16.ひみつ



「ねえ、ナサナエル。この場所はね、ぼくたちだけの秘密だよ」


密やかに耳打ちされた声を、今になって思い出したのは何故だろう。



まだキリコがナサナエルと呼ばれていた、幼かった頃。
兄やを捜すためにラーゲン家にやってきて、その家の嫡子であるフランチェスコに出会った。
フランチェスコはナサナエルが避けようとするのを意に介すこともなく、ニコニコと寄ってきてはナサナエルを振り回した。

ある日半ば強引に連れて行かれた草原で、フランチェスコはそう言ったのだ。
ここは他の誰も知らない、自分だけの秘密の場所なのだと。
そんな場所に何故ナサナエルを連れてきたのか、尋ねる間もなくフランチェスコはゴロンと寝転がってしまった。
互いに膝枕をした、遠い思い出。
ラーゲン家にやってきてからずっと気を張り詰めてばかりだったが、あの時間は思いがけず緩やかな心持ちになった。
他人の前でうたた寝をしてしまったことなど、一度もなかったのに。

屈託のない笑顔で、けれど何を考えているのか分からないフランチェスコ。
気を許してはいけない相手だと幼いながらに感じ取っていた。
なのに、フランチェスコとの記憶は消えることがない。

ナサナエルにとって、フランチェスコの存在はあまりにも大きな印象を残した。
良いとも悪いとも断じることができない曖昧なそれは、だからこそキリコと名を改めた現在も昇華されることなく片隅にずっと残り続けている。

今もベルカの傍でベルカの歌を歌い続けているフランチェスコ。
ラーゲンの家を飛び出してからは『エーコ』と名乗っているようだが、キリコにとっては彼はフランチェスコでしかない。
フランチェスコにとっても、そうなのだろうか。
今なお、キリコは『ナサナエル』なのだろうか。

思考の沼にはまりこんでいたことに気付き、僅かに首を振る。
『キリコ』であることを選んだのは、他の誰でもない自分自身だ。
鳥籠を飛び出したフランチェスコと同じ道ではなく、鳥籠の中で生きていくことを選んだ。
『ナサナエル』の名を捨て、ラーゲンの家の嫡子として。
その生き方で良いと思っていた。
なのに今、遠い日の記憶を思い出してしまうのは……何の力もないと思っていた王子たちのせいだ。
オルセリート、ベルカ、ミュスカ。
自らの意思と力によって、運命を変えていこうとしている少年たち。
その姿が、フランチェスコを思い出させたのかもしれなかった。



「キリコ」
かけられた声に我に返ると、オルセリートが書類にサインしていた手を止めてジッと見ていた。
「どうした、執務中にぼんやりするなんておまえらしくないな」
そう尋ねる言葉の内容とは裏腹に、表情は楽しそうだ。
共犯者の、つけこむ隙を探している。
「……いえ、失礼致しました」
隙など見せてはいけない。
ほんの僅かな隙間からでも入り込まれれば、じわじわと侵略していこうとするだろう。
それはすなわち、破滅の始まりだ。

二人目の、秘密の共有者。
奇しくもフランチェスコと同じ金色の髪を持つこの王子は、以前の印象とは打って変わり彼に似たしたたかさを身につけてしまった。
あるいは元々存在していたそれを、キリコが追い詰めて顕在化させてしまったのかもしれない。
そんなオルセリートは共犯者としては好ましいが、心のどこかでかつての何も知らなかった純粋な彼を変えてしまったことに罪悪感のようなものを感じてしまう。
ぬるま湯の中で守られていた頃の無邪気な笑顔はもう二度と、オルセリートには戻ってこないのだろう。
黒く澱んだ秘密を、心の内に閉じ込めている限り。
キリコが気にかけることではないと分かっている。
分かっていても、考えずにはいられなかった。

秘密の共有が繋ぐ、細い糸のような関係。
これがいつまで続くものかは分からない。
ある日突然終焉を迎えるのだろうそれを、どこかで惜しむ気持ちがある。
かつて、突然いなくなったフランチェスコに抱いた感情のように。

馬鹿馬鹿しい感傷だ、と内心で呟く。
オルセリートと組んで以来、感情が揺れることが多くなった気がする。
父であるバルバレスコを出し抜くならば、こんなことではいけない。
感情を揺らせば、気取られてしまう。


すべてに蓋をして、誰にも何も悟られないように。
バルバレスコにもオルセリートにも、そして────自分自身にさえも。

けれど、きっと心のどこかで理解している。
目を反らし続けることなどできないのだろうことを。
悪あがきと言っても良い程度の、ささやかな抵抗。
それをせずにはいられない自身を滑稽だと思いつつも、止めてしまうことも出来ない。
自分がどうしたいのか、どうなりたいのかも曖昧ではっきりしない。

いつか秘密が暴かれれば、不安定な足場で懸命にバランスを取るような日々は終わるだろうか。
目的地へ辿り着くか、それとも転落するか。
いっそ、落ちてしまった方が楽になれるのかもしれない。



目が眩むほどの────金色の闇の中へ。


2012年6月10日 UP

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