新聞をテーブルに置き、椅子の背凭れに凭れかかる。
視線を泳がせても、いつもならそこにある姿はない。
三蔵は舌打ちをすると立ち上がり、ベッドの方へ向かうとドサリと身体を預ける。
窓の方に視線をやると、最悪な機嫌が一目で分かる表情がガラスに映っていた。
それを見て、更に気分が悪くなる。
これほど自分の感情が乱れている、その事実を突き付けられているようで。
三蔵の機嫌が極端に下降線を辿り始めたのは、2週間ほど前からだ。
街に宿を取り、珍しく悟空1人で買い出しに出掛けた。
もちろん、余計なものは買わないようにしっかり釘は差しておいたが。
別にそれはどうという事はない、ただの買い出しのはずだった。
だが、なかなか悟空が帰って来ない。
ここでいつもなら八戒が捜しに行くなりするのだが、この日はジープの調子が思わしくない事もあり、仕方なく三蔵が、煙草を買いに行くついでと称して捜しに出たのだ。
ある程度大きな街とはいえ、物資を揃えるための商店街は限られている。
割とあっさり悟空を見付け、ハリセンを準備しつつ悟空に声を掛けようとして、三蔵は気付いた。
悟空のすぐ傍に、2人の少女がいる。
見たところ、大体15〜18歳くらい……要するに、悟空とほぼ同じか少し年下くらいだ。
その少女達は、しきりに荷物を抱えている悟空に向かって話し掛けていた。
悟空の方は三蔵に背を向けている体勢なので、その表情は見えない。
三蔵の接近にもまだ気付いていないようなので、そのままさりげなく近付いてみた。
少しずつ距離が縮まるにつれ、会話が耳に届くようになる。
「旅してるんですかぁ? ヤダ、カッコイイ〜v」
「え、いや、別に俺……」
「この先に、すっごく美味しいって評判のレストランがあるんですよ〜。
一緒に食べに行きませんかぁ?」
「旅のお話とか、聞かせて下さい〜v」
「いや、いいよ、俺……これ持って帰らなきゃいけないし……」
「え〜、ちょっとだけ、いいじゃないですかぁ〜v まだこんなに明るいんだし〜」
「そうですよ〜、行きましょ、ね?」
2人の少女の片割れが悟空の腕に手を絡めるのを見て、三蔵の表情が変わる。
困ったような様子で、でも無理には振りほどかない悟空に、無性に苛立った。
その三蔵の鋭い棘のような空気が伝わったのかもしれない。
悟空がバッと後ろを振り向き、そこにある三蔵の姿に驚いている。
「三蔵!」
「……何こんな所で道草食ってやがんだ、てめえ」
「ご、ごめん……」
いつもの調子より、三蔵の声は更に低く、怒りの度合いが知れる。
それに気付いているのか、悟空もいつになく焦っているように見えた。
悟空に話し掛けていた2人の少女達は、そんな三蔵と悟空の様子を目を丸くして見ていたが、三蔵と視線が合うと、ビクリと身体を竦ませ、慌てて走り去っていった。
そんな事があって、それから三蔵は街を歩く時、少し周りを観察するようになった。
そして気付いた。
街で振り返る女達の視線が、時々悟空に向けられている事を。
今まで、そんな視線が向く先は、大抵三蔵や悟浄、八戒だった。
だからこそ、悟空を振り返っている女達の存在がその中に紛れてしまい、気付かなかった。
確かに最近、悟空は随分成長したと思う。
外見的にも、内面的にも、一人の男としてはその辺の男共より格段に上だろう。
だから、別におかしい事でも何でもないのかもしれない。
寺院で女っ気のない生活を送っていたために悟空は異性にさほど興味を持っていないが、女達から見れば悟空は魅力的に映るのだろう。
理解はしている。その事を。
それなら何故、今、こんなにも自分は苛立っているのだろう。
さっきも、この宿の娘と悟空が楽しげに談笑しているのを見て、胸がざわついた。
今までだったら、特に気にしてはいなかったのに。
どうして今更、あんな些細な事がいちいち気に障るのだろうか。
悟空が三蔵に気付いて駆け寄ってきても、まともに相手にしなかった。
キツイ言葉をぶつけて、逃げるように部屋に戻ってきた。
その時の悟空の表情から、傷付けた事は容易に分かった。
その罪悪感が、更に悟空への態度を棘だったものにした。
そして、今に至るのだが。
しばらく部屋で読みもしない新聞を眺めていたりしたものの、悟空が戻ってくる気配はない。
部屋の前を通った様子も感じなかった。
という事は、隣の八戒達の部屋に行っているわけでもない。
それなら、今なお悟空は階下のロビーにいるのだろうか。
……あの、宿の娘と一緒に。
今まで異性に興味を持たなかったからといって、これからもそうであるとは限らない。
悟空の心に直接触れてくる少女が現れたとしても……不思議ではない。
むしろ悟空の『保護者』として考えるなら、それは歓迎すべき事なのだ。
三蔵は、悟空を三蔵と同じように僧侶にする気はこれっぽっちもない。
だから、悟空が普通に同年代の少女と交流を深めるのは、本来ならば喜ぶべき事だ。
そんな事は、誰に言われなくとも三蔵には十分に分かっている。
分かっていても、それでも胸のざわつきは一向に治まらない。
『保護者』としての立場で考える事は、もはや三蔵には出来なくなっていた。
本来は自由奔放を具現化したような悟空を『独占欲』という名の鎖で縛りつけ、その翼で飛び立つ事を邪魔しているのだという事を、三蔵は自覚している。
それが、自分の身勝手な願望のためだという事も。
だが、三蔵にはどうしても、悟空が自分以外の誰かの元に羽根を下ろすのを許す事が出来ない。
自分の元へ繋ぎ止めておくための鎖を、緩めてやる事が出来ない。
「……何考えてんだ、俺は」
誰も聞く事のない呟きが、三蔵の口から漏れる。
悟空に広い世界を見せ、その視野と感情を自由に羽ばたかせてやりたいと願う心と、誰にも見せずに閉じ込め、自分だけを恋い慕わせて離したくないという欲望。
相反する想いが、三蔵の中で止まることなく渦巻いている。
どちらが正しいかくらい、分かっている。
それでも、三蔵にはそちらを完全に選ぶ事が出来なかった。
そんな自分の度量の狭さが、つくづくイヤになる。
『保護者』としては完全に失格だな、と自嘲的に笑う。
いつの間に、こんなにも心を奪われていたのだろう。
あの、瞳に太陽を宿した生き物は、三蔵の感情を全てその手に収めてしまった。
自分からいなくなる時にも、きっとその三蔵の感情を抱えたまま行ってしまうのだろう。
三蔵の元には、何一つ残さずに。
五行山で悟空を見つけた時、『やっと見つけた』と思った。
もちろん、かなり苦労して捜し出したのだから、そういう意味もあった。
だが、その時の感情はそれだけではなかった。
何故だか、その瞬間を随分と永く待ち望んでいたような、そんな錯覚に襲われた。
ようやく、逢えたと。そんな風に思った。
初めて会ったはずなのに、ずっと逢いたかった人に逢えたような気がした。
今から思えば、既にその時、三蔵は悟空に全てを奪われていたのかもしれない。
三蔵は身体を起こし、ドアの方を見やる。
その瞳にいつになく弱々しい色が混じっている事に、三蔵は気付けない。
いや、気付きたくないのかもしれなかった。そんな自分に。
しばらくそんな風に動かないまま、視線だけをドアに固定していた三蔵の耳に音が届いた。
階段をゆっくりと上がる音。廊下を歩く足音。
その音が、三蔵が見つめているドアの前で止まった。
その状態のまま、ドアの前の人物は動かない。
三蔵もまた、声を掛けることはしなかった。
やがて、意を決したようにドアがノックされ、続いて聞き慣れた声がドア越しに響いてきた。
「……三蔵、入っていい……?」
声が小さいのは、さっきの階下での事を気にしているからだろうか。
「…………入れ」
それだけを、告げる。
数瞬の空白の後、キィ……と控えめにドアが開かれる。
その隙間から、不安げな顔をした悟空が部屋に入ってきた。
「あ、あのさ、三蔵。俺、なんか、三蔵を怒らせるような事したかな……。
もしそうなら、言ってくれれば……俺、謝るから……」
懸命に、悟空は三蔵にさっきの態度の理由を尋ねている。
分からなくて当然だろう。悟空に非などありはしない。
三蔵の、思わず溢れ出た『嫉妬』なのだから。
「……別に、怒ってねえよ」
「え、でも……」
三蔵の言葉に、悟空はかなり戸惑っているようだ。
こんなあからさまに機嫌の悪そうな表情をして、「怒ってない」と言われても俄かには信じられないだろう。
「お前に怒ってるわけじゃねえ。だから、お前が気にする必要はない」
「俺に怒ってないって……じゃあ、誰に怒ってるんだよ……?」
その問いに、三蔵は答えてやる事は出来なかった。
三蔵が黙っているので不安になったのか、悟空が三蔵の隣に座り、三蔵の腕を掴んだ。
「三蔵。俺、三蔵の傍にいちゃ迷惑なのか……? イヤだよ、そんなの……。
俺、ずっと、ずっと、三蔵と一緒にいたいのに……。絶対に、離れたくないのに……!」
三蔵の腕を掴む手に、力が込められる。
泣きそうな顔で、三蔵の瞳を真っ直ぐに見上げている。
……どうして。
コイツは自分が言えない事を、こうもあっさりと言ってのけてしまうのか。
どうして、そんなに懸命に手を伸ばせるのだろうか。
拒絶される事が怖くて手を伸ばせない、そんな自分の弱さが突き刺さった。
焦がれたのは、この真っ直ぐな強さ。
こんなに頼りなげに見えるその中に、強く輝くその光。
何者も遮る事の出来ない、その光に心を貫かれた。
無意識に、手が伸びた。
悟空を引き寄せ、腕の中に抱きしめる。
「さ、三蔵……?」
悟空が驚いたように呟く。
三蔵は何も言わずに、ただ、強く抱きしめた。
何も……言えなかった。
悟空の手の暖かさを、背中に感じた。
そして、髪に何かが触れた。
悟空が三蔵の髪を撫でているのだと気付くのに、数秒を要した。
この暖かさを、1秒でも長く感じていたいと思った。
いつか終わりが来てしまうとしても、せめて、その最後の瞬間まで。
後書き。
5000HITのニヒ様に捧げます!
リク内容は『悟空も女性に声をかけられることが多くなってきて、煮詰まっていく三蔵さま』との事でした。
が。すみません、1回しか声掛けられてません……。ま、まあ行間で掛けられてるんですよ、きっとv
私なりに精一杯煮詰まらせてみたつもりなんですが、どんな感じでしょう。
何だか「煮詰まってる」というよりも「ぐるぐる回ってる」と言った方が正しいかも……?
ウチの三蔵様って、本当に悟空がいなきゃダメダメです。
ちなみにタイトルの「無言の恋」は月見草の花言葉です。
三蔵ってきっと、こういうのは上手く言葉に出来ないだろうと思いまして、使ってみました。
ひたすら1人でぐるぐるぐるぐる回りまくってますね……。
ニヒ様、こんなのなんですが、どうぞ受け取ってやって下さいませ〜v