1日の執務がすべて終わり、食事と湯浴みを済ませると一気に疲れが押し寄せてくる。
寝室に向かおうとしたところで、キリコに呼び止められた。
「殿下、こちらをお持ちください」
そう言って差し出されたものを、オルセリートは不審げな眼差しで見つめる。
そんなオルセリートの様子を見て、キリコが僅かに苦笑する。
「大したものではございません。ちょっとした贈り物です」
とりあえずそれを受け取り、箱から中身を取り出す。
それは、小ぶりの陶器に収められた香だった。
「近頃は特に、あまりよく眠れておいででないようでしたので」
気分を落ち着かせて眠りを誘うと言われている香です、とキリコが言い添える。
「……随分、気の回ることだな」
「あなたに倒れられては困ります」
そう告げる声は優しげに聞こえ、オルセリートは背を向ける。
「おまえが思うほど僕は繊細な人間じゃない。余計な気を回す必要はない」
「失礼致しました。ですが、そちらは折角用意致しましたものですので、どうかお使いください」
背を向けていても、胸に手を当てて礼を取っているキリコの姿が見える気がする。
了承の返事だけを告げ、オルセリートは寝室へと入っていった。
香を焚くと、仄かな香りが辺りに広がる。
確かに、気持ちが落ち着く香りだ。
ベッドに腰掛けて、オルセリートは小さく息をつく。
あまりよく眠れていない、というキリコの言葉は事実だった。
ベルカのこと、大病禍のこと、この国の執政のこと。
考えることが多すぎて、ベッドに入っても思考を止められない。
眠りは浅く、ちょっとしたことで目が覚める。
日中は普段どおりにしているつもりだったが、どうやら見抜かれていたらしい。
後ろに倒れこむようにベッドに身体を横たえ、右手の甲を額に押し当てて目を閉じる。
キリコが心配しているのは、オルセリートの人形の演技が周りにバレてしまわないかどうかだ。
決して、オルセリート自身の身を案じているわけではない。
告げる声が優しく聞こえたのも、すべて錯覚に過ぎない。
それくらい分かっているというのに、何故、胸の内がざわめくのか。
手渡された香に、ほんの一瞬、心が高揚したのは何故なのか。
心地良い香りが漂った部屋。
本来ならば、緩やかに眠りに誘われるだろう。
しかし、目を閉じても睡魔は訪れない。
「おまえの存在が、僕を眠れなくしているのだ」と。
そう告げたなら、あの男はどんな顔をするだろうか。
一笑に付してしまうか、それとも芝居がかった形ばかりの謝罪をするか。
どちらも想像できて、オルセリートは自嘲気味に笑う。
馬鹿馬鹿しい。
こんな香ひとつで思考が歪むなど、どうかしている。
僅かに唇を噛むと、香りを遮断するように掛け布を頭から被って身体を丸めた。