誓い



全身の震えが止まらない。
一番恐れていたことが、目の前で起こっている。
こうなることが怖かったから。
だから、自分の気持ちに嘘を吐いてまで、リンナを遠ざけようとしていたのに。





初めてリンナに会った時の印象は、決して良いものではなかった。
追われる立場と追う立場だったのだから、当然といえば当然だろう。
その上、娼婦に化けたベルカを買いに来る、などと告げていったのだ。
いくらウィッグを被ってドレスを着ているからといって──化粧もムリヤリ施されてしまったがそれはともかく──ベルカは紛れもなく男なのだ。
周りに本物の女がいくらでもいるのに、よりによってベルカに目を付けるなど信じられないバカだと思った。

エーコを助けるために正体を晒し、雨の中を逃げた。
袋小路に追い詰められ、斬り付けられてそのまま川に落ちる。
助かった後、リュックの中から大量のニワトリを見つけた時、ようやくリンナの意図を悟ることが出来た。
同時に、何故自分を助けたのかという疑問が脳裏に浮かぶ。
命令を無視して逃がしたことがバレれば、間違いなくタダでは済まないはずだ。
下手をすると、処刑などということだって有り得るかもしれない。
おまけに自分は、身を隠すためとはいえ、彼を騙していたのだ。
普通なら騙されたことに怒るだろう。
なのに、何故彼は危険を冒してまで助けてくれたのか。
分からないまま、けれどもう二度と会うことはないのだろうと首を振る。
自分にはやらなければならないことがあるのだから、と、この一件のことはそれで忘れようとした。

だが、まるでそれを拒むかのように再会は間もなく訪れた。
自分をマリーベルと呼んだその声に、心底驚いた。
まさか、こんなところで再会するなど一体誰が想像するだろう。
それだけではなく、またもリンナがベルカを救ったことにも驚いたのだ。
一度だけではなく、二度も。
身代わりに自らの身体に矢を受けてまで、ベルカを助けてくれた。
どうしてそこまでしてくれるのか、全く分からなかった。
単にお人好しというだけで、ここまで出来るものなのだろうか?

王子だということが知れた後の、リンナの態度にも戸惑った。
踊り子から生まれた出来損ないの厄介者。
ずっとそんな風に言われて育ってきた。
母やじいや、ヘクトルなどベルカに優しい人達はいたが、およそちゃんとした王子として扱われることなどなかったのだ。
なのに、そんな自分に対してリンナは本心から敬意を見せていた。
そんな価値は、自分にはないのに。

しかし、だからこそ、ベルカはリンナを助けなければと思ったのだ。
王子として接してくれるのならば、自分も王子として振舞わなければならない。
命をかけてベルカを救おうとしてくれた気持ちに、応えるために。
自分は「王子」なのだと、この時、初めて自覚したような気がした。

「王子」として。
この時点までは、確かにそれだけだったのだと思う。
リンナという存在に好意は持っていたが、あくまで単なる好意の域を脱してはいなかった。
その気持ちに変化が訪れたのが一体いつだったのか、今はもう分からない。
最初は、ただ情が移っただけだと思っていた。いや、思いたかった。
けれど、王府までの道のりを共にし、城に戻ってからも2人で行動していく中で、確かにベルカの心は少しずつ変化していったのだ。

ミュスカへの使いの後で、リンナとエーコをそのまま戻ってこさせないようにすることは、城に戻る時から考えていたことだった。
城にいる時間が長くなればなるほど、危険は加速度を増す。
嘘がバレて、自分が殺されたり幽閉されたりするくらいならまだいい。
けれど、本来無関係の2人がベルカのために殺されることだけは耐えられなかった。

だから、城を離れさせようと思っていたのに。
何故か、雪華宮レギア・ニクスに戻ってからも、それを口にするのをためらった。
言ってしまえば、もう後戻りは出来なくなる。
リンナが、自分の傍からいなくなる。
オルセリートの真意も分からない中、1人になるのが怖いという気持ちもあっただろう。
けれど、それだけではないこともこの時には既に知っていた。

リンナが自分を見て笑う顔を見られなくなるのが、辛かった。
その柔らかい声がベルカを呼ぶ声を聞けなくなることが、悲しかった。

それでも……例え二度と会えなくても。
生きていてくれるならそれでいいと、無理やり自分を納得させた。
どこかで、幸せに暮らしてくれればいい。
自分のせいでリンナが傷付くのを見るよりはその方がずっとマシだ。
傍にいてほしいと叫ぶ心に必死で蓋をして、ようやく使いのことを告げることが出来た。

リンナがいつになく感情的にベルカの腕を掴んだ時は驚いたが、どこか嬉しくもあった。
それほどにリンナは自分を慕ってくれているのだと思えたから。
それが、「王子殿下への忠誠心」でしか有り得ないと分かっていても。

収容所の件を加えてリンナ達を使いに出し、それでひとまずは終わるはずだった。
城に戻ってきた目的も…………リンナへのささやかな恋心も。
けれど、そんなベルカの思いはあっさりと砕かれてしまった。
横転した馬車を呆然と見つめて、ベルカはその場を動けなくなってしまった。

塔に閉じ込められている間、心を占めたのは後悔だった。
どうしてすぐに城の外に逃がしてやらなかったのだろう。
リンナとエーコが傷付いたのは、自分のせいだ。
少しでも長くリンナに傍にいてほしかった。
そんな無意識の想いが起こさせた行動のせいで、こんな結果を招いてしまった。

「リンナ……」
小さく、力ない声が漏れる。
今頃、リンナはどうしているだろう。
きっと、かなりのケガをしているに違いない。
キリコは看護の者を付けて安静にさせていると言っていたが、それだけで済むはずがない。
間違いなく、厳しい尋問を受けているだろう。
「何で俺が関係ないとか言うんだよ、馬鹿野郎……」
リンナがベルカを庇って全責任を負おうとしたことを聞いた時は、血の気が引いた。
オルセリートはきっと、ベルカに対して重い罰を与えることはないだろう。
けれど、リンナはそうはいかない。
リンナが首謀者だということになれば、おそらく処刑は免れない。
それだけは、絶対に許せなかった。

暗い塔の狭い部屋で、ベルカは膝を抱える。
早く、リンナの無事をこの目で確かめたかった。
顔が見たかった。声が聞きたかった。
不安と後悔に押し潰されそうになりながら、繰り返し心の中でリンナの名を呼ぶ。
どうか無事であるようにと、それだけを祈るほかなかった。

ようやくリンナの姿を見ることが出来た時、無意識にベルカは駆け寄ってその腕を掴んでいた。
触れたその腕の温もりが、やっとベルカを安心させてくれた。

リンナと共に解放されてからも、ベルカはもう動くことは出来なかった。
今度何かをしようとして失敗すれば、リンナが殺されてしまう。
いくらリンナの腕が立つと言っても、あのキリコの部下達全員を相手にすれば命はないだろう。
リンナが死ぬ。
そのことを考えただけで、心臓に冷水を浴びせられるような心地がした。

嫌だ。
そんなこと……耐えられるわけがない。

この想いに応えてほしいなんて望まない。
ただ、生きていてほしい。
生きて、ベルカの知らないところででもいいから、幸せになってほしかった。

リンナがベルカのために動こうとしてくれていることは分かっていた。
しかし、ベルカはそれらを全て拒んだ。



──命など……あなたのためなら惜しくなどございません──



アルロン伯別邸で告げられた言葉が、脳裏に蘇る。
リンナのこの言葉は、間違いなく本心だ。
ベルカのためならば、リンナは命を捨てることを迷わないだろう。
そのことが、ベルカは恐ろしかった。
いつか本当に、リンナを自分のために死なせてしまうことが怖かった。

式典に乱入したホクレアの最後の1人をリンナに連れて逃げてほしいと頼んだ。
これで、やっとリンナを解放してやれると思った。
ホクレアへの伝言という仕事は残っているが、それを終えればリンナは自由になれる。
いや、リンナなら、ホクレア達と共に何とかしてベルカの元へ戻ろうとするだろう。
それでも、城の中にいるよりは遥かに安全だろうし、もう戻らないようエーコが説得してくれるかもしれない。

ホクレアを抱えていく後姿を見ながら、寂しさを抑え込む。
これでいい、上手くいったのだと──そう思った瞬間だった。

頭上に一瞬見えた柵と焦ったように叫ぶリンナの声を、認識する暇もなかった。
気が付いた時には大きな水飛沫を上げて、水路に倒れていた。
全身水浸しになりながら身体を起こして目に入ったのは…………最も恐れていた光景だった。





何故、こんなことになってしまったのだろう。
周りの水が、少しずつ赤く染まっていく。
身体が震え、瞬きをするごとに涙が零れ落ちていく。

誰よりも大切だった。
心から信じられる、唯一の人だった。
想いが届かなくても、傍にいられなくても。
生きていてくれれば、それで良かったのに。

サナで、出会わなければ良かったのだろうか。
命令してでも付いて来させなかったら、リンナは今もサナで平穏に暮らしていただろうか。

永遠の忠誠を誓うとベルカの手に口付けるリンナの姿が、揺らいで見える。
違う、欲しかったのはそんなものじゃない。
死と引き換えの永遠なんて、そんなものはいらない。



──俺が、欲しかったのは……──



エーコの声が聞こえる。
行かなければ。
この手を離して。
立ち上がって、歩き出さなければならない。
ここで自分が捕まれば、リンナが命を懸けた意味がなくなる。

手を離せ。
早く。

自分の手が、自分のものではないように上手く動かない。
必死の思いで、自らの手をリンナのそれから引き剥がす。
一つ大きな息を吸うと、ベルカはその場から立ち上がった。

縫い付けられたように重い足を動かして、ホクレアを連れて歩き出す。
後ろを振り返ることはしなかった。
振り返ったら、そうしてリンナの姿をもう一度見てしまったら、今度こそ動けなくなりそうな気がした。

エーコが連れてきた馬に乗り、王府を後にする。
新月や天狼とも再会できた。

けれど、リンナは……もう、いない。
いや、そうじゃない。
リンナは確かにいるのだ。ここに。

リンナが口付けた右手を見つめながら、ベルカは一つの誓いを立てた。



これからもずっと、「王の子」でいよう。
リンナが命を懸けて忠誠を尽くしたにふさわしい王子であろう。
彼が、自らの主を誇れるように。



一度目を閉じ、再び開いたその目で真っ直ぐに前だけを見つめる。



── 一緒に行こう、リンナ
── どれだけ苦しくても、俺は絶対に負けないから



お供いたします、と優しく笑う声が、聞こえた気がした。




後書き。

「永遠」のベルカバージョンってことで、いろいろ対にしてみました。
おかげで似たり寄ったりな感じになってしまいました。文章力欲しい。
お互い好きなくせに、叶うわけがないと諦めちゃってる2人は非常にもどかしいところですが……。
いや、リンナは生きてる。信じてますよ。
ベルカとリンナの仲が進展するのはこれからですとも!



2010年6月22日 UP




小説 TOP
SILENT EDEN TOP