甲板への扉を開けると、強い潮風が髪を揺らした。
抜けるような青空から降り注ぐ光に、目を細める。
数歩進んだところで、視界の端に見慣れた制服が見えた。
「こんなとこで何やってんだ?」
声をかけると、ロヴィスコは驚いた様子もなく振り返る。
以前もそうだったが、優男のような見た目からは想像できないほどこの男は気配に鋭い。
足音を立てずに近付いても、当然のように気付かれてしまう。
他の船員から元軍人だったらしいことを聞いてようやく納得したのを覚えている。
「少し、海を眺めていただけだ」
いつもと変わらぬ穏やかな笑み。
だが、ほんの少しそこに陰が差したように見えた。
「海なんて毎日嫌になるほど見てんだろ。よく飽きねえな」
「飽きる、か。確かに、他の色が恋しくなることもあるな」
「他の色?」
「空の青、海の青…………美しいし好きな色だが、時折、目を背けたくなることがある」
そんなロヴィスコの言葉に、ライツは僅かに目を瞠る。
いつも余裕に満ちた顔で笑っているこの男でも、そういうことがあるのかと。
考えてみれば、ロヴィスコは船長という、船員や囚人をまとめ上げて導かねばならない立場にいる。
ましてや本土が消失し、辿り着けるかも分からない先の見えない道を歩いているのだ。
普段は悟らせることなどないが、相当な精神的重圧がかかっているのだろう。
「色っつってもな、薄汚れたコンクリや枯草みてーなもんよりよっぽどマシじゃねーの」
ライツにとって思い出せる『色』は、スラムでのくすんで汚れたものばかりだ。
それに比べれば、この空や海の青の方がずっと綺麗だろうと思う。
好きか嫌いかは、別にしても。
「……そうだな、私も軍にいた頃はそんな色ばかりだった。だが……」
記憶を掘り起こすように、ロヴィスコは目を閉じる。
「一度だけ、コーネリアに連れられて研究施設内の植物園に行ったことがあるんだ」
広い温室一面に咲き誇る、色とりどりの花々。
たとえ自然界のものでなかったとしても、それはロヴィスコにとって目を奪われるものだった。
あの景色は今でも目に焼きついているのだと、そうロヴィスコは語った。
「いつか、新しい土地に辿り着けたら…………もう一度見られるだろうか」
ゆっくりと瞼が上がり、その目が海原の向こうを見つめる。
「そのときは、おまえにも見せたいよ」
あの、泣きたくなるほどの色の洪水を。
話しながら振り向き、微笑んだロヴィスコの表情はどこまでも優しかった。
* * *
ここにライツのための庭を造りたい、と告げたアルトフリートにそれを許した理由を、ライツ自身よく分かっていなかった。
民衆に神話を信じ込ませるための教会に、本来はそこまでする必要などない。
けれど、気が付いた時には許可の返事をしていた。
どうかしている、と思った。
完成するまでは待っていて欲しいという願いまで忠実に守って、そこを訪れないようにしていることも。
ステラ・マリスを見上げるための庭。
あの星が好きだなんて考えたこともなかった。
そもそも、ライツが好いて良い星ではない。
ステラ・マリスが守り導くべき存在を、ライツはその手にかけたのだから。
アルトフリートから庭が完成した報せが入り、ライツは密かにそこを訪れた。
足を踏み入れた先に広がった光景に、ライツはその場で立ち尽くした。
大きな整えられた花壇に広がる、色の洪水。
今まで見たこともないような、いや、きっと目を向けようともしてこなかったたくさんの花々。
それらが、今、ライツの視界を支配している。
「あ、あの、陛下……」
恐る恐るといった様子でかけられた声に振り向くと、両手をギュッと握り締めたアルトフリートがいた。
「その、精一杯造らせていただきましたが……お気に、召しませんでしたか……?」
立ち尽くしたライツの反応に不安になったのだろう、酷く沈んだ顔をしている。
「いや…………こんなに美しい庭を見たのは初めてで驚いただけだ」
その言葉にアルトフリートの顔が上がり、パッと笑顔が広がった。
「本当ですか! ありがとうございます!」
その嬉しそうな様子に僅かに目を細め、ライツは空を見上げた。
まだ明るい空に、星の姿は見えない。
けれど、見えなくともそこに星は変わらずあることを今はもう知っている。
『そのときは、おまえにも見せたいよ』
──ロヴィスコ、おまえが見せたかったのは…………この景色か。
咲き乱れる溢れんばかりの色。
風に乗って流れてくる仄かに甘い香り。
それはあまりに美しく優しい場所だった。
「……ありがとう、アルトフリート」
するりとそんな言葉が出てきた自分に、驚く。
だが、この場所でだけは────ほんの少し、近づける気がした。