爪を強く左腕に突き立てた。
痛みが走ると同時に、沈みかけていた意識が浮かび上がってくる。
震える手で視界を覆っていた布を取り去ると、そこには少し驚いたような顔をしたキリコがいた。

「……拙い声色でも、今の状態ならば効くかと思ったのだがな」
クスリと笑って、キリコはリンナを見下ろす。
「まあ、仕方がない。今夜はこれで引くとしよう」
椅子から立ち上がり、キリコはリンナの前髪に軽く指を絡ませる。

「だが、オルハルディ。今夜おまえに言ったことは真実だ。
 ベルカ殿下やおまえが幸福を得るためにすべきことを、よく考えてみることだ」
そう言い残し、去っていくキリコの背を見送る。



惑わされてはいけない。
キリコはあくまで、自分達の利益を求めているだけだ。
それは、十分すぎるほどに分かっている。

それでも、キリコの言葉は消えない。
リンナの内にあるエゴとも言える望みを、キリコは引きずり出していった。
『好きだ』と、『リンナがいればそれだけでいい』と、そう告げた声を、嘘だと分かっていても信じてしまいたくなる。
重い怪我と薬でどうかしてしまっているだけだと、思いたかった。

傷ではなく、心のずっと奥深くが鈍く痛む。
早く朝が来てほしい。
そうすれば、この闇も痛みも全て消えてなくなるかもしれない。



光に満ちた笑顔を思いながら、リンナの意識は闇に溶けていった。




後書き。

ゼロサム8月号を何度も読んでたら、降って湧いてきたネタです。
コミックス出るまで自重しようかとも思ったんですが、話が進むとこのネタねじ込む隙間なくなっちゃってお蔵入りになっちゃうかもと思って自重しませんでした(笑)
もし、来月号からの展開で矛盾いっぱい出てきても、そこはひとつパラレルワールドということで……。



2010年7月4日 UP




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