夕暮れの教室。
すっかり人気のなくなったその空間に、2つの人影があった。
1人は机に向かって座っており、1人はその隣の机に少し凭れかかりながら立っている。
広い、静かな教室に2人きり。
夕焼けの紅い光も手伝って幻想的な雰囲気を醸し出している中、立っていた1人が動いた。
「違う! 何度教えりゃ理解出来るんだ、バカ猿ー!」
スパァァン!と、ムードも何もかもぶち壊す勢いでハリセンが宙を舞った。
「いってえええ! そんなにスパスパ殴んなよー! 体罰反対ー!」
「やかましい!」
頭を押さえて抗議する少年に男が再びハリセンを構えると、少年は渋々引き下がった。
男は玄奘三蔵といって、この斜陽学園の数学教師である。
教職について1年目の新米教師ではあるが、その類稀なルックスと大学出たてとは思えない威厳とカリスマ性でこの広い学園内でも最早知らないものはいなくなっている。
そして座ってまだ頭をさすっている少年は、この学園の生徒で高校2年生、孫悟空。
運動神経は並外れているのだが、試験等の成績は余り芳しくない。
決して頭が悪いわけではないのだが、どうも学業が余り好きではないらしい。
それ故、なかなか熱が入らずに成績も良くはならなかった。
そんな2人が夕方の人気のない教室で何をしているのかといえば、なんの事はない、ただ勉強を見てもらっているだけである。
悟空は赤点は取らないものの、教科によっては赤点ギリギリのラインにいる事が多い。
現国や世界史などはそこそこ点が取れるのだが、数学が苦手らしくていつ赤点を取ってもおかしくない。
そんなわけで、数学担当である三蔵がこうして放課後に付き合ってやっているのである。
「なあなあ、これ、どこが違うんだよ?」
ノートとにらめっこしながら首を捻っている悟空に、三蔵は赤いペンでさっと問題の箇所に印をつけた。
「ここの式が間違ってんだよ。こっちの式でy=2x2-5なんだから、これを代入するんだよ」
「あ、そっか。だったら……」
ぶつぶつと呟きながら、悟空は数式と格闘している。
「出来たぁ! なあ、これで合ってる!?」
「……ああ。この問題はな」
「やったー! 解けたー!」
「1問で喜んでどうする。次はこの例題3をやってみろ」
「ちぇー……、折角喜びに浸ってんのにー。ちょっとくらい褒めてくれたっていいのにさ」
「甘えてんじゃねえよ。試験まで1週間だぞ。付き合ってやってるだけ感謝しろ」
「分かってるけど……やっぱさ……」
悟空は拗ねたようにシャーペンをクルクル回している。
そんな悟空の様子を見て、三蔵はため息をつく。
さっき「付き合ってやってるだけ感謝しろ」と言ったのは、かなり本気である。
元々面倒くさがりの三蔵は、生徒の数学に関する質問には一応答えてはやるもののそれ以降は関知しない。
解き方を一通り教えて後は自分でやれ、もしくは友人に助けを求めろ、である。
こんな風に居残り授業をしてやるのは、悟空くらいのものなのだ。
えこひいきと言われても仕方のない事だが、全員にはやっていられない。
三蔵が居残りで教えてくれるとなると、希望する女性徒が殺到するのは目に見えている。
どうして悟空だけわざわざ時間を割いてまで勉強を見てやる気になったのか、三蔵にも今いちよく分からない。
ただ、余りに真剣に、純粋に三蔵に補習を頼んでくる悟空にダメだとは言えなかった。
一心に問題を解こうと悪戦苦闘している様を微笑ましいなどと思ってしまったりもして、そんな風に感じるのが何故だかも分からない。
分かるのは、今日で5日にもなるこの補習が不思議と面倒だとは思わないという事だけだ。
三蔵は、問題を何とか解き終わったらしい悟空のノートを手に取る。
正解なのか間違っているのか、緊張した面持ちで悟空はそれを見つめている。
少しして悟空の目の前に置かれたノートには、赤い丸がついていた。
「やった、一発正解ー!」
「だから、1問解く毎に喜んでんじゃねえ」
「じゃあ何問解いたら喜んでいいんだよ?」
「せめて今度の試験で総合30番以内に入れば、思う存分喜んでいいぞ」
「30番以内!? 無茶だよ、そんなの!」
思っているよりずっと高い順位を目標に出されて、悟空は非難めいた声を上げた。
普段の悟空の順位は100番前後なのだから、それも無理ない事ではある。
「無茶じゃねえ。大体、やる前から無茶とか言うな。情けねえヤツだな」
この言葉に、悟空が些かムッとした表情になる。『情けない』が癇に障ったのかもしれない。
「……分かった! 俺、ぜってえ30番以内に入ってみせるからなっ」
シャーペンをグッと握りしめ、悟空はまるで宣戦布告をするかのように三蔵を見上げた。
その余りに分かりやすい変化に、三蔵は内心で苦笑する。
「言い切ったな。言ったからにはやれ。出来なかったじゃ済まさねえからな」
不穏な台詞に、悟空は少し不安げな表情になる。
「す、済まさねえって……?」
恐る恐る訊いてくる悟空に、三蔵は意地の悪い笑みを浮かべた。
「そうだな……。30番以内に入れなかったら、1ヶ月間毎日数学のプリント3枚宿題としてやってきてもらう」
「毎日3枚!? って、一体毎日何問解くんだよ!?」
「1枚5問として、1日15問だな」
「他の教科も宿題あんのに、毎日15問なんて出来るわけねーじゃん!」
「出来る必要はねえ。絶対に30番以内に入るんだろ?」
「うっ……!」
言い返す言葉に詰まり、悟空はそのまま黙り込んでしまった。
少しの時間そうやって何かを考えていたかと思うと、急に悟空が顔を上げた。
「分かった。もし30番に入れなかったら、それやる」
余りの条件に前言を撤回するかと思っていた三蔵は、その宣言に少し驚いた顔を見せた。
「……よし、もう撤回はさせねえからな」
「しないってば。でも、その代わりさ、俺が30番以内に入ったら、センセも何かしてよ」
「は? 何言ってやがる」
「だって、この約束って俺にリスクばっかりでメリットないじゃん」
確かに、悟空の言う事ももっともである。
30番以内に入らなければ毎日宿題。
であれば、30番以内に入った時には何かご褒美が欲しいと思うのも当然だろう。
「……いいだろう。で、何しろってんだ? まさか1ヶ月昼飯奢れとか言うんじゃねえだろうな」
三蔵としては、それだけは冗談ではない。
大食漢として有名な悟空の昼食代を負担などしようものなら、教師の安月給など露と消える。
それならわざわざ言わなければいいのだが、ついうっかり口が滑ってしまった。
言ってからしまったと思ったが、次に悟空の口から出た言葉は意外にもその条件を否定するものだった。
「ううん、昼飯奢りもいいなーとは思うんだけど……」
とりあえず財政危機に陥らずに済みそうな事に安堵しながら、三蔵は歯切れの悪い言い方をする悟空に先を促した。
「だったら何だ。さっさと言え」
「んーっと……」
余程言いにくいのか、悟空はまだ迷っている風に視線をさまよわせている。
その顔が少々紅潮して見えるのは、教室に入り込んでくる夕日のせいだろうか。
なかなか言い出さない悟空に、次第に三蔵も苛ついてきた。
「さっさと言えっつってんだろ。いい加減にしねえと、何もしねえぞ」
三蔵の不機嫌な声に慌てたのだろう、座っていた悟空は音を立てて身体の向きを三蔵の方に向けた。
「ちょ、ちょっと待って! あ、あのさ……もし30番以内に入れたら…………一緒に遊びに行ってくれる?」
「……は?」
予想外の台詞に、三蔵は思わず間の抜けた声を出してしまう。
悟空は顔を真っ赤にしながら、まくしたてるように言葉を続けた。
「ああああ、あの、だからさ、も、目標達成のお祝いっていうか、こう、思いっきりパーッと遊びたいっていうか……えっと、あの、だからっ……」
すっかり頭がパニック状態になっているらしい悟空は、大袈裟な身振りを交えながらおたおたしている。
「……ちょっとは落ち着け。遊びに行くって、俺とお前がか?」
上から降ってきた三蔵の声に、悟空は忙しなく動かしていた手を止めた。
「うん……。でも、め、迷惑だったら、別の事にしてもいいし……」
さっきまで手をばたつかせてたのが嘘のように、悟空はシュンと大人しくなってしまった。
何となく泣きそうな感じに見えたのは、三蔵の気のせいなのだろうか。
そんな風に塞ぎ込んでいるのを見ると、三蔵はまるで自分が悪い事をしているように思えてしまう。
嫌だと言ったら本当に泣きそうだなどと思いつつ、三蔵はふと自分が嫌だと思っていない事に気が付いた。
今まで三蔵を遊びに誘う生徒は多数いた。特に女性徒は連日来ると言ってもいい。
だが、三蔵はそれらを一切の例外なくあっさりと一蹴してきた。
群れるのが嫌いな三蔵にとって、誰かと遊びに行くなどうざったい以外の何物でもなかったからだ。
だが今、悟空が言い出したその事を、何故だか鬱陶しいとか嫌だとか思わなかった。
逆に、一緒に出かけるという事について、悪くないかもしれないなどという言葉が頭を過った。
それが余りに意外で、三蔵は自分の思考にどうかしているなと思わずため息をついた。
そのため息の意味を誤解したのであろう、悟空は肩を大きく跳ねさせると俯いてしまった。
「そ、そうだよな。俺、センセの生徒だし……俺みたいな子供と遊びに行ったってつまんないよな……」
そう言って、悟空は膝に置いた手をギュッと握りしめた。
「ご、ごめん。変な事言って……。ま、また別の事考えとくからさっ……」
意識的に明るく言おうとしているものの、その声は微かに震えている。
その痛々しい様子に、三蔵は凭れていた机から身体を起こすと、悟空の頭に手を置いた。
「何1人で納得してやがる。誰もダメだとは言ってねえだろうが」
「……うん、やっぱダメだよね……って、え?」
訊き返すように無意識にあげたであろう顔は、悲しそうな表情を少し残したまま瞳だけを瞬かせていた。
「『え?』じゃねえ。その条件、のんでやるってんだよ」
「ほ、ホント!?」
「ただし、さっきも言ったが30番以内に入ったらだ。31番でも認めねえからな」
しばらくは信じられないような顔をしていた悟空だが、三蔵が本気だと知ると途端に明るい笑顔になった。
「うん! 俺、ぜってえ30番以内取ってみせるから!」
みるみる内に張り切りだした悟空に、三蔵は初めて少しだけ優しい表情を見せた。
「せいぜい頑張るこったな。……一応、楽しみにしててやるよ」
最後の方は悟空に聞こえるか聞こえないかの小さな声で、三蔵は呟いた。
1週間後、試験は無事終了し、その3日後には結果が貼り出される事となった。
悟空の順位が30番以内に入っていたのかどうかは、三蔵と悟空のみ知るところである。
後書き。
33333HITのさも様に捧げさせて頂きます!
リク内容は『パラレルの三蔵×悟空で学園もの』でした。
3つ頂いた設定の内、『教師三蔵×生徒悟空』でいかせて頂きました〜。
書き始める直前まで家庭教師と迷ったんですけどねぇ……。
これを書く上で何が困ったかって「高校の数学なんて何やってたか忘れた……」って事でしょうか……。
高校数学……微分積分とか確率統計とか? でも今はどうなんだろう……。
それはともかく、まだ恋人以前だけど互いに意識はしている2人、という感じで書いてみました。
悟空は完全に三蔵が好きなんですけどね、三蔵が今いち自分の気持ちに鈍いので。
そんなわけで、ちょっとだけ距離を詰めたって事で『レッスン1』……恋の?(アホかー!)
さも様、こんな代物が出来上がりましたが、良ければお納め下さいませv